市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第19講

第U部 神の民の歩み

9 福音と自由

 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

(ガラテヤ書 三章二三〜二五節 新共同訳)

自由への願い

 最近のテレビで印象深かったのは、何千人もの東ドイツの人々が西ドイツに脱出した様子を見たことでした。その時の嬉しそうな表情が、何ページもの報告文にまさって事態の真相を伝えていると感じられました。豊かさへの憧れもあったかもしれませんが、彼らは何よりも拘束から解放されて、自由のある世界に入っていけることが嬉しかったのだと思います。また最近の新聞などで、社会主義体制の国々において経済が停滞し、自由競争の原理を導入したり、ある程度個人の自由な経済活動を認めたりして、生産を上げようとしていることが報じられています。
 こういうことを見ていますと、人間が能力を十分に発揮するには自由が必要であることが分かります。外からの拘束を受けて生きることは、その分人間性が圧殺されていると感じ、拘束を払い除けて自由になりたいという願いが、人間本性の中にあるようです。多少飛躍しますが、魚が水の中でしか生きていけないように、人間は自由のあるところでしか人間として生きていけないと言えるようです。先進国といわれている国々は長い歴史的な苦闘を経て、自由が人間にとっていかに基本的な権利であるかを認めるようになり、自由の原理の上に社会を構成するようになったのです。現在の日本国憲法もそういう人類の長い苦闘の結果生みだされた遺産を継承しているものです。人類の歴史を自由の進歩の歴史と見た哲学者がいたことも思い起こされます。
 しかし自由を保証された社会も、実際には人間の自由な振舞いのために様々な問題を引き起こし、放置すれば自由の原理が、いや社会の存続すらも危険にさらされるというような状況で、いろいろな規制を加えていかなければならなくなっています。統制や拘束の多い社会主義体制に対して自由主義の優秀さを誇る国々も、その自由から生じる様々な矛盾を抱え、制度の改革や規制の強化でそれを乗り切ろうと必死の努力をして、かろうじて自由主義の看板を維持しているのが実情でしょう。こういう事実を見ていますと、人間が自由を実現することは何と難しいことかと思います。
 自由実現の難しさは社会という大きな問題だけではありません。個人の生涯においても、自由を実現するには多くの戦いがあります。人間は自由でなければ、すなわち外から強制されるのではなく、自分の内面から自発的に発する欲求によって行うのでなければ、身につく学習も創造的な事業も成し遂げることはできません。また、信頼と愛によって結ばれた美しい人間関係を持つこともできません。自由でなければ、総じて人間として生きる内面的な充実感(生きがい)は持ちえないものです。それで、個人の生涯においても、多くの犠牲を払ってもまず自由を確保したいと願うのです。

養育係としての律法

 自由というとまず、外から加えられる様々な拘束や規制から解放されて生きることであるという面が思い浮かびます。確かに、あれはしてはいけない、これをしなければならない、と規則で縛られていたり、周囲の事情に強制されているところに自由はありません。自由がなければ人間として生きる充実感がありません。それで、自由を求める人間本性は、まず拘束からの解放を求める願望として現れます。けれども、あらゆる拘束から解放されて、各人が勝手気儘に自分の欲するところを行うことになれば、人間は必ずお互いに傷つけあっても、自分の欲望の充足に走ることは避けられません。このことがよく分かっているので、社会を構成して一緒に生きなければならない人間は、道徳や法律というような社会の規則を造って、各人の行為や生き方にある程度の拘束を課し、枠をはめざるをえないのです。
 自由に関してまことに初歩的なことを申し上げましたが、このことからもすでに、自由には拘束からの解放という面だけではなく、別の内容が必要であることが分かります。ではいったい、人間をあらゆる拘束から解放して自由を実現させるものは何か。このことを考えますといつも、冒頭に掲げました使徒パウロの手紙の中の一段が思い浮かぶのです。ここには「自由」という言葉は出てきません。むしろ「信仰」が主題になっています。けれども、信仰が「律法」との関係で取り扱われていることによって、今問題にしております自由の実現について、きわめて示唆深い内容になっています。しばらく一緒にこの一段が語っていることを聴いてみましょう。
 ここで律法が「養育係」にたとえられています。「養育係(パイダゴーゴス)」というのは当時の奴隷制社会において、主人の息子が幼少の間、生活の世話をしたり、通学に付き添ったり、家庭教師の役をしたりして、少年をしつけ養育する役目の奴隷です。やがて父親の全資産を相続して主人になる者も、成人するまでは奴隷の養育係の下で監督され、しつけられ、教育されるわけです。同じ事がすぐ後で次のように語られています。

 「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても、僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは、後見人や管理人の監督の下にいます」。(ガラテヤ書四章一〜二節)

