市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第15講

第U部 神の民の歩み

5 復活から見た人生

復活節にあたって

 福音はイエスが復活されたという事実から始まります。イエスが復活されなかったのであれば、福音が宣べ伝える一切は虚偽です。わたしたちの信仰も救いも存在もすべて、神がイエスを死者の中から復活させてくださったという事実の上に立っています。そして、このイエスの復活はイエスだけに起こつた単独の出来事ではないのです。イエスの復活は、イエスを信じる者すべての復活の初穂であり、その約束でもあるのです。福音はこのように宣べ伝え、初代の信徒たちはこのように信じて生きぬきました。使徒パウロもその手紙の中で、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」と言っています(コリントU四・一四)。今日の復活節は使徒パウロがこの言葉に続けて語っているところ(コリントの信徒への手紙U四・一六〜五・一〇)に基づいて、このような復活の信仰に生きる者の人生が実際にどのような姿をとるのか、ご一緒に見ていきたいと思います。

外なる人と内なる人

 「だから、わたしたちは落胆しません」(四・一六)。この「だから」は、前段の「四方から苦しめられる」苦難の人生において、「イエスの命がこの体に現れるために、いつもイエスの死をこの体にまとっています」というパウロの生き方の中で、とくに先に引用した「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださる」という信仰をさして、「だから」と言っているのです。この復活の信仰によって生きているのだから、どのような行きづまりの状況に陥っても落胆することはないのです。

 「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い患難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。(四・一六〜一七)

 キリストに結ばれて生きる者には、今までの自分を「外なる人」と見る別の自分が生まれるのです。自分が二人になったのではありません。自分はあくまで自分であり、一人です。けれども、別の次元から今までの自分を見るようになるのです。この今までの自分を「外なる人」と見ている自分を、パウロは「内なる人」と呼んでいるのです。この「内なる人」はキリストとの関わりに生きる自分です。神によって今までの自分の内に創造された別の次元の自分です。
 人間は時と共に必ず衰えます。若さの絶頂で自己が確立し、最も華やかな姿を見せる時すでに、これからの衰えの不安が始まります。人生の様々な苦労の中で情熱や気力は衰え、たとえ気力は保っても、老齢と共にくる体の機能の衰えは避けられません。普通、老は生の衰えとして、行きつく先の死の予感として、ただ悲しいものです。けれども、キリストに結ばれ、復活を目標として生きる者は、その衰えを「外なる人」の衰えと見ることができるのです。そして、「外なる人」が衰えるほど、復活をめざす「内なる人」の自覚は新しくなっていくのです。キリストにある者の老年は、「内なる人」が輝き出る時です。その人生にキリストを信じるゆえに苦難が臨むことがあっても、復活にあずかるという「永遠の重い栄光」から見るならば、それも「一時の軽い患難」となるのです。

 「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」。(四・一八)

「見えるもの」というのは、わたしたちが地上の人生で体験することができるものです。それはどのように素晴らしく見えても、結局は過ぎ去ってしまいます。それに対して、永遠に存続するもの、すなわち「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださる」という終末の出来事は、「見えないもの」です。地上の人間の体験や知覚をはるかに超えたものです。キリストにある者は内なる御霊に促されて、この「見えないもの」に目を注ぎ、それに自分の人生のすべてを集中して生きるのです。そうしないではおれないのです。

地上の住みかと永遠の住みか

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。(五・一)

 人間の命ははかないものです。偶然の事故や思いがけない病気で多くの人の命が失われます。若い時はそのような事実を目の前にしていながら、他人事として通り過ごしております。けれども、老年期に入りますと身体が衰え、自分もやがて死んでいくという事実に、いやでも直面せざるをえません。それでもその事実を直視することを避けて、なるべくそのことは考えないようにして生きていこうとします。それは死を超える明確な希望を持っていないからです。わたしたちキリストに結ばれて生きる者は、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださることを知つています」ので、この「外なる人」の衰えと死の現実を直視することができるのです。それは幕屋(天幕)にたとえて語られています。天幕はいつまでもその場所にありません。それは一時の仮の住まいであって、時がくれば取り払われます。それに対して、石造りの建造物はいつまでもそこに建っており、いつまでも住むことができます。そのように、わたしたちの地上の体は死んで朽ち果てるほかありませんが、その後にもはや朽ち果てることのない永遠の住まいが用意されていることを知っています。それは人間の手が造ったものではなく、神によって備えられた住まいです。このように、ここでは復活のことが建物のたとえで語られています。

霊の体へのうめき

 「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあつて苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。
(五・二〜四)

