市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第3講

第T部 神の民の形成

2 キリストによる解放

解放者ヤハウェ

原点としてのエジプトからの解放

 聖書の神は解放する神です。民を奴隷状態から解放することによってご自身を神として示される方です。聖書はまず、神がご自分の民イスラエルをエジプトにおける奴隷状態から解放された出来事を語り、それを決定的な神の自己啓示とし、神と人間の関わりの質を指し示します。
 神はアブラハムの子孫がエジプトの地で奴隷として苦しめられているのをごらんになり、カナンの地を与えると父祖たちになされた約束を実現するために、モーセを遣わされます。まずモーセにヤハウェというご自身の名を示し、モーセと一緒にいて驚くべき業をなし、当時の世界帝国エジプトの強力な支配からイスラエルの民を救出されます。その後、シナイ山でイスラエルの民と契約を結び、特別の関係に入られます。その契約関係の土台になる言葉がこれです。

 「わたしはヤハウェ、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。
(出エジプト記二〇・二)

 そしてすぐにこう続きます。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(二〇・三)。すなわち、イスラエルには自分たちをエジプトの奴隷の家から解放した神ヤハウェ以外に神があってはならないというのです。世界では太陽や雨など自然の恵みをもたらす神々、豊饒や健康多産をもたらす神々など、実に多くの神々が拝まれています。しかしイスラエルではそのような神々があってはならないのです。エジプトの奴隷状態から解放するという歴史的出来事を成し遂げてくださったヤハウェだけを神とすることが求められているのです。これがイスラエルの宗教の根本、いやイスラエルの存在そのものの土台です。
 イスラエルの民は約束の地カナンに定住して以来、エジプトから解放してくださったヤハウェを自分たちの神として告白し賛美してきました。イスラエルはヤハウェを礼拝するごとにこう告白しました。

 「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と密の流れるこの土地を与えられました」。(申命記二六・五〜九)

 この告白を核にして、諸部族の歴史伝承が統合され、それに契約にともなう法伝承や祭儀伝承が織り込まれて、世界の始まりからカナン定住にいたる壮大な歴史物語が形成されるに至ります。それが旧約聖書の根幹をなすモーセ五書です。ですから旧約聖書は基本的に解放を主題とする歴史物語です。その物語の中に示される神は、ご自分の民を解放される神であります。

解放者ヤハウェへの背き

 ところが、イスラエルは沃地カナンに定住するようになって、このヤハウェに背きます。その背きは二つの面に現れてきます。第一は、ヤハウェの他にバアルなど沃地の神々を拝むようになったことです。周辺のカナン諸部族の神々は豊饒の神であって、その神話と祭儀は基本的に歴史的解放者であるヤハウェ礼拝と対立します。イスラエルは自分たちの解放者であるヤハウェとの契約に背き、繁栄を求めて他の神々の祭儀に加わるようになったのです。名前の上ではヤハウェを拝みながら、実質では豊饒の神々の祭儀になってゆくのです。第二の面は、イスラエル内部における不義抑圧の横行です。民の内部で力ある者が貧しい者を抑圧するという不義のとどまるところのない増加です。
 この二つは根においてつながっているのです。イスラエルを奴隷の家から解放されたヤハウェは、解放されたご自分の民の中には当然抑圧がないことを期待されます。それは契約の十言(十戒)の後半にこう表現されています。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない」。原文は「してはならない」ではなく、「することはない」という意味です。すなわち、ヤハウェによって解放された民の中には、力づくで隣人の生命、財産、家庭、名誉などを傷つけ奪うような、人権の侵害とか抑圧はありえない、ということです。神によって解放された民は、お互いの間に抑圧のない社会を築くはずなのです。
 ところが、解放の神ヤハウェに背いて豊饒の神バアルを拝むようになった民は、自己の繁栄のために他者を抑圧することをためらわなくなるのです。一例だけあげますと、イスラエルの王アハブはシドンから迎えた王妃イゼベルがもたらしたバアルを拝むようになるのですが、彼は隣人ナボテのぶどう畑が欲しくなったとき、イゼベルにそそのかされて偽証人を用いるという卑劣な手段でナボテを殺し、そのぶどう畑を奪います(列王記上二一章)。民を解放する神ヤハウェとの契約を保証すべき立場の王が、王としての権力を利用して隣人を殺し奪うのです。これは繁栄を神とした結果です。このようなバアル礼拝をヤハウェの預言者エリヤは痛烈に批判するのです。
 イスラエルが沃地に生きた王国時代、とくにその末期に預言者たちが輩出して、民の背きを告発しました。民の背きの二つの面に対応して、預言者たちの批判も二つにまとめられます。一つはバアルなど豊饒神話に基づく土地の神々の祭儀に加わったこと、他は社会に不義抑圧が溢れていることです。そして、この二つはともに、民が解放者ヤハウェを忘れて背いたことの表現なのです。解放者ヤハウェの預言者にとって、強い者が力によって弱い者を虐げることが不義であり、寡婦や孤児に代表される貧しい者を抑圧から救うことが義なのです。ヤハウェはそのような意味で義なる神なのです。
 預言者たちの厳しい批判とヤハウェに立ち帰るようにという呼びかけにもかかわらず、民は自分たちの解放者ヤハウェに立ち帰らず、ついにヤハウェは預言者を通してシナイ契約の破棄を通告されるに至ります。北のイスラエル王国はアッシリヤに滅ぼされ、しばらくして南のユダ王国の民はバビロンに捕囚となります。ヤハウェによってエジプトから解放された民は、解放者としてのヤハウェに背くことによって、再び捕囚の民になってしまうのです。

