市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第20講

第U部 神の民の歩み

10 聖霊の愛を求めて

愛の喜びと苦悩

 愛のない人生は砂漠である、とよく言われます。人間は、どのように物が豊富になり、生活が便利になっても、愛がない人生は空しいものだと感じるようです。逆に、どのような苦労の中でも、愛が人生を生きるに値するものにします。愛は人間に生きる喜びを与えます。このことは多くの人が実感し、語ってきました。
 ところが、人間に生きる喜びを与えるこの愛が、同時に人間の苦悩の種になっているのも事実です。愛が受け入れられない時、愛が報われない時、愛が裏切られた時、愛によって相手を独占しようとしてできない時、心は深刻な寂しさや激しい怒りや燃える嫉妬に狂うようになります。愛が人間の生命の根幹に触れるものだけに、愛のゆえに生じる苦悩は、他の人生の苦労に比べてはるかに深刻で激烈なものになります。その苦悩は人間の存在の根底を揺さぶり、自分自身や相手を殺すにいたることにもなります。
 このような愛の矛盾と苦悩から救われるためにはどうすればよいのでしょうか。わたしたちに最も身近な宗教である仏教では、人間の愛というのは所詮愛欲、渇愛、我執にすぎないのであって、それが苦悩の原因となっているのであるから、それを断つことによって人間は愛の苦悩から救われるとしているようです。一口に仏教と言っても、その内容は実に様々で、仏の慈悲、慈愛に救いの拠り所を求める信仰もあるのは事実です。しかし、仏教本来の基本的な立場は、人間の内なる愛欲を滅することによって苦悩から逃れるという方向にあると言えます。仏教が理想とする境地である涅槃(ニルバーナ)は、本来愛欲や執着の「炎が消えている」状態を指すものです。
 人間の自然の愛を我執と観じて、それを滅することによって悟りの境地に到ろうとする方向は、禁欲的な傾向にならざるをえません。自然の愛を断念して、ひたすら真理の探求に精進する者だけが、苦悩から解放されて悟りの境地に達することができることになります。しかし、凡人にはこのような厳しい道を歩むことはできませんし、また、自然の愛を滅することは、人間の命の豊かさを犠牲にすることになるのではないかとも考えられます。

