市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第16講

第U部 神の民の歩み

6 あなたがたはわたしを見る

 「もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるであろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」。

(ヨハネ福音書 一四章一九節)

初期教団の聖霊体験

 キリスト者は神から賜る聖霊によってのみキリスト者でありえます。この大切な聖霊の働きについて主イエスはどのように教えてくださっているのか、これを求めて共観福音書を開いてみると、意外に少ないのに気づきます。信仰のゆえに迫害されて法廷に引き出される時、語るべきことについて心配するな、聖霊が語ってくださるから、という予告的なお言葉があるだけです(マルコ一三・一一と並行箇所)。ルカは求める者に聖霊が与えられること(一一・一三)、また聖霊によってバプテスマされることを、イエスが「父の約束」として語られたことを示唆していますが(使徒行伝一・四〜五)、共観福音書全体としてはきわめて少ないと言えます。
 ところがヨハネ福音書を見ると、十字架にかけられる直前に弟子たちと過ごされた最後の夜の訓話(一三〜一六章)で、主イエスは聖霊の働きについてかなり詳しく語っておられます。この訓話は全体として、イエスが去られた後、弟子たちがこの世の迫害の中で信仰の証を立てることを基調としていること、また聖霊が「弁護者」(新共同訳)という法廷的な用語で語られていることから見て、共観福音書の法廷での聖霊の働きについての教えを拡大したものという面があることがうかがわれます。
 しかしそれだけではありません。この訓話には使徒時代の教団が体験した聖霊の働きが濃縮されて語られています。使徒行伝に見られるような復活されたイエスを証しする力としての聖霊の働き、またパウロ書簡に見られるようなエクレシヤを形成する力としてのさまざまな聖霊の賜物、そうした体験を経て深められた聖霊の働きについての理解が、ここにイエスの訓話として語られていると考えられます。イエスが地上におられた時には、弟子たちに理解力がなかったために語られませんでしたが、弟子たちが現実に聖霊の働きを体験し、聖霊の啓示を深められていった時、「聖霊はわたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエスが言っておられるように、その内容がイエスの訓話として書きとどめられたと理解できます。ここには聖霊の働きについての成熟した理解が示されています。

復活者イエスを見る

 この最後の夜の訓話において、イエスは弟子たちに「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない、あなたがたのところに帰って来る」(一四・一八)と言っておられます。「帰って来る」は、初代の教団では本来キリストの再臨の約束でした。教団はそれを黙示録的な表現で語り、そのような形での実現を待ち望んでいたのですが、聖霊の働きを深く体験するにしたがって、主は聖霊の働きという形ですでに信じる者の中に帰って来ておられるという理解が生まれてきました。この理解は、主の再臨の約束を不要にするものではありません。逆にその希望を確かなものにします。今は隠された形ではあるが、復活の主がすでに来て現実に働いておられるのを体験しているのですから、その栄光が顕現すること(それが再臨です)はより確かな希望になります。
 「もうしばらくしたら、世はわたしを見なくなる」と言っておられるのは、イエスが死なれてこの世にいなくなられることを指しています。この世にいない人を、世の人々は見ることはできません。ところがこの世に残る弟子たちに、「しかし、あなたがたはわたしを見る」とイエスは言われます。すると、この「見る」は世が見るのとは違った意味であることは明らかです。では、弟子たちがイエスを「見る」というのはどういう意味で「見る」のでしょうか。それは直後に続く「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」という言葉によって説明されます。
 イエスは死なれたが、聖霊の力によって復活し、今も生きておられます。そしてイエスを愛しイエスに従う(ヨハネは「戒めを守る」と表現します)者は、復活されたイエスから聖霊をいただき、イエスと同じ質の生命を生きるようになります(一四・一五〜一七)。この同質の生命の共鳴・交流が「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」という一句に凝縮されています。イエスを復活させた方の霊によって生きるから、同質の生命の共感・交流の中で、イエスが復活して生きておられることを確かな現実として体験します。これをイエスは「わたしを見る」と言っておられるのです。
 そしてこのことが起こる時、聖霊はイエスが神と一つなる方、神の栄光を体現する主キリストであることを啓示し、さらにわたしたちがこのキリストと一つに結ばれているという奥義を悟らせてくださるのです。そのことをイエスはこう言っておられます。

 「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」。(一四・二〇)

 これこそ真理の核心、真理の霊である聖霊の働きの最も本質的な面です。「わたしを見る」ことは復活者キリストと一つにされていることと同じになります。

生命の充満の喜び

 この世は真理よりも利益を愛し、神を求めることをしないので、真理の御霊を知ることを願うこともありません。願うこともない者たちに神の真理が啓示されることはありません。真理の中の真理、キリストの十字架と復活の奥義、そしてこのキリストと一つに結ばれて生きるという奥義の中の奥義は、イエスを愛し、ひたすら神を求めてイエスに従う者にだけに啓示されます。神はそのような者たちに真理の御霊を与え、彼らの中におらせてくださるからです。
 神の御霊を受けてその導きの下に生きているか否か、この事実だけがキリストの民とこの世を分けます。この世の民は人間の知識を絶対化して神の真理を判断し、復活を信ぜず、キリストの十字架に敵対しています。この世はキリストに属する者を人間の知識の法廷に引き出し、有罪を宣告しています。しかし、聖霊が働かれる場では判決は逆転します。キリストこそ義であり、キリストを信じないことが罪であることが確証されます(一六・七〜一一)。
 キリストに属する者は「体を住みかとしているかぎり主から離れていることも知っている」。この世にある限りこの世の限界の中にあります。この世がイエスを見ないように、わたしたちも直接この目でイエスを見ることはありません。わたしたちは「見ないで信じている」のです。そして信じた結果聖霊を与えられて、復活者キリストを「見る」のです。
 わたしたちもこの世にある限り、その限界の中に閉じ込められて、悩みや不安や悲しみがあります。しかし、聖霊が主を「見る」ことを許してくださる時、苦しみの中にあっても深い喜びが生まれます。それは新しい生命が生まれた喜び、生命の充満の喜びです(一六・二一〜二二)。この喜びをわたしたちから奪い去るものはありません。これは聖霊によって魂の奥底から湧きでるものですから、いかなる力も逆境もこれを奪うことはできないのです。
(アレーテイア 23号 1988年)