市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第18講

第U部 神の民の歩み

8 生きるはキリスト

死生を超えて

 使徒パウロは各地の信徒にあてた手紙の中でしばしば、「わたしに倣う者になれ」と書いています(たとえばフィリピ三・一七)。キリストに結ばれて生きるとはどのような生き方であるのか、パウロは自分の生き方を模範として差し出しているのです。手紙は、論文と違って、書く人の人柄や生き方が自然に出てくるものです。今回は、「フィリピの信徒への手紙」に表れているパウロの生き方によって、キリストに結ばれて生きる者の生き方とはどういうものかを見たいと思います(引用は新共同訳)。
 この手紙を読んでいて最初に驚くのは、獄中にあって死の危険に直面して日々を送っているパウロが、「死ぬことは利益なのです」(一・二一)とか、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(一・二三)と言って、死を超越した心境にいることです。このような死を超越した境地は、古来人間が求めてやまないものでした。パウロがこのような境地に生きることができるのは、厳しい修業とか瞑想三昧の悟りによるのではなく、信仰によって復活のキリストに結ばれて生きているからです。「死ぬことは利益である」と言えるのは、「わたしにとって、生きるとはキリストである」(一・二一)という事実があるからです。今現実にキリストに結ばれて生きているから、「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望」することができるのです。現にいま結ばれて共に生きているキリストが、死の向こう側の世界でも支配しておられることを知り、地上の体の弱さを脱ぎ捨てたかの世界ではさらに深く結ばれてキリストと共にいることを希望することができるからです。
 「わたしにとって、生きるとは何か」。人によって実にさまざまな答えがあるでしょう。けれどもキリストに属する者にとって答えは一つです。生きるとはキリストを生きることです。わたしの罪のために十字架され、わたしの義のために復活されたキリストの事実を生きる根拠にし、栄光のキリストの像に達することを目標にして、キリストの生命と力を受けて生きることです。これは人間の努力でできることではありません。福音が約束している聖霊を信仰によって受け、聖霊によってキリストを示され、キリストと結ばれて生きる現実を与えられるのです。すべては神の恩恵による事態です。恩恵によるものですから、人間の側の価値に関係はありません。どのような人でもこの現実に入っていくことができます。
 ですから、このような死生の矛盾を超えた境地に生きることは、使徒パウロのような人物だからできたことではありません。キリストにある者は誰でも入っていける境地です。この世では無名の取るに足りない小さい者でも、高僧とか哲学者でも到達できなかつた死生を超越した境地に生きるようになるのです。

自分を無にして

 二章に入ってパウロはフィリピの信徒に、謙虚な心でお互いに仕え、愛の交わりを実現するように勧めていますが、その際、へりくだる心の原型としてキリストの姿を指し示しています(二・一〜一一)。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。イエスは、とくに十字架の死に至るまで神の御旨に従われたイエスの姿は、自分を無にされたキリストの姿であるわけです。ですから、お互いに謙虚な心で仕え合うという姿は、一つの道徳的な徳目とか目標ではなく、キリスト者にとっては、キリストご自身がそうであったように、神の前に「自分を無にする」という在り方の現れなのです。
 この「自分を無にする」ということこそ、キリストに属する人間の最も根源的な姿です。人間が自分の知恵や努力で成し遂げたことは、どれほど立派でも、神の栄光に達することはできません。むしろ自分の功績や価値に誇る心が、神の裁きを招きます。人間は自分を無にして、神が恩恵によって差し出してくださっているものを無条件で受けさせていただく時、はじめて神の生命とか栄光に与ることができるのです。これが信仰です。
 キリストも自分を無にされたので、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」のです。わたしたちも自分を無にして、キリストにおいて神が差し出してくださっている恩恵を受け取る時はじめて、罪の赦し、聖霊の賜物、復活の約束が与えられて、キリストに結ばれて生きる生き方が始まるのです。
 ですから、キリスト者の在り方は「自分を無にする」という姿が基調になっています。神の前に自分を無にする者は、人との関係においても、自分を主張して他者を支配しようとするのではなく、自分に求めることなく、他者に仕える者となります。能力ある強い者が力によって弱い者を支配するのでなく、その能力をもって弱い者に仕える社会が実現します。「狼が小羊と共にやどる」という預言が成就します。

