市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第6講

第T部 神の民の形成

5 キリストの血による恵みの契約

 ――「キリスト契約の諸相」1 ――

はじめに
 わたしたちキリストに属する民の聖書は、旧約聖書と新約聖書という二つの部分から成り立っています。この二つはそれぞれ、「旧い契約の書」と「新しい契約の書」という意味です。今回は、この「旧い契約」と「新しい契約」という二つの契約の関係を考察することによって、キリストにあって生きるとはどういうことか、すなわち、キリスト信仰とは何かを改めて受け止めたいと願います。

 本講「キリストの血による恵みの契約」と次講「キリストの霊による自由の契約」の二つの講話は、「キリスト契約の諸相」という主題で行われた一九九九年夏の天旅誌友会での二回の福音講話を要約筆記したものです。

旧い契約

契約の二つの型

 聖書は、神と人(あるいは民)との関わりを「契約」という表象で語っています。これは、イスラエルの民がその歴史の中で体験し、彼らの聖書に記録してきたものですから、まずその記録(旧約聖書)によって、「契約」とはどういうものかをごく簡単に見ておきましょう。
 イスラエルは自分たちの歴史を、いや存在そのものも、ヤハウェが与えてくださった契約に基づくものであり、その結果であると自覚し、そう語ってきました。イスラエルは、自分たちが現在パレスチナの地に住んでいるのも、ヤハウェが先祖アブラハムに与えられた契約が実現された結果であるし、いま自分たちが神の民として神との特別の関係にあるのも、モーセによって結ばれた契約に基づくものであると自覚していました。
 古代イスラエルがヤハウェの民としての自分たちの存在を「契約」という表象で理解したのは、当時の部族間の契約が背景にあると考えられます。それも対等の部族が協定して結んだ契約よりは、強い立場の部族が弱い立場の部族に与えた契約をモデルにしていると見られます。そのことは、神と人は対等の立場で契約を結ぶ当事者ではないという事実から、また、旧約聖書で契約が語られるとき、神が契約を「与える」とか「立てる(設定する)」というような表現が使われていることからも分かります。
 ところで、イスラエルが体験し理解した契約には二つの型(タイプ)があります。一つは、神が約束を与え、神が一方的に実行の義務を負うものです。その代表例はアブラハム契約です。神は呼びかけに応えて故郷の地から出てきたアブラハムに、子孫を空の星のように増やすことと、その子孫にナイルからユーフラテスに至る土地を与えることを約束されます。そして、その約束の実行を保証するために、当時の契約締結の儀式に従って犠牲の動物が屠られます。アブラハムにはその約束を信じること以外は何も求められていません(創世記一五章)。このような神の一方的な約束としての契約に属するものとしては、他にノア契約(創世記九章)とダビデ契約(サムエル記下七章)があります。これはそれぞれ、古代の洪水伝説とダビデ王朝永続のイデオロギーが、アブラハム契約を原型として神の約束として理解されたものと見てよいでしょう。
 契約のもう一つの型は、神が課す定めをイスラエルが順守する義務を負うものです。その代表例はシナイでモーセを通して立てられたシナイ契約(またはモーセ契約)です(出エジプト記二〇章、二四章)。ヤハウェはモーセによって十の契約条項(十戒)を示して、これを守ることを求めます。それを守るならば、イスラエルはヤハウェの民として保護と祝福を受けることになるのです。ヤハウェとその民としてのイスラエルの契約関係は、契約規定の順守という条件をつけたものになるのです。これは神の律法としての契約です。この型に属する契約としては、モーセの後継者ヨシュアによるシケム契約(ヨシュア記二四章)、ヨシア王による申命記契約(列王記下二三章)、祭司エズラによるエズラ契約(ネヘミヤ記八章、一〇章)などがありますが、これらはみなモーセ契約の更新です。
 捕囚以後のユダヤ教においては、律法順守が強調され、神との契約関係はひたすら律法の順守であると考えられるようになります。捕囚は、律法違反のために主の怒りを招き、契約が破棄された結果であるという反省からです。神の約束としての契約は、律法順守の熱心の中に埋没します。たしかに、捕囚期にモーセ契約の破綻を直視した預言者は、エジプトから導き出されたときに結ばれた契約とは別の性格の「新しい契約」が与えられることを預言しました(エレミヤ三一・三一〜三四)。しかし、イスラエルの大勢は、モーセ律法の厳格な順守によって神の民であることを確立する努力に塗りつぶされていきます。ユダヤ教は厳格な律法宗教になります。