イスラエルを贖う者

 ところが、捕囚の地においても神のあわれみは絶えることがありませんでした。捕囚の地に再び解放の声が響きわたることになります。それが第二イザヤ(イザヤ書四〇〜五五章)の預言です。彼の預言の内容は捕囚からの解放です。彼はそれを「贖い」という語で語ります。

 「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。
(イザヤ四三・一)

 この預言者においては、ヤハウェは「イスラエルを贖う者」と呼ばれます。「贖う者(ゴーエール)」というのは「買い戻す(権利また義務のある)者」という意味の法律的な用語です。レビ記に次のような規定があります。

 「もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない」。(二五・二五)

「もしあなたのもとに住む、寄留者、滞在者が豊かになり、あなたの同胞が貧しくなって、あなたのもとに住む寄留者ないしはその家族の者に身売りしたときは、身売りをした後でも、その人は買い戻しの権利を保有する。その人の兄弟はだれでもその人を買い戻すことができる」。(二五・四七〜四八)

 このように売り払われた土地や自由を買い戻す義務また権利を有する最も身近な親戚の者を「贖う者」と呼び、買い戻す行為を「贖う」と言ったのです。その実例はルツ記に美しく物語られています。第二イザヤはヤハウェを「イスラエルを贖う者」と呼んで、ヤハウェが捕らわれの地からイスラエルを買い戻し解放されることを予言したのです。
 ではヤハウェはどのようにしてその民イスラエルを贖われるのでしょうか。第二イザヤは当時歴史の舞台に登場しつつあったペルシャのキュロス王をイスラエルの解放者として名指しで予言しています。ヤハウェはキュロスを用いてイスラエルを解放されるというのです。たしかに、キュロスがバビロンを滅ぼし支配を確立したとき、彼の勅令によってイスラエルの民はエルサレムに帰還して、神殿を再建することができるまでになりました。ところが意外なことに、このバビロン捕囚からの解放は、出エジプトの場合のようにその後のイスラエルの信仰の根幹となるような告白を生み出した形跡がありません。このバビロン捕囚からの解放は、破棄されたシナイ契約に代わる「新しい契約」をもたらした出来事としては扱われていません。
 キュロスによる解放を予言した第二イザヤ自身が、別の人物による別の「贖い」を予感していると見られる節があります。第二イザヤには「ヤハウェの僕」の預言がありますが、この苦しみを受ける僕はとうてい大帝国の支配者キュロスではありえません。「神の手にかかり、打たれた」僕が「自らを償いの献げ物とする」ことによって、「主の望まれることが、彼の手によって成し遂げられる」のです(五三章)。民の背きを自ら背負って砕かれるこの「僕」によって、民はいやされ平和が与えられるのです。これはキュロスによる歴史上の解放とは異なる次元の解放です。
 先に掲げた四三章一節に明確に語られているように、第二イザヤが予言する「贖い」は創造の業と並んで語られる次元のことがらです。すなわち、初めに創造の業をなされた方が終りに贖いの業を成し遂げられるのです。このことが「わたしは初めであり、終りである」と宣言されます。贖いは神の終末的な業です。その終末的な贖いを成し遂げる者として「ヤハウェの僕」の姿が預言者に示されたのです。キュロスによる歴史上の解放は、この終末的な解放の予型にすぎないものであって、より根源的な予型としての出エジプトに取って代わることはなかったのです。

