市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第7講

第T部 神の民の形成

6 キリストの霊による自由の契約

        ――「キリスト契約の諸相」2 ――

解放としての贖い

旧約聖書における二つの「贖い」

 前講で、キリストの血によって立てられた「新しい契約」は、律法順守を条件とする契約ではなく、「キリストにある贖いによって」、無条件・無代価で、信じる者を義とする「恩恵の契約」であることをお話ししました。そのさい「贖い」とは、すぐ後に続く説明によって、レビ記一六章の「大贖罪日」に犠牲動物の血が注がれる「贖いの座」でなされる贖い、すなわち罪を覆うとか罪を拭うことでなされる罪の清めのことでした(ローマ三・二四〜二五)。
 ところが、旧約聖書には、このような祭儀的な意味の贖いとは別に、もう一つの「贖い」があります。それは、身代金を支払って捕虜とか奴隷になっている人を「買い戻す」とか「解放する」という意味の「贖い」です。この二つの意味の「贖い」は、新約聖書では同じギリシャ語《アポリュトローシス》で訳されていますので、文意が混乱する場合があります。しかし、旧約聖書ヘブライ語では別の用語で語られる、まったく別の概念なのです。祭儀的な場面では、「罪を贖う《カーファール》」のです。それに対して、奴隷などについては、「人を贖う《ガーアール》」のです。
 日本語の「贖う」という語は、「罪のつぐないをする、罪滅ぼしのために金や物品などを出す、埋め合わせをする」という意味ですが、「何かを代償としてあるものを手に入れる、買い求める」という意味の「購う」と混同して用いられるため、日本語の「贖う」は二つの意味を含むことになります。英訳聖書では、旧約においては「罪を贖う」場合は atone(動詞)とatonement(名詞)、「人を贖う」場合は redeem(動詞)と redemption(名詞)と使い分けていますが、新約においてはギリシャ語《アポリュトローシス》をすべて redemptionで訳しています。
 古代イスラエル社会には「ゴーエール」の制度がありました。これは、奴隷などになっている人物や人手に渡った土地などを、もっとも近い血縁者が買い戻して氏族とその資産を維持する責任を果たすという制度です。この「買い戻す《ガーアール》」責任を持つ血縁者を《ゴーエール》と言ったのです。たとえばルツ記で、ボアズはルツの《ゴーエール》(新共同訳では「親戚」と訳されています)と交渉して、この責任を引き継ぐ者としてルツと結婚しています(ルツ記四章)。この制度を比喩として、捕囚期の預言者第二イザヤは、主がイスラエルを捕囚から解放されることを語りました。

 「あなたの贖い主《ゴーエール》、あなたを母の胎内に形づくられた方、主はこう言われる」。
(イザヤ四四・二四)

 主ヤハウェは、ご自身に属する民イスラエルを歴史の中に形成した者として、この民を異邦人の支配から買い戻す責任を持つ《ゴーエール》の立場で発言されます。

 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。
(イザヤ四三・一)

 主ヤハウェはイスラエルの創造者であり同時に贖い主なのです。イスラエルの贖いはイスラエルを創造された方によってなされるのです。イスラエルの贖いはその存在と同じ確かさで語ることができるのです。そして、この贖い(解放)は、囚われの原因となった主への背きという罪を取り除くことによってなされるのです。そのことも主ご自身がされるので、この贖いは徹頭徹尾恩恵の出来事であるのです。

 「わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹き払った。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」。(イザヤ四四・二二)

 ここで、罪の除去としての贖いと解放としての贖いが一つになっています。預言者ははじめペルシャ王クロスが、主から油を注がれた者としてイスラエルの解放を成し遂げると語りました。たしかに、後にクロスは王となると勅令を発して、イスラエルの民がエルサレムに帰還することを許すようになります。しかし、政治的な解放だけではイスラエルの贖いが完成しないことをすでに洞察していた預言者は、イスラエルの罪が取り除かれるために、主が別の「しもべ」を立てられることを示されます。それがイザヤ書五三章に代表される「苦難のしもべ」です。その「しもべ」はわたしたちの罪を負うことによって、「わたしはあなたを贖った」という主の言葉を成就するのです。

 「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」。(六節)
「彼は自らを償いの献げ物とした」。(一〇節)
「わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。(一一節) 