 では、ここで養育係にたとえられている「律法」とはどういうものでしょうか。これは直接的にはユダヤ教の全体系を指します。一つの宗教教団であったユダヤ民族にとって、聖書は神の意志と戒めが啓示されている聖なる書であり、その聖書の解釈や戒めを実行するに当たっての細則など律法学者たちが蓄積した伝承も神の聖なる戒めでした。このような形で神がご自分の民の在り方について求めておられることの全体が「律法」とされていたのです。ですから、彼らにとって「律法」とは、彼らの宗教、学問、道徳、法律の全体系であったわけです。律法に従って彼らは主なる神への祭儀を執り行い、律法を教えることが教育であり、律法を学び悟ることが彼らの知恵と教養であり、律法にふさわしく生活することが賞賛に値する社会人の資格であり、律法により裁判が行われ刑罰が科せられたのです。
 このように人間の在り方を全体的に規定する宗教体系全体が、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった」とされたのです。これはじつに示唆深い洞察です。普通宗教は人間の在り方を規定する最高究極の基準とされます。その宗教がここではさらに高い目的を目指し、ある限られた期間だけ役割を果たすものとされているのです。その目的が実現する時には、もはやその役割を果たしたものとして舞台から退場するべきものとされているのです。そして、ここで「律法」について言われていることはユダヤ教についてだけでなく、どの民族のものであっても、また宗教とか道徳とかどのように呼ばれていても、人間を外から規制しようとする規範すべてについて言えることなのです。それらは人間が未成年の期間だけ、人間を監督したり、しつけたりして、成人の状態に至らせるための役目を果たすものにすぎないのです。
 その目的がここで「信仰」と呼ばれ、「キリスト」と名づけられているのです。わたしたち人間が「律法」という養育係の下に監視され、閉じ込められていたのは、「信仰」が現れるまでのことでした。「信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係(律法)の下にはいません」。わたしたちは律法という外から人間を縛る規制から解放されているのです。ここで自由が実現しているのです。そうすると、ここでパウロが「信仰」と呼んでいるものが、わたしたちが漠然と宗教用語として用いている信仰とは違うものであることがうかがわれます。この譬から、ここでいう「信仰」は、律法あるいは宗教というものが人間がまだ未成年の期間だけ監督教育して導こうとしていた目標、成人した人間が到達する究極の境地を指していることが理解できます。

信仰による自由の実現

 ここで「信仰が現れる」とか「信仰が啓示される」という表現が使われています。パウロが言う「信仰」は、何か人間の決意や行為から生じる人間の在り方ではなく、神から与えられる人間の在り方の新しい段階を指しています。時満ちて神は御子を世界に遣わされました。すなわち、主イエス・キリストです。そしてこのキリストの十字架の死と復活の出来事の中で、人間を罪の力の支配から解放し、神の子として受け入れるための業を成し遂げてくださいました。今や人間は誰でもこのキリストの御名を信じ、この方に自分の全存在を投げ入れて生きる、すなわちこのキリストと結ばれて生きることによって、神の霊を受け、神に属する者、神の子となることができるのです。

 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」。(ガラテヤ三・二六)

 ここの「信仰により」と「キリストに結ばれて(エン・クリストー)」は同格、すなわち同じ事を言い換えていると見てよいでしょう。信仰とは復活されたキリストに結ばれ、十字架の贖罪に与る者として、神の霊によって生きる新しい次元の人間の在り方、すなわち「キリスト信仰」のことです。この「信仰」はキリストの到来によって啓示され、人間の間に実現しました。この「信仰」によって初めて、人間は成人の段階に達したのです。
 この「信仰」が現れるまでは、人間は律法という養育係の下に閉じ込められ監視されていました。自由ではありませんでした。しかし「信仰」が現れた今は、この養育係から解放されて、もはや外からの拘束に縛られることなく、内にある神の御霊から発する力によって生きるのです。ここに自由が実現しています。信仰こそ自由を実現する力です。いや、信仰こそ自由の実質そのものである、と言うべきでしよう。信仰が現れた時、自由が現れたのです。
 この自由によって愛が可能になります。外からの規範に従ってする善い行為をいくら寄せ集めても愛にはなりません。いくら部品をつなぎ合わせても生命を作り出すことはできないのです。愛は生命です。神の生命です。信仰によって神の生命である御霊を内に宿し、その御霊によって生きるようになる時(これが自由です)、はじめて愛が人間の中に実現します。自分本位の生まれながらの人間本性の中で、この愛は呻きながらしか生きられませんが、とにかく愛が始まります。預言者が「終わりの日には、神の律法が石の板にではなく、人の心に書き記される」と語ったことが成就するのです。これが成人した人間の姿です。パウロも愛こそ成人した人間の姿であると語っています(コリントT一三・八〜一一)。
 自由の実現は人類の永遠の課題です。養育係(パイダゴーゴス)の仕事である教育(パイデイア)とは、人間を自由へと訓練することです。宗教、道徳、法律を総動員して行われてきたこの訓練はなかなか成功しませんでした。その世界に向かって福音は、自由は神の子が神から相続する資産であること、信仰によって、すなわちキリストに結ばれることによって(エン・クリストー)人間は成人に達し、この自由という資産を受け継ぐものであることを告知するのです。このように外からの拘束から解放されて生きる自由は、成人した人間、成熟した人間性において初めて実現するのです。
(アレーテイア 37号 1989年11月)