解放者イエス

解放としての癒し

 イエスは解放者として登場されました。イエスはガリラヤで宣教を始められたとき、終末的な解放を予言するイザヤの言葉を引用してこう宣言されました。

 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。……この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。(ルカ四・一八〜二一)

 イエスの解放の業は、まず悪霊や病気に押さえつけられている人々の解放という形で現されました。イエスが悪霊に命じられると、悪霊は出て行って、それまで悪霊に取りつかれていた人が正気に返るという劇的な形で、イエスは人々を悪霊の支配から解放されました。その業を悪霊どもの頭ベルゼブルの力によるものと批判した者たちに対して、イエスは内輪もめする国や家の譬で論駁し、その業が神の指(霊)によるものであり、それによって神の支配が到来しているのだと宣言されます。神の支配の到来は、神に敵対するサタン的な力からの解放として語られます。その解放の出来事は、「強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」という譬で描かれます(ルカ一一・一七〜二二)。
 病気や障害の癒しもサタンの支配からの解放として語られます。イエスは安息日に十八年間も腰が曲がったままの女性を癒されたとき、こう言っておられます。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(ルカ一三・一六)。また、十二年間も出血が止まらなかった女性が癒されたとき、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられます。ここで「救った」というのは、病苦から解放されたということです。このように、イエスが神の力によって人々を苦しみから救い出されたとき、それは「捕らわれている人に解放を告げる」働きの第一の現れです。

律法の支配からの解放

 さらに、イエスが取税人や遊女と交わり、「神の国はあなたがたのものだ」と宣言されるとき、イエスは人間を律法の支配から解放しておられるのです。取税人や遊女など「地の民」と呼ばれた人々は、律法を守ることができない民として、永遠の生命などの神の祝福を受ける資格のない者とされていました。当時のユダヤ教社会では律法が支配していました。ユダヤ教の律法を守り行うことが一切の価値の規準になっている社会でした。生活の状況から律法を守ることができない階層の者は、軽蔑され、差別され、排斥されたのです。そのような人たちをイエスが受け入れて「さいわい」を宣言される時、イエスは律法の支配とは全然別の支配を宣言されているのです。
 それは恩恵の支配です。いまや、イエスに父としてご自身を現された神は、人が律法をどれだけ守ったかとは無関係に、資格のない者を無条件に受け入れてくださっているのです。これが恩恵です。イエスはすべての人を律法の支配から解放して、恩恵の支配に招き入れてくださっているのです。これが「主の恵みの年を告げる」ことです。ところが、自分は律法を守っているので神の祝福を受ける資格があると考えている「義人」たちは、イエスが宣言される恩恵の支配を、自分たちの立場を根底から覆すものとして、イエスに反対し、イエスを憎み、ついに殺すにいたります。
 イエスは、律法が支配する宗教社会で恩恵の支配を宣べ伝えるならば、憎まれ殺されるにいたることを覚悟しておられたようです。ご自分の受難を弟子たちにさまざまな形で語っておられます。さらに、イエスはご自分の受難の死を避けられないものとしておられただけでなく、それを「ヤハウェの僕」の預言を成就する死であると受け止めておられたようです。イエスが「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ一〇・四五)と語られるとき、イザヤ書五三章の響きが聞こえてきます。最後の食卓でイエスが、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ一四・二四)と言われるとき、ここでも「多くの人のために」苦しみを担う「ヤハウェの僕」の姿と、彼によって成し遂げられる終末的な贖いに基づく「新しい契約」が指し示されていることに気づきます。イエスはご自分の死を、多くの人を解放して、神との新しい終末的な関わりに導き入れるものとしておられるのです。

キリストにおける解放

罪の支配からの解放

 イエスが死人の中から復活されたとき、弟子たちは十字架につけられて殺されたイエスをキリスト(神から油を注がれた救済者)として宣べ伝え始めました。このイエス・キリストにおいて神はわたしたちの救いの業を成し遂げてくださったという告知が「福音」です。いまや、神は選ばれた使徒たちを通してこの福音を世界に宣べ伝え、この福音を信じる者を救われるのです。使徒パウロはこの福音についてこう言っています。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。(ローマ一・一六)