キリストによる解放

 前講で見ましたように、イエスを復活者キリストとして宣べ伝える福音において、最大の問題はイエスの十字架の死をどのように受け止めるかという問題でした。弟子たちはみなユダヤ人でしたから、当然旧約聖書にこの問題の解決を求め、聖霊によって体験したことを旧約聖書の言葉で説明したのです。前講では、キリスト・イエスの十字架を、神が「その血による贖いの座としてお立てになった」ことを見ました。その「贖い」はレビ記一六章の「罪を贖う(清める)」贖いでした。それに対して、旧約聖書のもう一つの「贖い」、すなわち囚われの状態からの解放としての贖いも、キリストによって実現したのです。第二イザヤの「わたしはあなたを贖った(解放した)」が実現したのです。
 キリストの十字架を解放としての贖いのための出来事であるとする告知は、イエス・キリストの出来事をイザヤ書五三章の成就であるとする新約聖書の基本的な立場に含まれています。イエスの死は、キリスト・イエスがご自分の命を多くの人の釈放のために「身代金」(イザヤ書五三章一〇節の「償いの献げ物」に相当)として差し出されたものであるという理解が、イエスの言葉として伝承されています。

 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。(マルコ一〇・四五)

 キリストによる贖い(解放)は、社会的な身分としての奴隷とか捕虜の状態からの解放ではありません。人間にとってもっと根元的な囚われの状況、すなわち罪と死の支配からの解放です。もっとも、罪とか死に支配されている人間の姿は、当時の社会制度である奴隷を比喩として用いて、「罪の奴隷」とか「死の奴隷」という表現で語られています。生まれながらの人間は、本性的な高ぶりのゆえに自分の存在の根源である神に背き、神との交わりから脱落し、神の意志を行うこともできず、神の命にあずかることができません。このような人間の在り方が「罪の奴隷」であり、死の支配下にあると言われるのです。
 前講で引用した使徒パウロの福音告知をもう一度引用します。

 「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」。(ローマ三・二三〜二四 私訳)

 「キリスト・イエスにある贖い」は、前講ではこの文脈で用いられている祭儀的な「罪の清め」という形で説明しましたが、福音の「贖い」には解放としての贖いの意味も含まれています。すなわち、神は、キリストを信じてキリストに結ばれている者を、「キリスト・イエスにある贖いによって」罪の支配から解放し、義の現実(神との交わりの現実)に入れてくださるのです。「贖い」はたんなる無罪宣言ではありません。現実の解放です。神はキリストにおいて「わたしはあなたを贖った(解放した)」という宣言を実現しておられるのです。
 「キリストにある贖い」とはキリストによる解放であることを強調したのは、やはり使徒パウロでした。パウロはローマ書六章から八章で、奴隷制や結婚制度を比喩として用いて、「解放される」という動詞を繰り返し、救いを説明しています。これを要約する一文をパウロのガラテヤ書から引用しておきます。

 「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」。(ガラテヤ五・一)

 「自由の身にしてくださった」と訳されている動詞は、ローマ書など他の箇所では「解放する」と訳されている動詞です。この動詞の名詞形、すなわち解放された状態、奴隷でない状態が「自由」です。動詞形と名詞形を同じ言葉で表現しなくてもよければ、この文は「自由(の身分)を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださった」と訳せます。せっかくキリストによって奴隷の身分から解放されたのだから、「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と続きます。