キリストの内にあって

 三章に入ってパウロは「肉に頼る」者たちを警戒するように注意を促した際、彼らとの対照で、キリストに属す者を「肉に頼らず、神の霊によって歩み、キリストだけを誇りとする」者と称しています(三・三)。「肉に頼る」とは、宗教、道徳、教義、知識、技術など、人間の側で積み上げたものを神との関わりの土台としようとすることです。このようなものに頼り、また誇りとすることができるという点については、パウロは当時で一流の人物でした。けれども、パウロは「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それを塵あくたとみなしています」と言っています(三・七〜八)。「キリストを知る」ことは、このように断言することができるほどに、たしかに素晴らしいことです。
 「キリストを知る」とは知識として知ることではありません。生けるキリストとの交わりの中で、キリストの現実を体験して知ることです。「キリストを生きる」、あるいは「キリストに生きる」ことと実質的には同じことです。このような意味で「キリストを知る」ことは、他の何を所有することよりもすばらしいことです。たしかにこれに較べると、他の一切は塵あくたに見えます。それは、「キリスト」とは単なる一個人ではなく、世界よりも大きい方だからです。「キリスト」とは、その中に神の世界救済の隠された御計画と御業のすべてが含まれている方だからです。
 このような「キリストを得る」ことは、神の宇宙的な救済に与ることですから、他の何を失っても惜しくはありません。けれども、人間は自分の力で「キリストを得る」ことはできないのです。パウロはすぐ、「キリストの内にいる者と認められる」と言い直しています。そのためには「自分の義」では駄目なのです。いくら熱心に宗教や道徳を順守しても、そのような人間が形成する立派さでは、「キリストの内にいる者」とは認められないのです。むしろそういう立派さが何もない者として、ひたすらキリストにおいて差し出されている神の恩恵に全存在を投げかけるという信仰以外に道はありません。この「信仰に基づいて神から与えられる義」だけが、人を「キリストの内にいる者と認められる」者にします。
 「キリストの内にいる」(エン・クリストー)、これが一切です。キリストと結ばれて、その死の形に合わせられて歩む時はじめて、身をもって「キリストを知る」、すなわち「キリストの復活の力と苦難の交わりとを体験する」ことができるのです(三・一〇)。十字架と復活は一体です。十字架の道を歩むことなく復活の力を体験することはできません。復活の力を知ることなく十字架の道を歩むことはできません。この十字架と復活の道を歩むとき、その道の到達点として「死者の中からの復活に達する」ことを、人生の目標とすることができるようになるのです(三・一一)。

死者からの復活に達する

 たしかにわたしたちはこの地上の歩みの中で、聖霊の働きによってある程度、キリストの苦難にあずかり、その復活の力を味わうことができます。しかし、この肉の体の中にいる限り、まだ目標に達していません。この地上にいる限り、「なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(三・一三〜一四)。これが「キリストにある」者にとって、生きることなのです。パウロはこの点について、キリストを信じる世々の人たちに、「わたしに倣う者となりなさい」と呼びかけているのです(三・一七)。
 「死者からの復活に達する」ことが、神が人間に与えてくださる栄光であるならば、それに達しないことは、地上でいくら栄華をきわめても、その最後は滅びにすぎません。この世のことしか求めない者たちには、キリストの十字架は無意味なものです。けれども復活を目標に生きる者には、目標に達するためのただ一つの道です。世界は地上のことだけを求めて、キリストの十字架に敵対してとうとうと流れております。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(三・二〇〜二一)。

喜びに満ちて

 最後にパウロは、このような目標を目指してキリストにあって生きる者に、実際的な勧めを与えています。その第一は「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」という喜びの勧めです(四・四)。キリストに生きる者の人生の基調は喜びです。「喜びなさい」という勧めは、聖霊が与えてくださる内に溢れる喜びと響き合う勧めの言葉です。聖霊の喜びがないのに「喜べ」というのは、無理な注文です。キリストにある者は規則を守るために苦行する者の渋面ではなく、どのような境遇でも、無条件に救われた者の感謝と喜びに輝く顔で生活する者です。
 このような感謝と喜びの中で、生活上のどのような境遇でも、思い煩うことなく、神に祈り求めて生きるように勧めています。それがキリスト者の平安の秘訣です(四・五〜七)。また、キリスト者の生き方はこの世から見れば確かに特別な面がありますが、決して常軌を逸したものではありません。「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべ清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と言われています(四・八)。
 パウロは以上に見てきましたように、「わたしにとって生きるはキリスト」という人生を徹底的に生きぬいてきました。このキリストを世界に宣べ伝える使命を忠実に果たしてきました。その歩みは苦難に満ちたものであり、現にいまパウロはこの福音のために捕らえられて獄中にいるのです。その中で「わたしは貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてのことが可能です」と言うことできるのです(四・一二〜一三)。キリストに生きる人生は、このようにいかなる境遇にも負けることなく、復活という目標に向かって、限りなく前進するのです。
(アレーテイア 31号 1989年4月)