契約の血

 ところで、イスラエルの歴史を形成してきた契約は、血を用いて締結されました。アブラハム契約(創世記一五章)やシナイ契約(出エジプト記二四章)においても、犠牲動物が殺され、その血が用いられています。契約に血を用いるのも、古代部族間の契約をモデルにしていると見られます。古代部族が契約を結ぶときには、それぞれが犠牲の動物を殺して血を流し、その血を振りかけたり、酒に混ぜて飲み交わしたりしました。それは、もし自分が契約を破ることがあれば、この動物のように殺されて血を流してもかまわないと、自分の命をかけて誓約したのです。日本でも重大な盟約には血判を用いた時代もありました。
 イスラエルの民もごく初期から、他の民族と同様、神を礼拝するとき犠牲の動物を捧げてきました。祭儀において捧げる犠牲には、自分を奉献するとか、神を喜ばせて好意を得ようとするとか、罪の贖いをするとか、様々な意味がありますが、神との関係を契約と自覚したイスラエルにおいては、犠牲動物の血には契約の血という意味が出てきます。イスラエルの祭儀は基本的には契約確認とか契約更新の祭儀となるのです。
 申命記契約(列王記下二三章)やエズラ契約(ネヘミヤ記八章)の記事において、とくに血に言及されていないのは、すでに祭儀制度が確立していて、血による契約締結が自明のこととなっていたからであると考えられます。

新しい契約

キリストの血による契約

 さて、イエスに従った弟子たちは、イエスこそイスラエルを回復するメシアではないかと期待していましたが、イエスがエルサレムで十字架につけられて処刑されるという結末にすっかり落胆してしまいます。しかし、復活されたイエスの顕現に接し、イエスへの信仰は新しくされ、聖霊を受けるにいたります。むしろ、聖霊の働きを受けて、復活されたイエスに出会う体験をしたと言うほうが正確かもしれません。聖霊を受けることと、復活者キリストに出会うことは一体です。神の霊の力を受けた弟子たちは、エルサレムをはじめ各地で、力強くイエスが復活によってキリストとして立てられたことを宣べ伝え始めます。
 イエスを復活者キリストと信じて宣べ伝えるにさいして、最大の問題はイエスの十字架死をどう受け止めるかという問題です。イエスの弟子たちはみな聖書(旧約聖書)を信じるユダヤ人であり、イエスが聖書に約束されていた「来るべき方」であると信じたのですから、イエスの十字架の死を聖書の成就として理解しようとしたのは当然です。その理解の中で基本的なものは、イエスが十字架の上で流された血は、神が立てられる「新しい契約」のための血であるという理解です。
 使徒たちの時代、イエスをキリストと信じる者たちは、「主の晩餐」と呼ばれるパンとぶどう酒の食事を中心にした集まりをしていました。イエスが弟子たちと最後の晩になされた食事を継続するという形で、主の死を記念し、信仰を告白していたのです。その時の食事の意義を語る伝承が、パウロの手紙(コリントT一一・二三〜二六)に引用されています。これは、パウロの文ではなく、パウロ以前に広く用いられていた伝承を引用しているものです。そこでは杯(中のぶどう酒を指す)が「わたしの血によって立てられる新しい契約」であると言われています。キリストを信じる民は、キリストの血を「新しい契約の血」であると受け止め、自分たちを「新しい契約」によって神と結ばれた民であると自覚したのです。
 エッセネ派のクムラン共同体も、自分たちを「新しい契約の民」であると自覚していました。当時エルサレムを拠点としていたエッセネ派共同体から、同じ地区に集まっていた原始エルサレム教団が何らかの影響を受けた(とくにエッセネ派からキリスト信仰に入った人たちを通して)ことが考えられますが、この「新しい契約」の理解について、エッセネ派からの直接の影響があったかどうかは分かりません。もしあったとしても、新約聖書における「新しい契約」は、エッセネ派の「新しい契約」理解とは根本的に違います。エッセネ派の「新しい契約」は、祭司の正統性をめぐる対立からエルサレムの祭儀共同体から分離しましたが、基本的には「モーセ契約」と同じ線上にあって、モーセ律法をさらに厳格にしたものにすぎません。それに対して、キリストの福音における「新しい契約」は、後に見ますように、律法順守を条件とするモーセ契約とは全然別の原理に立つ契約、すなわち「恩恵の契約」となっているのです。
 この「新しい契約」は、イスラエルがエジプトから導き出されたときに結ばれたモーセ契約とは別の契約です。その延長とか更新ではありません。エレミヤの預言が成就したのです。この「新しい契約」によって形成される民は、モーセ契約によって成立しているイスラエルとは別の民になります。このモーセ契約とは別の、キリストの血によって結ばれる「新しい契約」は、「キリスト契約」と呼んでよいでしょう。「キリスト契約」は、別のさらに新しい契約によって廃棄されることのない、最終的な契約であるという意味で「新しい契約」なのです。
 共観福音書はみな、最後の晩餐のときイエスが杯について「これはわたしの血、契約の血である」と言われたと伝えています。最後の晩餐のときのイエスの言葉を正確に復元することは、伝承についての議論が複雑で、きわめて困難なことです。おそらくイエスはパンと杯について、「これはわたしの体である。これはわたしの血である」という簡潔な《マーシャール》(謎、比喩)の形で語られたのではないかと、わたしは考えています。それを聞いた弟子たちは理解できなかったことでしょう。ところが、復活後、聖霊に導かれてイエスの出来事を聖書の成就と理解していく中で、イエスの血を新しい契約の血であると受け止めるようになり、その理解が最後の晩餐の伝承に取り入れられたと見てよいでしょう。