自由の契約

律法からの解放

 ところで、このキリストによる解放について、パウロには他の使徒たちにはない独自の強調点があります。それは、キリストにある者は「律法から解放されている」という主張です。律法とはモーセ契約のことですから、この主張は前講で見た「モーセ契約は終わった」という主張と同じです。
 律法は神に背いている者を断罪する法廷であり、同時に断罪された者を閉じ込める牢獄でもあります。イエスは、律法を守ることができず「罪人」とされていた人たちを受け入れ、彼らと食卓の交わりを持つことで、律法からの解放を実践的に告知されました。パウロはそれを明確な言葉で表現するのです。
 ユダヤ人にとってモーセ契約は永遠です。したがってモーセ律法(トーラー)が無効になったとか、神を信じる者がもう守らなくてもよいのだという主張は、神を冒涜するもっとも重大な背教です。ユダヤ人が、パウロを生かしておくことができない背教者として、執拗に彼の命を狙ったのも当然です。また、ユダヤ人でキリストを信じるようになった者たちの中に、信仰に入った異邦人も割礼を受けてモーセ律法を守るように主張して、パウロの宣教活動を妨害する者がいたことも自然なことでした。このような反対に対して、パウロは文字通り命をかけて「律法からの解放」を主張したのでした。
 パウロにとって福音とは、キリストにある(二重の意味での)贖いによって、無条件・無代価で義とされるという恩恵の告知であり、キリストによって立てられる神と人との新しい関わり方(キリスト契約)は、もはや律法順守を条件としない「恩恵の契約」であるのです。パウロはこの「福音の真理」を、どのような圧力や危険にも屈しないで守り抜くのです(ガラテヤ書二章)。
 この「律法順守を条件としない」ことが、律法からの解放です。パウロはこの主張を、とくにガラテヤ書とローマ書で強くかかげています。ガラテヤ書は、信仰に入った異邦人が割礼を受けてモーセ律法を順守するように求められている事態に対処するために書かれた書簡であり、ローマ書はパウロの「律法から解放された福音」の総括的な提示であり、とくにユダヤ人を意識して書かれたものだからです。
 パウロはローマ書でも六章から七章で「律法からの解放」を論じています。とくに結婚の比喩(七・一〜六)を用いて、説得的に議論をしています。しかし、「律法からの解放」はガラテヤ書においていっそう先鋭的に主張されています。たとえば、パウロはアブラハムの二人の息子を生んだ二人の女、すなわちハガルとサラを、二つの契約の比喩として語っているところがあります(ガラテヤ四・二一〜三一)。二つの契約とは、モーセ契約とキリスト契約のことです。奴隷女であるハガルは奴隷の身分の子を生みます。奴隷女の生んだ子イシュマエルは、父親アブラハムの祝福を受け継ぐ相続人とは認められず追い出されます。それに対して、自由な身分の女サラが生んだ子イサクだけが、自由な身分の子として相続人と認められます。この比喩によってパウロは、モーセ契約が奴隷の身分の子を生む「奴隷の契約」であり、キリスト契約こそ自由な身分の子を生む「自由の契約」であると主張しているのです。先に引用した「自由の身分を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのです」(ガラテヤ五・一)という言葉は、この比喩の結論であり、その解放は奴隷契約であるモーセ律法からの解放を意味しているのです。
 この比喩はユダヤ人にとっては聞くに耐えない暴言です。ユダヤ人は、周囲のアラブ系諸民族をイシュマエルの子孫として、アブラハムの約束に無縁な者たちと軽蔑し、自分たちこそイサクの子孫としてアブラハムの祝福を受け継ぐ者としていました。それがこともあろうに、この比喩では約束から追い出される奴隷の身分の子孫であるとされ、自分たちが永遠の神聖な契約としているモーセ契約が「奴隷の契約」とされたのです。ユダヤ人がパウロを「生かしておけない男」としたのも理解できます。パウロのこの「律法からの解放」は、それほど革命的な主張なのです。

