市川喜一著作集 > 第8巻 教会の外のキリスト > 第2講

第T部 神の民の形成

1 福音の基本

基本中の基本としてのキリストの復活

キュリオス・イエスース

 何事にも基本が大切です。一芸に達した人、道を極めた人はみな、基本が大切であることを強調してやみません。基本が身についていなければ、その道でいくら努力しても本物にならないと言われています。信仰についても、人の歩む道として同じことが言えます。信仰の基本がしっかりと身についていなければ、いくら熱心に教会に通い聖書を学んでも、本物のキリスト者として成長することはできません。
 ところで、信仰とは神の言葉から来るものです。そしてこの終わりの時においては、神はキリストによって最終的に世界に語られたのですから、キリストを告げ知らせる福音こそ、基本的な神の言葉である、と言えます。「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉による」と書かれているとおりです。
 それでは、キリストを告げ知らせる福音の基本的内容は何でしょうか。福音の内容を煮詰め、凝縮して行くと、最後に残るものは何でしょうか。それを、新約聖書に伝承されている最も簡潔な信仰告白の形式を手掛かりにして見ることにしましょう。
 使徒パウロはコリント人への第一の手紙(一二・三)で、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主《キュリオス》である』と言うことはできない」と言っています。この(ギリシア語で)「キュリオス・イエスース!」という叫びは、集会での祈りで、聖霊に満たされた人の祈りの叫びであるとされていますが、これこそ初代の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。後にキリスト教会の基本的信条となる「使徒信条」も、この「イエスは主である」という一項目の信条が、父・子・聖霊の三項目に展開して成立したと言われています。
 この「キュリオス・イエスース!」という告白がどれほど重大な意義を持っていたかは、これを当時の口ーマ世界の信条ともいえる「キュリオス・カイサル!」という叫びと対比してみれば分かります。当時のローマ世界の人たちには、ローマ皇帝(カイサル)を超える主権者を考えることはできませんでした。そのような世界の中で、信徒はナザレ人イエスこそキュリオスであると叫んだのです。皇帝が神格化された時、別の人をキュリオスと告白するキリスト者は迫害されざるをえませんでした。初代の信徒たちは、この「キュリオス・イエスース!」という告白の故に殉教したのです。この信仰告白は命がけの告白でした。
 十字架の上に刑死したナザレ人イエスを、天上・地上・地下の三界の主(キュリオス)と告白するのは、イエスが復活されたからです。「キュリオス・イエスース」という告白は、イエス復活の信仰と一体です。このことは、ローマ人への手紙の中で、へブル的並行法の表現をもって次のように書かれています。

 「自分の口でイエスを主《キュリオス》であると告白し、自分の心で神が死人の中からイエスを復活させたと信じるならば、あなたは救われる」。(ローマ一〇・九、なおローマ一・二〜四参照)

 心で信じ口で告白するとは、全人的な信仰行為であり、その内容はイエスの復活です。その信仰だけで人は救われるのです。イエスの復活こそ、福音の基本中の基本です。信仰の基本中の基本です。

福音の基本的内容

福音の基本的な定式

 十字架につけられたイエスを神は復活させた! この事実こそ福音の基本中の基本ですが、この事実はわたしたちにとって何を意味するのでしょうか、どのような救いの内容が含まれているのでしょうか。使徒パウロが福音の「最も大事なこととして伝えた」内容を聞きましょう。これはパウロ自身も受けたこと、すなわち初期の教団の公同の信仰告白でした。

 「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと、ケパに、そして次に十二人に現れた」。
(コリント人への第一の手紙一五・三〜五)

 まず、キリストが死んで復活された事実は、「聖書に書いてあるとおり」に起こったことと意義づけられています。ここでいう聖書とは旧約聖書のことであり、神がイスラエル民族二千年の歴史の中で為された業と啓示との記録です。その中で神は、終わりの日には救済者を地上に遣わして、最終的・決定的な救済の業を為し遂げると約束してこられました。今その救済者(キリスト)が現れたのです。イエスが十字架上に死に、三日目に復活されたのは、この約束の成就です。イエスの十字架と復活こそ、約束されていた神の最終的な救済行為です。このことも福音の基本に属する事柄です。
 先に、イエスは復活によって《キュリオス》となられたことを見ましたが、このことは、イエスは復活によって《クリストス》と世界に公示された、と表現することもできます。五旬節の日の最初の福音宣教において、ペトロはこう言っています。「イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は(復活させて)《キュリオス》また《クリストス》としてお立てになったのである」(使徒行伝二・三六)。この用法からも分かるように、《クリストス》とは本来、《キュリオス》と同じく終末的救済者を意味する称号なのです。
 この《クリストス》(=キリスト)が十字架上に死なれたのです。これは一体どういうことなのでしょうか。その出来事の本質は、罪なき神の子キリストが、神の御計面(御旨)に従い、「わたしたちの罪のために」死なれたことにあります。わたしたちの罪を負い、罪に対する神の裁きを受け、死の暗闇を味わわれたのです。それは、彼を信じ彼に合わせられる者が、彼と共に死ぬことにより、罪に対して死に、罪の支配から解放されるためです。キリストの十字架上の死、それは神の贖罪の業であり、奥義中の奥義です。

