市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第14講

第U部 神の民の歩み

4 復活のいのちを生きる

 「わたしが復活であり、生命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていてわたしを信じる者は、いつまでも死ぬことはない」。

(ヨハネ福音書 一一章二五〜二六節)

人類の信仰としての死者の復活

 「死者は復活するか」という問いに対しては、現代人は躊躇なく「否、死者が復活するなどありえない」と答えます。わたしたちもその答えを自然なものと感じ、死者が復活することを信じる者は特別な例外的人物と考えます。はたしてそうでしょうか。すこし視野を広げて、人類が古来この問いにどう答えて来たかを見ると、「しかり、死者は復活する」と信じていた者は意外に多いことに驚きます。
 人間の最大の矛盾、最後の問題である「死」に対しては古来宗教がその答えを与えてきました。そして世界の諸宗教の答え方を見ると、「死者は復活する」という形で死の問題に対処してきた宗教がかなり多いのです。例えば、古代エジプトの宗教では、死は生の中断にすぎず、死者の肉体は復活したオシリス神の復活に与って復活すると信じられていました。その信仰により、復活する肉体を保存するためミイラ技術が発達したのでした。
 預言者ツアラストラを開祖とするゾロアスター教においても、人の霊は死後その行いによって裁きを受け、宇宙最後の日に救世主が現れ、死者の肉体を復活させて霊と結合すると信じられていました。
 古代イスラエルの信仰は、主の契約(律法)を守れば地上の生活が祝福されるという現世的なもので、死後の運命については比較的無関心でした。しかし捕囚後イラン宗教の影響とか、マカベヤ戦争の殉教者の将来とか、内外の要因に促されて「死者の復活」の信仰が現れ、イエスの時代のユダヤ教では正統信条となっていました。
 イエスの復活という基礎の上に立つキリスト教が、使徒信条に見られるように「体の復活」を信じているのは当然です。イスラム教においても、アッラーの神は最後の日に死者を復活させて裁くとされています。
 このように世界の大宗教が「死者の復活」を信条として掲げてきたので、人類の大半の人たちが「死者は復活する」と信じてきたと言えます。もちろん霊魂不滅を信じていたギリシャ人、輪廻転生を信じていたインド人、生への執着を断つことによって死の矛盾を克服しようとした仏教徒など、「復活」という形以外の道で死の問題を受け止めてきた人々も多くいたのも事実です。しかし、人間を霊魂と肉体との一元的有機体と見る世界(一神教世界はこの傾向です)では、死の問題の克服は「死者の復活」に至らざるをえなかった、と言えます。

わたしが復活である

 イエスが活動された時代のユダヤ教社会においても、死者が復活することを信じないサドカイ派の人たちもいましたが、大多数の民衆はファリサイ派の信条に従い「死者の復活」を信じていました。だから、イエスは改めて「死者の復活」を宜べ伝えたり教えたりする必要はありませんでした。同じ聖書を信じながら復活を認めないサドカイ派の者たちに、「あなたがたがそんな間違いをしているのは聖書も神の力も知らないからではないか」と言って、死者が復活することを聖書から論証されたこともありました。しかし、イエスが来られたのは「死者の復活」の信条を擁護するためではありません。人類が抱きつづけてきた「死者の復活」の信仰と待望を成就するためです。
 愛する兄弟ラザロが死んで嘆き悲しむマルタに、イエスは「あなたの兄弟は復活する」と言われます。それに対してマルタは、「終わりの日の復活の時、彼が復活することは存じております」と答えます。彼女は人間が魂の底深くに抱き続けてきた復活の信仰と待望を代弁しているのです。しかしこの信仰では死の矛盾を克服することはできません。その信仰は「終わりの日」の出来事に対する期待ないしは願望にすぎず、人間が現在直面している死の不安、苦悩、悲しみを克服することはできません。それは死に打ち勝つ質の生命を今現に内に持っていないからです。
 このような人間に対してイエスは言われます、「わたしが復活である」。地上にわたしたちと同じ姿で歩まれる方、いまマルタの目の前におられるナザレ人イエス、この方こそ人類が終わりの日に実現すると待ち望んできた「死者の復活」そのものである、というのです。まことに驚くべき宣言です。誰がこれを受け入れることができましょうか。しかし、イエスが死人の中から復活された後、復活者キリストの言葉としてこれを聞く時、人類が終末時の出来事として待ち望んできた「死者の復活」がこの方において成就・実現しているのだという奥義を悟ることができます。
 イエス復活前においては、この奥義は人間イエスの中に隠されていました。イエスはラザロを墓から生き返らせて、この奥義を指し示す「しるし」とされましたが、ユダヤ人はこれを悟らず、かえってイエスを殺す決意を最終的に固めるだけでした。それはイエスが死者の復活を主張されたからではありません。イエスが「わたしがその復活である」とされたからです。復活を信じる宗教家たちが、「わたしが復活である」と宣言されるかたを殺したのです。

復活のいのちを生きる

 イエスは死人の中から復活された! 隠されていた奥義は顕(あら)わになりました。福音はイエスが復活されたことを宜べ伝えます。それは死なれたイエスが生き返ったという不思議な出来事を報告するものではありません。人類が待ち望んできた「終わりの日の死者の復活」が遂に成就したことを告知するのです。復活してキリストとして立てられたイエス、すなわち主イエス・キリストこそ、その成就です。この方こそ復活そのものであり、復活に至る質の生命そのものです。この方を信じて自分の全存在を委ね、この方と結ばれて生きる時、この方を復活させた生命を現在すでに内に宿して生きるようになり、「死んでも生きる」とか「いつまでも死ぬことはない」という言葉を自分の告白とすることができるようになるのです。
 イエスを復活者キリストと信じ告白する者は、キリストが十字架で成し遂げて下さった贖罪に与ります。キリストと結ばれることにより、本性的に神に逆らう古い自己は共に十字架されて死に、恩恵により上より賜る新しい生命を受けて生きるようになるのです。これが聖霊、神の霊であって、イエスを死人の中から復活させた生命です。このいのちをもって生きる時はじめて、人類が遠い未来として待望してきた「死者の復活」が、単なる言葉の上の信条や心の中の願望ではなく、今現に生きている生命の質として体験され、現在自分の中に始まっている将来となるのです。わたしたちは「復活」を見ていません。しかしイエスの復活はわたしたちの復活の初穂であり約束です。聖霊はその保証です。わたしたちは今復活のいのちを生きているのです。
(アレーテイア 10号 1987年)