文字による契約と御霊による契約

 ところで、ハガルとサラの比喩で、イシュマエルが「肉によって生まれた者」とされ、イサクが「約束により御霊によって生まれた者」とされていました。この対照と同じことが、別の表現で語られている箇所がパウロ書簡にあります。それは「コリントの信徒への手紙U」の第三章です。そこでは、モーセによって与えられた「旧い契約」とキリストにおいて立てられた「新しい契約」が比較されています。そして、旧い契約は「文字による契約」、新しい契約は「御霊による契約」とされ、その二つの契約の比較は「文字は殺し、御霊は生かす」という標語で要約されています。
 モーセ契約は、石の板に刻まれた十の戒めの言葉(十戒)をもって結ばれた契約でした。これを順守すれば、イスラエルはヤハウェの民として祝福を受け、これに背けばヤハウェの裁きを受けることになるという契約でした。この十戒を基本にして、歴史の中でその戒めを具体的に守るために、イスラエルは多くの規定を付け加え、ヤハウェの民としての規範を発展させてきました。王国末期には申命記法典、捕囚期にはレビ記に見られる神聖法典、捕囚後には祭司法典などが成立し、「モーセ五書」にまとめられ、「トーラー」(律法)と呼ばれるようになります。「トーラー」はイスラエルが神の民であるための契約条項なのです。捕囚後は、モーセ五書に成文化した「トーラー」を具体的な生活状況に適用するために、律法学者たちが解釈し、それが弟子たちに口頭で伝えられ集積されて「口伝律法」となります。この成文律法と口伝律法の両方を含め、すべて神の民となるための契約条項として外から神の民の歩み方を規定する文言を、パウロは《グラマ》(文字)を呼びます。
 この「口伝律法」も後に「ミシュナ」、「タルムード」として文字に書き記されて書物になります。こうしてユダヤ教は文字通り「書物の宗教」となり、ラビ(ユダヤ教教師)は書物の文字を研究し、解釈し、教える学者となるのです。
 パウロは熱心なファリサイ派ユダヤ教徒として、この「文字」を順守することに情熱を燃やしました。しかし、その道は命に導かず、かえって神が遣わされたキリストに敵対する結果になったことを、パウロは身をもって体験しました。ダマスコ途上で復活したイエスに遭遇し、ひれ伏してイエスをキリストと告白するようになったパウロは、その後の深い霊的体験を通して、自分がキリストの十字架に合わせられて死んでいること、御霊としてのキリストが自分の中に生きておられること、その御霊なるキリストが自分の命であることを悟っていきます。「文字は殺し、御霊は生かす」(コリントU三・六)という標語は、パウロ自身の体験から出た告白です。
 パウロの時代のユダヤ教において、モーセ契約は「文字による契約」でした。すなわち、契約条項としての「文字」を学んで実行することを条件とする契約でした。それに対して、パウロはキリストの血によって結ばれる新しい契約(キリスト契約)を「御霊による契約」であるとします。「御霊による契約」とは、信じる者に恩恵によって無条件で与えられる御霊によって、神と人との関係が形成される契約であるという意味です。このキリスト契約に基づいて形成されるキリスト教は、本来書物の宗教ではなく、「霊の宗教」であるのです。ところが、実際のキリスト教は長年の歴史の中で「書物の宗教」としての面を強くしていきます。
 パウロは、当時のユダヤ教が「モーセの書」(モーセ五書)をすっかり「文字による契約」の拠り所にしてしまっていたのは、読む者たちの「心に覆いが掛かって」いるからだとします。もし霊なる主に帰せば、その「覆いは取り去られて」、パウロがガラテヤ書やローマ書で示しているように、「モーセの書」も本来はアブラハム契約を基礎とする恩恵の契約を証言するものであることが理解できるはずだとします。パウロはキリストの御霊によって、このような「恩恵の契約」である「御霊による契約」の啓示を与えられ、「新しい契約」に仕える資格を与えられたのです。
 パウロにとって主とはもはや外から律法によって裁く神ではなく、「主とは御霊のこと」であり、「主の御霊」あるいは「御霊なる主」が自分の内に働いてくださり、覆いを除き、主の栄光を映し、栄光から栄光へと主と同じ姿に造りかえてくださるのです。この「主の御霊がおられるところには自由がある」のです。神との関わりは、もはや外からの規定が拘束して形成するのではなく、御霊の働きが内から形成してくださるのです。こうして内なる御霊のいのちの自発性により、外からの拘束から解放されている姿、それが自由です。新しい契約は自由を与える契約、「自由の契約」なのです(コリントU三・一七〜一八)。