聖霊の賜物としての愛

 福音は、男女、夫婦、親子、友人の間の愛というような、人間の自然の愛を断念することを求めません。福音は信じる者に聖霊によって神の愛を注ぎ入れ、聖霊によって人間の自然の愛を変容して、愛の矛盾を克服しようとします。愛の矛盾と苦悩の中にある人間が必要とするのは、自然の愛の断念ではなく、聖霊による神の愛の注ぎであり、それによる愛の変容です。
 イエスは神の無条件の愛を身をもって示されました。善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ雨を降らせる神の愛、受ける側の資格を問わない無条件の父の愛、報いを求めず自らを与える慈愛、イエスはこのような愛をもって生き、語り、貧しい者と交わり、救いを与えていかれました。そして、神に背く者、自分に敵対する者たちの救いのために自分自身を捧げ、十字架の上にその命を注ぎ出されたのでした。
 今、イエス・キリストの福音を聴いて信じる者は、キリストが十字架の死によって成し遂げられた贖いによって罪を赦され、復活されたキリストを通して約束されていた神の霊、聖霊を受けます。この聖霊の賜物こそ、人間を救ってくださる神の働きの中身です。聖霊が注がれる時、神の愛が心に注がれます。イエスが生き、示されたあの無条件の神の愛が心の中に注ぎ込まれて、わたしたちは人間の自然の愛とは次元の違う聖なる愛が自分を支えてくださっていることを体験します。
 わたしたちの中に注がれた聖霊は、わたしたちの中で様々な働きをしてくださいます。その働きの中心的な内容は、復活されたキリストを示し、このキリストにわたしたちを結びつけることです。すなわち、キリストの十字架に合わせられて自我が死に、復活されたキリストの命に生きるようにすることです。新約聖書が「エン・クリストー」、すなわち「キリストにあって」とか「キリストに結ばれて」と言っている現実に導き入れることです。
 聖霊はこの他にも、わたしたちがこの信仰によって人生を生き、この信仰の交わり(エクレシア)を形成するために、わたしたちの中でさまざまな働きをしてくださいます。その多様な働きの姿がコリント人への第一の手紙の十二章から十四章にかけて詳しく語られています。知恵の言葉、知識の言葉、病気を癒し奇跡を行う力、予言や異言を語る力などが同じ御霊の働きないし現れとして語られています。そのような聖霊の特別の働きは「賜物(カリスマ)」と呼ばれ、初期の教団では豊かであり、尊ばれていました。そのような聖霊の働きを受けている信徒の群れに対して、使徒パウロは聖霊の最高の働き、最も価値ある現れとして、愛を指し示すのです(十三章)。
 聖霊の働きによって、異言や予言というような不思議な現象があっても、神の世界の神秘や知識に通じていても、驚くべき奇跡の力を現しても、また、全財産を施す慈善のわざや、信仰のために命を捨てるほどの献身を見せても、愛がなければまったく無意味であるとパウロは言い切っています(一三章一〜三節)。そして、この聖霊の愛がどのような働きをするのかを示した後(四〜七節)、再び愛が最高のものであることを語っています(八〜一三節)。 すなわち、予言や異言や知識などの賜物は、聖霊の賜物としてそれ自体尊いものであるが、愛に比べると「部分的なもの」にすぎません。それは、知識や預言の内容が神の世界の全部でなく部分的であるだけでなく、そのような賜物は一部の人に、ある特定の時期だけ与えられるものにすぎないからです。それに対して、愛は「完全なもの」と呼ばれています。愛は神の命の完全な現れであり、あらゆる時代のすべての人に必要なものです。愛こそ神が人間に与えようとされている究極の賜物です。
 この聖霊による愛が人間に到来する時、人間は幼子の段階を脱して、成人の段階に達するのです。さまざまな宗教的現象や知識や制度などは一時的なものであり、やがて廃ります。それに対して、信仰と希望と愛とはいつまでも残る永続的なものですが、その中で最大のものは愛である、とパウロは断言しています。このように、あらゆる宗教現象の中で愛を最高のものとするところが、キリスト教が「愛の宗教」と言われるゆえんです。