 最後の晩餐に関する共観福音書とパウロ書簡の伝承については、拙著『マルコ福音書講解U』の81「最後の晩餐」(179頁)を参照してください。

 キリストの十字架を「新しい契約」の血であるとする理解は、「ヘブライ人への手紙」(とくに九章)に詳しく展開されています。ここでは、モーセによって与えられた「最初の契約」と対比しながら、キリストは「新しい契約」の仲保者として、動物の血ではなくご自身の血によって罪の清めを成し遂げて、この契約を完成してくださったと語られています。またここで、キリストの死は「遺言」を発効させるための遺言者の死であるという説明もされています。「血」は死を象徴しています。

 ヘブライ語聖書の《ベリース》(契約)をギリシャ語に翻訳するとき、七十人訳は《ディアセーケー》という本来「遺言」を意味する語を用いました。この語のラテン語 testamentum から現在の旧新約聖書の英語名 Old Testament , New Testa- ment が出ています。すでにパウロが「遺言」という世俗の制度を用いてアブラハム契約の永続性を説明しています(ガラテヤ三・一五以下)。

キリストの血による贖罪

 もう一つのキリストの血の意義は、ヘブライ人への手紙が強調しているように、罪の清めの血であるという意義です。このことは福音宣教の最初から宣言されてきました。イエス・キリストの死を聖書の成就として理解したユダヤ人の弟子たちにとって、その聖書とはまず何よりイザヤ書五三章が語っている「苦難のしもべ」であったのです。そこに書かれているように、キリストは「自らを償いの献げ物とし」、「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」のです。それで、「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだ」(コリントT一五・三)ことが、キリストの福音のもっとも基本的な告白となるのです。
 キリストがわたしたちの罪を取り除くために死んだという福音は、ユダヤ人が親しんでいる祭儀を用いても説明されました。それはパウロが書簡の中に引用している当時の告白文にも見られます。

 「神はこのキリストを、信実によって、その血による贖いの場としてお立てになったのです」。
(ローマ三・二五 私訳)