 ここで「救い」というのは、まず何よりも解放を意味します。その救いの内容は、ローマ書全体において展開されているのですが、一言でまとめるならば、「キリスト・イエスにおける命の御霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ八・二私訳)ことだと言えます。ここでいう「法則」という語は、支配とか力と読んでも間違いではないでしょう。救いとは、人間を支配している滅びの力からの解放です。キリストにおいて働く神の御霊の力による解放です。福音は、この解放をもたらす神の力が働く場です。では、この解放はどのような姿で現れるのでしょうか。もうすこし詳しく具体的に見てみましょう。
 まず、救いとは罪の支配からの解放です。罪というとわたしたちは、神の掟や教団の定め、国の法律とか社会の道徳というような、なんらかの規範に違反する行為を考えます。しかし、そのような罪は人が犯したり犯さなかったりする行為であって、人がそこから解放されなければならない力ではありません。このような諸々の違反行為は複数形で語られますが、パウロが罪というときは単数形であって、それは個々の違反行為ではなく、人を支配する一つの力なのです。それは人を神から引き離し、自分を神とすることによって、神に背かせる力なのです。人間はこの罪の支配の下にある結果、創造者たる神の定めを全うすることができない、すなわち人間の本来のあり方を全うすることができないようになっているのです。人間は本来の自己の完成に向かって努力するほど、それができない現実との矛盾に苦しまなければならないのです。この罪の力の支配は、生まれながらの人間の本性の中に深く組み込まれていて、自分が罪の支配下にあることすら気づかないのが普通です。それに気づいて、どのように修行努力しても、自分でその支配から脱出することはできません。
 わたしたちは、わたしたちの罪のために死なれ三日目に復活されたキリストに合わせられることによって、罪の支配から解放されるのです。福音を信じてキリストに自己の全存在を投げ込むとき、キリストの死が自分の死になるのです。わたしはキリストの死に合わせられて死ぬのです。この本性的に罪と一体となっている自己が死ぬことによって初めて、わたしたちは罪の支配から解放されるのです。この間の消息はローマ書六章に詳しく語られています。わたしたちは罪の支配から解放されて、神の支配の下に移り、そこで神に仕え、神との命の交わりの中に生きるようになるのです。そこで、「アッバ、父よ」と祈り、神の子として生きるのです。
 罪から解放された者は、人生の苦しみから解放されます。これは、罪から解放された者には人生の一切の苦難がなくなる、と言っているのではありません。力づくで覇をきそう人の世にこの朽ちるべき弱い体をもって生きる限り、キリストを信じる者にも病気や挫折、紛争、裏切り、差別というような様々な苦難があります。そのうえ信仰のために世から迫害や差別を受けるという苦難まで加わります。しかし、キリストに結ばれて生きる者は、罪から解放されて神との命の交わりの中に生きていますから、このような人生の苦難をも神の恵みの隠された業として受け止め、苦難の中でも勝ち誇ることができるのです。苦難の中で、わたしたちは「アッバ、父よ」と、神にその苦難からの解放を祈り求めます。神はその祈りに応えて、驚くべき仕方で病気を癒し問題を解決してくださいます。その時わたしたちは神の力と恵みをたたえます。たとえそうでなくても、わたしたちは神との命の交わりの中にいますから、神の解放する力と恵みの意志を信じて、苦難の中で忍耐して待ち望むことができます。そして、その忍耐の中で、神の愛に生きる信仰と希望に鍛えられてゆくのです。

 「そればかりでなく、わたしたちは苦難においても勝ち誇ります。わたしたちは、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、その希望は空しくないことを知っているのです。それは、賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中に溢れ出ているからです」。(ローマ五・三〜五 私訳)