愛は駆逐する

 では、この聖霊の働きとしての愛が人間の中に現われる時、愛はどのような姿をとるのか、四〜七節でパウロが語るところを聴きましょう。
 まず、「愛は寛容であり、愛は惰深い」と言われています。寛容というのは相手の価値や自分との違いにかかわらず、あるがままの相手を受け入れ、その結果生じる痛みは自分の側に引き受けて耐える態度であり、情深いとは相手の立場になってその苦しみを共感し、報いを求めないで助けようとする心です。これは、イエスに現されていた無条件の神の愛を、別の名称で描いたものに他なりません。
 続いて、「(愛は)ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」と言われています。ここで、聖霊の働きとしての愛がすべて、「愛は〜しない」という否定の形で描写されていることが注目されます。では、否定されているものは何かというと、それは結局人間本性の奥底に巣くっている自我心です。それが本来人間にとって生きる喜びであるべき愛を、最も深刻な苦悩に変えてしまう毒素です。
 まず「ねたみ」があげられています。嫉みは人間の自然の愛に常につきまとう病の症状です。自然の愛の中でもっとも純粋だと思われる母親の子に対する愛も、この病に侵されると、嫁姑の確執となって家庭を苦悩に陥れることになります。人間の自然の愛の典型である男女間の愛や夫婦の愛も、嫉妬によって負いがたい苦悩の種になります。嫉みとは結局人間の本性的な自我心から発する独占欲に他なりません。相手の愛を自分だけのものにしたい、あるいは他者と比べて自分が劣っていることに耐えられない心です。聖霊の愛は自我心を打ち砕くので、もはや愛を独占しようとしたり他者と比べたりすることなく、相手と自分との間の愛に満ち足りて喜ぶことができるようになります。すなわち、聖霊によって人間の自然の愛から嫉妬が駆逐されるのです。
 次に「高ぶり」や「誇り」が駆逐されます。自我心は当然自分の価値を誇り、他者よりも自分が高い場に立って支配することを求めます。このような高ぶりの心が愛の中に入り込んでくると、愛は体裁のよい支配関係にすぎないものになります。たとえば夫婦関係で、夫が社会的・経済的に強い立場にあることを誇って高ぶり、妻を支配しようとする場合が多いようです。そのような関係がずっと続くと、夫婦間係は世間の体裁と生活の便宜だけの、愛の喜びのない味気ないものとなり、人格や自由を抑圧された忍従だけの生涯だと感じてきた妻から、定年の時に離婚を迫られる羽目になるのです。
 「不作法」とは自分の分を超えた行為と考えてよいと思われます。自我心はしばしば、愛を口実にして自分の限度を超えた要求をします。また、うわべは献身の形をとりながら実は「自分の利益」や快楽のために相手を利用している場合があります。そして、自分が求めるところが満たされないと、欲求不満から「いらだち」、自分を満足させてくれない相手に対して理不尽に「恨みをいだく」ようになります。このような人間の姿は、愛の仮面をかぶった自我心の働きに他なりません。ところが、聖霊によって神の愛に触れるとき、自分をゼロとして神の恩恵だけに基づいて生きるようになるので、もはや自分の欲求が満たされないことを不当として、いらだったり、相手を恨んだりすることはなくなります。聖霊は、愛の仮面の背後に隠されている自己追求という「虚偽」を暴き、真実に中身のある愛、すなわち「真理」だけを追い求めさせます(六節の「不義」は「真理」との対照で用いられているので、ここでは「虚偽」「欺瞞」の意に解してよいでしょう)。こうして聖霊による愛は、人間本性の奥底に潜む自我心を駆逐して、自然の愛から毒素を抜き去るのです。

聖霊による愛の変容

 このように、聖霊の働きとしてわたしたちの中に生まれる愛は、人間の自然の愛に潜んでいる自我心を克服して、わたしたちを愛の矛盾と苦悩から解放します。わたしたちは人間の自然の愛を断念したり、押えつけたりする必要はありません。わたしたちは自然の愛が聖霊によって変容され、もはや自我心によって毒されることのない、純粋な愛に変えられることを求むべきです。自然の愛を脱ぎ捨てるのではなく、その上に聖霊の愛を着ることを追求すべきです。これが、福音が与える愛の問題の解決の方向です。
 人間の生まれながらの本性には深く自我心が刻みつけられており、聖霊に導かれて歩む者の中においても、百パーセント克服されているということはありません。しかし、聖霊の愛によって愛することを知った魂は、愛の中にある自我心という虚偽を鋭く見分けて、ますます聖霊の愛を追い求めないではおられないようになります。
 また、愛というのは相手があることであるし、自分が置かれている状況も実にさまざまです。相手と状況によっては、愛に生きることは多大の犠牲を要求したり、極度の忍耐を必要とすることがあります。自分の力では耐えられないように感じる時もあるでしょう。しかし、聖霊の愛は「すべてを包み、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを担う」(七節私訳)のです。どのような相手でも、また、どのような状況でも、大海のように包み込み、大地のように担いぬき、将来の栄光を望み見て、信じぬくのです。こうして、「愛はすべてに打ち勝つ」、すなわち、どのような逆境も克服して勝利するのです。愛における自分の無力を知れば知るほど、神の賜物としての聖霊の愛を慕い求めないではおれません。
(アレーテイア 46号 1990年9月)