 ここに用いられている《ヒラーステリオン》は、「罪を償う供え物」(新共同訳、協会訳)と訳されることもありますが、この語は本来至聖所に置かれた契約の箱の上部を覆う金の板を意味し、そこに年に一度、大祭司が民の罪を清めるために犠牲の山羊の血を注いだのです。旧約聖書では「贖いの座」と訳されています(レビ記一六・一一〜一六)。ここでは、この本来の語意で理解する方が順当だと考えます(ほとんどの欧米近代語訳がそうしています)。なお、「信実によって」の句は、引用された伝承文にパウロが挿入したものと見られていますが、括弧に入れて読むと文意が明確になります。
 旧い契約においては、契約の言葉(十戒)を刻んだ石の板を収めた「契約の箱」が神の臨在の場所でした。その箱を安置した幕屋は「臨在の幕屋」(新共同訳)と呼ばれ、神はそこに臨在され、そこから民に語りかけられました。ソロモン以後は神殿の至聖所に置かれ、そこが神の臨在の場所となったので、イスラエルにとって神殿が神とお会いする場所になったのです。ところが、罪に汚れた民の中に聖なる神が臨在されるためには、民の罪が清められなければなりません。それで、民の罪(汚れ)を「贖う」ために(ここで用いられている「贖う」という動詞は「覆う」とか「拭う」という意味の語です)、犠牲動物の血がその箱の上の「贖いの座」に注がれたのです(レビ記一六章)。こうして罪が贖われることによってはじめて、「贖いの座」が「臨在の座」となり、そこで民が神と出会い、交わる場所となるのです。
 新しい契約においては、神はキリストをこの「贖いの座」としてお立てになったのです。十字架につけられたキリストこそ、そこで人間の罪が「贖われ」、神との交わりが回復する場なのです。そこに神がご自身を現され、そこから人間に語りかける場なのです。このことを、ヘブライ人への手紙九章が詳しく展開しております。キリストは大祭司として、人の手で造られたものではない天にある至聖所へ、動物の血ではなくご自身の血を携えて、年毎ではなく終わりの時に現れてただ一度お入りになり、永遠の贖いを成し遂げてくださったのです。
 こうして十字架につけられた復活者キリストは、永遠の贖いを成し遂げて、旧い契約において繰り返されていた祭儀をすべて完成してくださったのですから、このキリストによって立てられた新しい契約においては、もはや祭儀はいっさい必要でなくなったのです。「主の晩餐」は、主の死を記念する食事であって、祭儀ではありません。祭儀というのは、神との関わりを形成する人間の行為であって、それをしなければ神との関わりを持つことができない儀式です。キリスト以前においては、あるいはキリストの外においては、祭儀こそ宗教の中身であり、宗教そのものであるのです。「主の晩餐」も後には教会のサクラメントとして、このような意味での祭儀になりますが、本来はそういうものではなく、キリストの死にあずかり、復活の主との交わりに生きているという、聖霊によって与えられている現実の告白です。キリスト契約には祭儀は必要ではないのです。

恩恵の契約

アブラハム契約の成就

 こうして、「最初の契約」の仲保者モーセは律法を与える者でしたが、「新しい契約」の仲保者キリストは、ご自身の血を契約の血とされただけでなく、贖いの血とされたのです。先に見ましたように(ローマ三・二五)、キリストを「贖いの場」として立てられたのは神ご自身なのです。「新しい契約」の仲保者キリストには、律法ではなく、「贖い」があるのです。キリストに結ばれて「新しい契約」に入った者は、神がキリストの中に成し遂げてくださった「贖い」によって、律法をどれだけ守ったかとは無関係に、神の民として受け入れられるのです。このことを、使徒パウロは次のように表現しています。

 「人間はすべて罪に陥ったので、神の栄光を失っており、ただ、キリスト・イエスにある贖いによって、神の恵みにより、無代価で義とされるのです」。(ローマ三・二三〜二四 私訳)