御霊による自由

 このようにパウロは「律法からの解放」を命がけで主張したのですが、そうすると律法こそ神の民の生き方とか在り方を規定する唯一の規範であるとする人たちから批判が起こるのは避けられません。律法を順守してもしなくても神の民でありうるのであれば、何をしてもよいということになるではないか。神の民の在り方を決める規範とか力はどこにあるのか、という疑問が起こります。それに対して、パウロは「御霊によって歩む」道を指し示すことで答えます。パウロはガラテヤ書で、キリストにある者は律法に縛られている奴隷ではなく自由な身分の子であることを明らかにした上で、最後にキリスト契約に生きる者の歩み方(実際の生き方)について勧告します。その勧告は「御霊によって歩みなさい」という一句に尽きます(五・一六〜二六)。モーセ律法に代わる別の律法を与えることはありません。わたしたちキリスト契約にある者は、御霊によって命を与えられ神の子とされているのですから、実際の歩み(生活や行動)もその御霊によってなしていけばよいのです。そうすれば、「キリストの律法を全うすることになるのです」(六・二)。
 「キリストの律法」とは、キリスト契約によって神と結ばれている者たちに、神が求めておられる生き方の総体です。それは、モーセ律法のように外から行為や禁止を命令する多くの規定ではなく、内にある御霊の質である愛《アガペー》に生きること、これ一つだけです。「御霊によって歩む」ときに生じる生活とか品性を、パウロは「御霊の実」と呼んで、その内容を列挙していますが(五・二二〜二三)、それは愛の現れに他なりません。御霊によって、神の求められる在り方を内から満たすときはじめて、もはや律法が外から行為を規制する必要はなくなり、わたしたちは自由になるのです。「御霊のおられるところには自由がある」のです。
 ところが、わたしたち人間の生まれながらの本性の願うところは、御霊と反対の方向を向いています。パウロは、人間の生まれながらの本性を「肉」と呼び、「肉の望むところは御霊に反し、御霊の望むところは肉に反する」と言って、「肉」の本性を明らかにしています。それで、人が自然の本性のままに生きるときは、御霊の愛《アガペー》とは逆の生き方になってしまいます。自分の利益と栄光を求め、他者を支配しないではおれない本性から、ねたみや争い、淫行や偶像礼拝(神以外のものを至上の価値とする倒錯)などが避けられません(五・一九〜二一)。もしわたしたちが肉に従って歩み続けるならば、御霊のいのちを圧迫し、ついには御霊がもたらす神の子としての実質を失うに至ります。このような歩みをする者は「神の国を受け継ぐことはできない」と言われるのです。
 こうして、御霊のいのちとか御霊の自由は、当然の事実としてわたしたちの中に存在するものではなく、わたしたちの生まれながらの本性との戦いの中で形成されなければならないものなのです。わたしたちは自分の意志と力で「肉」を克服することはできません。つねに十字架の下にひれ伏して、自分のために死なれたキリストにこの全存在を委ね、キリストに合わせられて自分が死ぬことによって、御霊が働いてくださる場を空けておかなければなりません。御霊だけが自由を実現してくださる力です。
 御霊なしで自分の力でキリストに従う生き方を実現しようとすると、キリストの言葉や使徒の教えがわたしたちを外から拘束する規範になってきます。すなわち、こうしなさい、こうしてはならない、というように外から行為を規定する律法になります。キリスト契約にあずかることでモーセ契約の律法から解放されても、御霊がなければ再び「奴隷の軛につながれる」ことになってしまいます。自由の契約としてのキリスト契約から生じたキリスト教が、長い年月の間にいつの間にか律法の宗教に変質してしている面があります。「御霊によって歩む」ことによって、新約聖書の福音、とくにパウロの「御霊による自由の契約」が回復されなければなりません。

恩恵の賜物

契約の証印

 契約を結びますと、その契約が実行されることを保証するために証印が押されます。キリスト契約は、神と人とが対等の立場で結ぶ契約ではなく、神が一方的に恩恵によって与えてくださる契約ですから、証印も神が一方的に押してくださるのです。信仰によってこのキリスト契約にあずかる者に、神が証印を与えてくださることについて、「エフェソの信徒への手紙」に次のように書かれています。

 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」。
(エフェソ一・一三〜一四)