 建物の比喩は続いていますが、ここでは衣服の比喩が重ねて用いられています。「脱ぐ」とか「着る」とか「裸」というのは衣服に関する動作や状態です。住みかを脱ぐとか着るというのは奇妙な表現ですが、人間の霊または命と体との関係、死と復活の事を語るとき、使徒はこのように語らないではおれなかったのです。
 パウロは同じコリントの信徒にあてた先の手紙(一五章)で、生まれながらの命に与えられている体、この衰え朽ちるべき体を「自然の命の体」と呼び、復活のとき神から与えられる朽ちることのない栄光の体を「霊の体」と呼んでいます。その二つの体が、ここでは「地上の幕屋」と「天から与えられる住みか」というたとえで表現されているのです。しかも、それは脱いだり着たりする衣服のように語られています。人間は裸で暮らすことはできず、まとうべき衣服や住むべき住まいが必要なように、人の霊ないし命はそれだけで生きることはできず、必ずそれが宿るべき体を必要とするのです。霊と体は一つとなって初めて具体的な人間でありうるのです。この生まれながらの命には「自然の命の体」が備えられているように、キリストにあって賜る御霊の命には、それにふさわしい栄光の「霊の体」が備えられているのです。
 わたしたちはこのことを知っていますから、この栄光の「霊の体」を着ることを切に願うのです。キリストに結ばれている者の中には、いままでの自分を「外なる人」と見る新しい自分、新しい命が生き始めています。その自分にとっては、衰え朽ち果てるこの「自然の命の体」、その中に巣くう罪の力によって絶えず神に背こうとするこの「卑しい体・死の体」の中で生きることは、「重荷を負ってうめいている」ことになります。何とか「霊の体」を着せていただいて、新しい自分にふさわしい体をもって生きたいのです。地上の人生が苦しいから、「地上の住みかを脱ぎ捨て」、そこから逃れたいと願っているのではありません。脱ぎ捨てるだけであれば、「裸でいる」ことになります。それは絶望です。わたしたちは栄光の体が備えられていることを知っていますので、「脱ぎ捨てる」ことではなく、「上に着る」ことを願っているのです。「霊の体」を着ることによって、「死ぬはずのものが命に飲み込まれ」、自分の全存在が栄光の中に完成することをうめきながら待ち望んでいるのです。

保証としての御霊

 「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として御霊を与えてくださったのです」。(五・五)

 わたしたちは全人生を通じて必死の努力をしてこのような完成に至るのではありません。死者からの復活に与るというようなことは、いかなる人間の努力も到達できないことです。それは創造者なる神だけが与えてくださることです。しかも神は、背く者が罪を赦され、神の子として復活の栄光に与るようになるため、キリストの十字架の死による贖いをも備えてくださったのです。わたしたちが復活の希望を持つことができるのは、創造者なる神の、人の思いを超える恩恵によるのです。神は御子キリストを信じる者に約束の聖霊を与えて、復活の希望を内側から保証してくださっています。福音が約束する死者の復活は、人間の思いをあまりにも超えているので信じられないのが普通ですが、御霊が宿る時、「見えない」復活を人生の確かな現実として生きるようにさせる力が内に働くようになります。聖霊はイエスを死人の中から復活させた方の霊ですから。

 「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」。(五・六〜八)

 このように、見えない復活を現実とする信仰によって生きているのですから、人生の苦難や行き詰まりや衰えの中にあっても、「いつも心強い」のです。この体を住みかとするかぎり、直接主を見たり触れたりできませんが、この信仰によって生きているかぎり、「いつも心強い」と言えるのです。

 「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」。(五・九〜一〇)

「体を離れている」状態、すなわち死後の状態がどのようなものであるかは知りません。死後の世界についてわたしたちが知っていることは、今わたしたちが知っている同じ主イエス・キリストが、その世界でも主であるということです。キリストは「生ける者と死せる者の主」です。ですから、わたしたちが「体を住みかとしていたとき」の生きざまが、かの世界において責任と意味を持つことになるのです。かの永遠の世界において、その主であるイエス・キリストから報いを受けるのであれば、今この地上に人生において、そのキリストに喜ばれることをなすのが最大の願いになります。キリストの名のためになしたことは、水一杯を与える小さいことも、その時の報いからもれることはないのです。復活から見る時、この地上の人生は永遠の意義と責任をもつことが見えてきます。人生の多くの失敗や咎は主の憐れみに委ねて、ひたすらキリストに喜ばれる業に励みたく思います。

(アレーテイア 43号 1990年5月)