 この「律法とは無関係に」与えられる義、すなわち、律法を守ったかどうかとは関係なく神の民あるいは神の子として受け入れられること、これが神の「恵み」です。「恵み」とか「恩恵」というのは、受ける側に何の資格もないのに、無代価・無条件で神が義とか救いというよい物を与えてくださることです。使徒パウロが福音の中心に据えた「信仰による義」(ローマ三・二八)とは、このような「恩恵による救い」のことに他なりません。「恩恵」と「信仰」は表裏一体です。
 このように、キリスト契約は律法の契約ではなく恩恵の契約です。すなわち、律法順守に条件付けられた契約ではなく、神がキリストにおいて成し遂げられた「贖い」によって、受け取る者(信じる者)に無条件で義(神との交わり)とか救いが与えられる契約です。イスラエルがエジプトから導き出された時に与えられた契約(モーセ契約)とは性格の違う、別の「新しい契約」なのです。
 この性格の違いをもっとも鋭く見抜いて明確に語ったのは使徒パウロでした。イエスの弟子たちはみなユダヤ人であって、イエスを信じるようになってもモーセ律法を順守することは当然であると考えていた中で、パウロはキリストを信じる者にはもはやモーセ律法の順守は必要でないことを見抜き、それを命がけで主張したのでした。キリスト契約の成立によりモーセ契約は廃されたのです。モーセ契約の時代は終わったのです。パウロにとって、キリスト契約はモーセ契約の成就ではなく、アブラハム契約の成就なのです。その消息はガラテヤ人への手紙三章に鮮明に表現されています。
 アブラハム契約こそ「神が約束によって恵みをお与えになった」契約であり、神が一方的に実行の義務を負う契約で、アブラハムには信仰、すなわち、約束された方の信実だけに基づいて生きることしか求められていません。キリストによってこのアブラハムへの約束が実現したのです。では律法(モーセ契約)とは何でしょうか。「律法は、約束を与えられたあの子孫(キリスト)が来られるときまで、違反を明らかにするために付け加えられたもの」にすぎないのです。律法(モーセ契約)は、アブラハムへの約束とキリストによる成就という救済の基本的な御計画の中に、民の罪のゆえに挿入された一時的な契約に過ぎないというのです。このような理解は当時のユダヤ教においてはまったく革命的であり、モーセ律法こそ神の啓示であり唯一の契約である、その順守こそ神の民の土台であるとしていた当時のユダヤ教徒(と多くのユダヤ人キリスト教徒)にとっては、許すことができない思想であったのです。
 パウロは、「新しい契約」がキリストの血による契約であること、またその血が贖罪の血であるという(おそらくエルサレム原始教団以来の)ユダヤ人キリスト教の信仰告白を継承しています。しかし、ユダヤ人の使徒たちの中でパウロだけが、この「新しい契約」がもはやモーセ契約とは無関係であること、すなわち律法をどれだけ順守したかとは無関係に、ただ「神の恵みにより、無代価で」与えられる義であることを明らかにしたのです。こうして、パウロだけがキリスト契約が恩恵の契約であることを明らかにし、「恩恵の使徒」となったのです。パウロにとっては、神の支配とは、イエスの場合と同じく、恩恵の支配なのです。キリストは恩恵が支配する場なのです(ローマ五・一二〜二一)。

順接と逆接

 では、「新しい契約」は「旧い契約」を全面的に否定するのでしょうか。決してそうではありません。パウロも信仰(キリスト契約)は律法(モーセ契約)を無効にするのではなく確立するのだと言っています(ローマ三・三一)。では、パウロの場合、信仰が律法を確立するとはどういう意味でしょうか。
 新約聖書の各文書の著者たちはユダヤ人です。パウロも自分を「ヘブライ人の中のヘブライ人」と言っています。当時のユダヤ人にとって「律法と預言者」(現在の旧約聖書に相当)が神の啓示であることは自明のことでした。パウロも、「律法とは関係のない」神の義を語るさい、それが「律法と預言者に立証されて」示されたと言っています(ローマ三・二一)。また、信仰は律法を確立するという主張を、聖書を用いて行っています(ローマ書四章)。ですから、ユダヤ人によって書かれた新約聖書は、基本的にキリストの福音は旧約聖書を成就完成するのだという立場であると言えます。ただ、成就の仕方がパウロと他の弟子たちとでは違うのです。その違いを明らかにするために、パウロとマタイを較べてみましょう。
 マタイの立場は、彼がまとめた「山上の説教」によく示されています。「山上の説教」はもちろん伝承されたイエスの言葉を編集してまとめたものですが、その編集とまとめ方にマタイの思想が滲み出ています。マタイの立場は、「山上の説教」の標語ともいえる次の宣言にもっとも明確に示されています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。(マタイ五・一七)

 こう宣言して、マタイはイエスの教えがいかにモーセ律法を心の底まで深めているかを解説します。天の国に入るためには、ユダヤ教エリートが行っている律法順守の行為では足りず、それにまさる内面的に徹底化された律法理解と実行が求められているのです。マタイにおいては、律法は否定されているのではなく、ユダヤ教における律法理解の限界とか不足が指摘され、イエスによって徹底深化され先鋭化された律法の実行が要求されているのです。また、マタイにはイエスをモーセにまさる終わりの日のモーセとして描く傾向があります。

 マタイ福音書は、ここにあげた律法の完成という面だけでなく、マルコ福音書を枠としてイエスの生涯を物語ることにより、基本的には恩恵の支配の告知となっていること、また、父の恩恵を告知するイエスの言葉をよく保存して伝えている面があることについては、『マタイによる御国の福音』の序章「イエスの語録と福音」を参照してください。