 旧い契約では、契約の言葉は石の板に刻まれ、契約の箱に納められて、神殿の至聖所に置かれていました。その箱の上の「贖罪の座」に年毎に犠牲の動物の血が注がれて、民の罪を贖い、契約を維持していました。新しい契約では、契約の言葉は「石の板ではなく人の心の板に書きつけられ」(コリントU三・三)、それに聖霊の証印が押されているのです。キリスト契約は、キリストが契約の血をただ一度決定的に十字架の上で注いでくださることで始まりました。そして、キリストの十字架の死は、キリストにある者に契約の証印である聖霊が絶えず注がれる場として、最後までこの契約の土台となっているのです。先に見ましたように、わたしたちが十字架されたキリストに合わせられて自分が死ぬことによってのみ、聖霊が働いてくださることができるからです。こうして、エレミヤが預言した「新しい契約」は、初めから終わりまで、十字架につけられたキリストによって実現するのです。
 これまで契約とか、遺言とか、証印とか法律的な用語で語られてきましたが、これは、霊なる神と霊的存在である人との関係という、霊の次元のことを語る比喩です。現代社会は契約社会で、取引関係だけでなく、国家形成にも、国際関係にも、契約理念が浸透しています。古代にも多くの契約関係が知られていました。取引、主人と奴隷、部族間の同盟保護関係など、多くのことが契約の形で行われていました。これまでに見てきたように、聖書は神と人との関係を契約という比喩を用いて表現してきましたが、神と人との関係は決して法的な関係ではありません。同じ契約という比喩を用いるにしても、結婚関係の方が近いでしょう。結婚も一種の契約であって、「契り」と呼ばれています。結婚は二人が生涯をかけて信実と愛で結ばれて一体として生きることを誓う契約であり、人格的な次元での契約として、神と人との霊的次元の関係を比喩として表現するのに適切でしょう。ホセアを始め旧約の預言者たちは、ヤハウェとイスラエルの関係を結婚契約の比喩で語りました。新約聖書でもこの伝統を受け継いで、キリストとその民《エクレーシア》の関係を、エフェソ書(五・二一以下)は結婚の奥義《ミュステーリオン》として扱い、ヨハネ黙示録は「子羊の婚姻」という象徴で語っています。
 「契約」は比喩であるとしても、聖書が神と民との関係を契約という表象を用いて語ったことは、後に神学思想や社会思想の形成に、さらにピューリタン革命やアメリカ合衆国の建国など現実の歴史に大きな影響を及ぼしたことを見ますと、重要な意義があります。

賜物としての永遠のいのち

 わたしたちがキリストにあって受けた聖霊は、神がキリスト契約にあずかる者に与えてくださっている契約の証印ですが、先に引用したエフェソ書の御言葉では、さらにその「聖霊はわたしたちが御国を受け継ぐための保証」であるとも言われています。「御国を受け継ぐ」というのは、終わりの日に神が完成される「神の国」にあずかることであり、ここでは将来のことです。聖霊は、将来栄光にあずかることを現在において確実にする保証だというのです。「保証」《アラボーン》という語は、もともと取引において将来の全額の支払いを保証する手付け金とか保証金を意味する語です。同じことがローマ書(八・二三)では「初穂」という語で表現されています。この語も将来の全収穫を代表する現在の収穫された穀物を指しています。聖霊は、キリスト契約にあずかる者が将来受けることになる栄光を、現在それを先取りした形で現実に体験させてくださる力であるのです。
 「神の国を受け継ぐ」は、新約聖書(とくにヨハネ福音書)では「永遠のいのちを受け継ぐ」とも表現されます。キリスト契約は、信じる者に永遠のいのちを約束する契約であるとも言えます。「永遠のいのち」も本来は終末的な事態ですが、聖霊はそれを現在の体験とします。とくにパウロとヨハネ福音書が、永遠のいのちが現在の事実であることを強調しています。このように、聖霊はキリスト契約の内容をいま現実に与える力なのです。
 では、聖霊がいま地上に生きるわたしたちに与えてくださる「神の国」とか「永遠のいのち」とはどのような姿で現れるのでしょうか。それは、今まで繰り返して語ってきましたように、信・愛・望の三つです。信とは、宇宙の創造者を父として信頼して生きる神の子の姿です。愛とは、父がわたしたちを無条件で受け入れて愛してくださったその愛によって、隣人を無条件に、敵でさえも愛する愛です。希望とは、約束されている将来の栄光、すなわち「死者の復活」を人生の土台とし現在の力として生きる姿です。聖霊は、神との関係という垂直軸では信として、隣人との関係という水平軸では愛として、時間軸では希望として現れるのです。この信・愛・望こそ、永遠のいのちが現在現れている姿なのです。
 キリスト契約は恩恵の契約です。キリストを信じる者に与えられる聖霊は、受ける者の資格とは無関係に与えられる恩恵の賜物です。したがって、聖霊によって信・愛・望の姿で現れる永遠の命は、徹頭徹尾無資格の者に恩恵によって賜る賜物です。キリスト契約は、将来の栄光を約束する契約ですが、同時に聖霊によって、将来を現在先取りして現実にするという形で、保証するという構造をした契約です。キリストにあって賜る聖霊により、この恩恵の契約に生き抜くことがわたしたちのすべてです。
(天旅 1999年6号)