 いづれにしても、キリストにあって生きる者は、様々な苦難が人生にもたらす破壊的な力から解放されており、苦難を建設的な勝利の場に変える秘訣を知っている、と言えます。

律法の支配からの解放

 次に、キリストにある者は律法からも解放されています。律法とはある宗教が人間に守るように求める定めの総体です。律法は本来それ自身の固有の意義と働きをもち「聖なるもの」ですが、その定めを守り行うことが神との関係の基礎とされるようになりますと、律法は本来の意義と働きを超えて変質し、人間を奴隷のように外から拘束する力になってしまいます。新約時代のユダヤ教は、まさに人を拘束する律法になってしまっていたのです。ユダヤ教だけでなく、人間が戒律とか定めを守ることによって救われるとする宗教においては、人間は律法の支配下にあって、外から律法に拘束されているのです。このような祭儀を行い、このように考え、かくかくの行いをもって生活しなければ救われないという宗教においては、人はそれ以外の行いをすることは許されず、奴隷のように縛られているのです。このような宗教は、宗教自体が律法となって人間を支配し縛るのです。キリストに結ばれて生きる者は、もはやこのような律法の支配の下にはいません。律法の支配から解放されているのです。パウロはこの消息を、ローマ書七章(一〜四節)で結婚の比喩を用いて語り、律法は人が生きている間だけ支配するものであるから、キリストに合わせられて死んだ者は律法から解放されていると言っています。

 「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」。(ローマ七・六)

 パウロが語る律法とはユダヤ教のことですが、キリストにある者はユダヤ教だけでなくあらゆる宗教的律法から解放されています。この儀礼を行わなければならないとか、このような生活習慣を守らなければならないとか、これは食べてはならないとか、そういう拘束はいっさいありません。まったく自由なのです。彼が従うべきものは、自分を解放した「命の御霊の法」だけです。御霊に従って生きることだけが、解放してくださった方への責任です。
 「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」(ローマ六・一四)。神はキリストによってわたしたちを律法の支配から解放し、圧倒的な恩恵が支配する場に移してくださいました。キリストにおいては、無条件絶対の恩恵が支配しています。その場に生きる者にとっては、自分も無条件で赦されて受け入れられてのであるから、隣人に対しても相手の善悪とか価値を問わずに無条件で受け入れて愛することだけが求められるのです。イエスはそのことをこう表現されました。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ六・三六)。

死の支配からの解放

 最後に、キリストにある者は死から解放されています。キリストを信じても、信じない人と同じように死んでゆくのに、どうして死から解放されていると言えるのでしょうか。それはキリストに結ばれている者は、キリストが死者の中から復活されたように復活するからです。復活は神の最終的な解放の業です。復活についてパウロはこう言っています。「被造物だけでなく、御霊という初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(ローマ八・二三)。ここに「体の贖い」ということが言われています。この「贖い」はまさに第二イザヤが用いていた「贖い」、すなわち解放を意味します。
 これは「体からの解放」ではありません。ギリシャの宗教に代表される霊魂不滅の信仰では、死は霊魂が囚われていた牢獄である体から解放されて永遠の次元に入ることでした。ここで待ち望まれているのは、このような「体からの解放」ではなく「体の解放」です。体そのものが「朽ちるべき卑しい形」から解放されて、永遠の「霊の体」に変えられることです。それは体を備えた人間の全体が最終的に解放される出来事です。神は人間を精神とか心だけでなく、体を含めた全存在を解放されるのです。それはキリストの来臨の時に起こります。それでルカはキリストの来臨を「あなたがたの解放の時」と呼ぶのです(二一・二八、ここの「解放」はローマ八・二三の「贖い」と原語は同じです)。
 たしかに復活は約束であり将来のことです。しかし、キリストにあって賜っている聖霊はイエスを死者の中から復活させた方の霊であり、聖霊によって生きることは、死に定められた体の中にあって復活に至る質の生命に生きることなのです。それで聖霊は来るべき栄光の「保証」とか「初穂」と呼ばれます。現在すでに初穂としての聖霊の命によって復活の希望に生きているのですから、死は不安とか恐れではなくなります。死はその刺を抜かれているのです。死はもはや人間を根源的に捕らえ支配する力ではなくなっています。その意味でキリストにある者は現在すでに死から解放されていると言えます。
 このように、聖書の神は解放する神です。選ばれた民イスラエルをエジプトの奴隷の家から解放することによって、あらかじめご自身を解放する神として示されましたが、終りの時にいたってイエス・キリストにより人間を罪と死の支配から解放するという最終的な業を成し遂げてくださいました。聖書はこの解放する神を証言する書です。わたしたちはキリストにあって解放された民です。この解放の場に生きることが聖書を証言することであり、神を崇めることであります。

(天旅 1992年4号)