 こうしてマタイは、「新しい契約」をモーセ契約の延長上に、それを補い完成する契約として描きます。このように、旧い契約を否定するのではなく、その延長上に完成として見る見方、すなわち新しい契約を旧い契約の順当な継承完成と理解する見方を、旧約と新約の順当な接続という意味で、ここでは「順接」と呼びます。
 「順接」と言っても、不徹底な「昔の人はこう命じられている」という律法は、「しかし、わたしは言う」というイエスの新しい律法で否定されている面があることも見落とすことはできません。単純にモーセ契約に留まろうとした保守的なユダヤ人キリスト教は、エルサレム陥落と運命を共にして、歴史の舞台から消えていきました。マタイは、ユダヤ教会堂と激しく戦いながら、イエスの新しい律法を異邦人に宣べ伝えようとする姿勢を持っていたので、異邦人教会の正典として絶大な影響を及ぼすことになるのです。
 それに対してパウロは、ユダヤ教が基本の契約とするモーセ契約をいったん否定した上で、キリスト契約を「律法と預言者」を確立する契約として立てるのです。このように「新しい契約」は「旧い契約」を否定しながら継承しているとする理解を、逆説的な接続という意味で「逆接」と呼ぶことにします。
 二世紀の過激パウロ主義者マルキオンが、この否定の面だけを受け継いで、旧約聖書を全面的に否定したのは間違いでした。彼は旧約聖書の神と新約聖書の神は別であるとしたのです。旧約と新約は接続せず、断絶したのです。これはパウロに対する誤解です。パウロにおいては旧約と新約は断絶せず、逆説的にですが接続しています。旧約聖書の神と新約聖書の神は同じ神です。ただパウロは、恩恵そのものであるキリストの到来によって、恵みの契約であるアブラハム契約が完成し、律法順守を条件とするモーセ契約がその役割を終えたことを明らかにしたのです。律法順守一色に塗りつぶされていた律法主義ユダヤ教から、旧い契約の基本である恩恵の支配を再発見し回復したのです。
 では、神の民であるのに律法順守はもはや必要でないとすると、神の民の在り方、生き方を決める規範はなくなるのではないか、という疑問なり批判が出てきます。それに対してパウロが与える解答が、第二講の主題になります。

契約の土台としての神の信実

 わたしたちキリストにある者は、この「恩恵の契約」であるキリスト契約によって神の民、神の子とされたのです。十字架につけられた復活者キリストにおいて、神が贖いを成し遂げてくださったのです。そして、このキリストにある贖いによって、信じる者は誰でも、律法をどれだけ順守したかどうかとは無関係に、無条件・無代価で、神の子、神の民に属する者となるのです。
 これがキリストによって立てられた新しい契約、キリスト契約です。これは恩恵の契約です。そして、この契約を与えられた神は信実です。神はこの契約を空しくされることはありません。この契約の言葉は空しいものではなく、その通りの内容をもっています。この契約は、ご自身を否定することのできない神の信実によって保証されています。わたしたちに求められているのは、信じること、すなわち、神の信実だけを根拠としてこの契約を受け入れることです。神の信実だけに依り頼んで、この契約に身を委ねることです。
 契約が有効になるには、当事者双方の信実が要求されます。ところが、もしわたしたちに求められる信実がキリスト契約に対するわたしたち自身の誠意とか忠実さであるならば、どこかで破綻します。わたしたちの意志は永遠不変ではなく、弱くて移ろいやすいものです。わたしたちの誠意とか忠誠は移り変わります。人間は本性的に不信実なものです。そのことはイスラエルの歴史も証明してきました。
 「恩恵の契約」としてのキリスト契約は、この人間の側の不信実をも克服しているのです。神はキリストにおいてご自身の信実を現し(ローマ一五・八)、わたしたちが信実であるかないかをもはや問題とすることなく、キリストに現れた神の信実だけに依り頼むこと、すなわち「絶信の信」を可能にしてくださったのです。「わたしたちは不信実であっても、キリストは信実です」(テモテU二・一三)。キリストにおける神の絶対無条件の恩恵は、信実とか信仰の問題も包み込んでいるのです。神はこの「絶信の信」をもってキリスト契約に身を委ねる者に、契約(約束)通りに聖霊を与えて、この契約に生きる力と喜びを与えてくださるのです。この消息は、次講で詳しく見ることになります。
(天旅 1999年5号)