福音の基本としての死者の復活

 この基本的な信仰告白の定式において、キリストの死については「わたしたちの罪のために」という形でその本質が語られていますが、キリストの復活については、復活の事実が「誰それに現れ」という形で証言されているだけで、キリストの復活がわたしたちにとって何であるのか、その出来事の本質は示されていないように見えます。しかしよく見れば、この章(コリント人への第一の手紙一五章)全体がイエスの復活という出来事の本質を語っていることが分かります。一言で言えば、「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中から復活した」のです。キリストの復活は、キリストおひとりだけに起こった、あるいは起こりうる不思議な現象ではありません。神は終わりの日に御自身に属する民を死人の中から復活させて、栄光の霊体をもった者たちの栄光の共同体を完成しようとしておられるのですが、そのみ業の端緒としてキリストを復活させられたのです。キリストは、終わりの日に死人の中から復活するすべての者たちを御自身の中に含んで復活されたのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにある者はすべて復活するのです。キリストは初穂として復活されたのです。
 もし神が為し遂げられる最終的なみ業の中に、死人の復活ということがないのであれば、新しい神の民のかしらとなられたキリストも復活されることはなかったのです。キリストの復活と、彼に属する者たちの復活とは一体です。一方を否定して、他方を肯定することはできません。キリストの復活を信じることは、信じる者たちの死人の中からの復活を信じることでもあるのです。
 こう理解すれば、人がそれを信じることによって救われる福音とは、このように要約できるでしょう。「キリストが、神の約束の最終的成就として、わたしたちの罪のために死んだこと、そしてわたしたちの復活の初穂として、死人の中から復活したこと」です。これが福音の基本です。その基本の中には、わたしたちの死人の中からの復活が含まれています。これを否定しては、福音は福音でありえないのです。

聖霊によって福音を生きる

御霊の場

 基本は身につけなければなりません。これが福音の基本であると分かっているだけでは、実際の信仰生活の土台にはなりません。神はキリストを信じる者がこの基本をしっかり身につける方法をも備えてくださっています。それが聖霊の賜物です。神は「自分の口でイエスは主であると告白し、自分の心で神がイエスを死人の中から復活させたと信じる」者に、聖霊を注ぎ与えて、キリストの死と復活とに合わせられる、またはあずからせられるのです。
 キリストが自分の罪のために死んだこと、キリストの復活の中に自分の復活が含まれていること、この両方ともあまりにも人の思いを超えており、生まれながらの人はこれを受け入れることはできません。むしろ、拒否反応を起こすのが普通です。このキリストの死と復活という福音の基本を、人の心に示し、迫り、刻み付け、その生涯を通して身につけさせる力は聖霊です。聖霊が働きたもう場において初めて信仰が可能になります。

賜物としての聖霊

 この福音は、「信じなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受ける」という約束を伴って宣べ伝えられています。イエスは復活して天に上げられ、神から約束の聖霊を受けて、信じる者に注ぐ業を始めておられます。イエスは復活によって、「聖霊によってパブテスマする方」となられました。復活者キリストだけが神の霊を与えることができる方です。
 聖霊は神の賜物です。誰も聖霊を受ける資格はありません。ただ、復活者キリストを信じ、その十字架にひれ伏す時、恩恵として与えられるのです。そして、聖霊を注がれる時はじめて、十字架の奥義、復活の約束が、自分の存在の根底となり、生きる土台となってきます。すなわち、福音の基本が身についてくるのです。こうして、聖霊によってはじめて、生ける復活者キリストに結ばれて生きる新しい生が始まります。この聖霊の現実なしでは、福音は福音でありえません。
 このように、イエスの復活は、福音のすべてがそこから発する原点です。復活者キリストの死であるから、十字架はわれらの罪からの解放となります。復活によってキリストは「終わりのアダム」となられ、われらの復活の初穂となられました。そして、復活によって、終末的な神の賜物である聖霊を与える者となられたのです。イエスの復活こそ福音の基本中の基本です。

(アレーテイア 4号 1986年)