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序章 教会の外のキリスト

はじめに

 キリスト教というのはキリストを信じ、キリストによって生きることを内容とする宗教です。そして、普通キリストを信じる、あるいはキリスト者として生きるとは、キリスト教会に所属して、その教えに従って教会生活をすることだとされます。すなわち、キリスト教はキリスト教会の中にあるとされるのです。もっとも、キリスト教会と言っても、ギリシャ正教会、ローマカトリック教会、プロテスタント諸教会と多くの教会があり、さらにその中にも多数の派があって、それぞれが真正なキリスト教会であることを標榜していますので、どの教会が真正なキリスト教を保持しているのか、わたしたちは迷います。しかし、キリスト教はキリスト教会の中にあるという主張は共通です。キリスト教徒というのは、どれかの教会に所属して、教会生活をしている者であるというのが常識になっています。
 この常識に対して、わたしたちは、教会の外でもキリストに出会い、キリストに結ばれて歩み、キリストの命を生きることができると主張しています。今回、この主張が何を意味し、何を意味していないか、その輪郭を描いておきたいと思います。

どこでキリストに出会うか

教会の内と外

 キリストに出会うことができる場所の第一は、やはりキリスト教会です。キリスト教会では、毎週日曜日にキリストの福音を説く説教があり、専任の牧師が信仰生活を指導してくれます。教会に行って説教を聴き、キリストに出会い、教会の交わりの中で立派な信仰生活を進めている方は多くおられます。教会は実に尊敬すべきキリスト者を輩出しています。
 しかし、キリスト教会はキリストに出会うことができる唯一の場所ではありません。キリスト教会の外でも、キリストの福音が宣べ伝えられているところであれば、そのキリストの福音を聴くことによって、キリストと出会うことができるのです。聖書もこう言っています。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。
(ローマ一〇・一七)

 たとえば、パウロが地中海世界の諸都市で初めて福音を伝えたとき、そこにはまだキリスト教会はありませんでした。パウロの福音を聴いて信じた人たちは、教会の外でキリストに出会ったのです。キリストから遣わされた者が「キリストの言葉」(キリストという言葉、キリスト自身)を語るところでは、信仰、すなわち、キリストと出会い、キリストとの交わりに生きる現実が始まりうるのです。
 一方、キリスト教会に所属し、その教えに従って教会生活を続けたとしても、必ずしもキリストに出会うとはかぎりません。もしそこで聖書の知識が授けられ、倫理(キリスト教的な生活の仕方)が説かれているだけであるならば、何年教会に通っても、キリストに出会うことはできないでしょう。キリストに出会うとは、復活された方に出会うことです。そして復活された方に出会うのは、その方を復活させた神の霊の働きによります。わたしたちのために十字架につけられた復活者キリストの福音が、信仰によって語られ、信仰によって受け止められている場に、御霊が働き、復活者キリストとの出会いという霊的出来事が起こります。それは教会生活の長さとは関係がありません。
 使徒パウロはこう訊ねています。「あなたがたが御霊を受けたのは(すなわち、御霊を受けて復活者キリストと出会うという体験をしたのは)、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(ガラテヤ三・二)。もちろん、律法を行ったからではなく、福音を聞いて信じたからです。パウロの場合、「律法を行う」というのは、割礼を受け食事規定を守るようなことも含めて、ユダヤ教の戒律を守り、ユダヤ教徒として生活をすることでした。ガラテヤの人たちは、ユダヤ教徒として忠実に生活するようになったから、御霊を受けて復活者キリストと出会う体験をするに至ったのではありません。それは、復活者イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたパウロの宣教の言葉を、信仰によって聞いたからでした(ガラテヤ三・一)。今わたしたちは、洗礼を受け聖餐にあずかるという教会生活を忠実に続けたから、御霊を受けて復活者キリストに出会うのではありません。その出来事が起こるのは .、教会の内であっても外であっても、御霊によって語られる福音の言葉を、信仰によって聞くことによります。「信仰によって聞く」とは、自分の現実の姿を問題にしないで、自分の全存在をその言葉に投げ入れることです。そこに御霊が働き、御霊が注がれるのです。その時、キリストに出会うという霊的出来事が起こるのです。

聖書と聖霊

 このように御霊によって復活者キリストと出会った最初期の人たちの証言が新約聖書です。その証人たちの中には、ペトロのように地上のイエスと親しく接した弟子もいましたし、パウロのようにイエスに敵対した聖書学者もいました。ペトロのような直弟子たちは、復活者キリストは復活されたイエスに他ならないことを証言して、「イエス・キリスト」という信仰の土台を据えました。パウロのような聖書学者は、世界におけるキリスト信仰の意義を確立しました。復活者キリストは選ばれた者に御霊によってご自身を示し、彼らを証人として世界に遣わされたのです。このように、復活者に出会った最前線からの報知が「福音」であり、その証言の記録が新約聖書です。
 新約聖書とはこのような性格の文書ですから、わたしたちは今この新約聖書を通して復活者キリストの告知、すなわち福音を聞くことができるのです。しかし、新約聖書が復活者キリストとの出会いの証言である以上、それを読むわたしたちが同じように御霊によって復活者キリストと出会うのでなければ、新約聖書をその本来の性格に応じた読み方で読むことはできないことになります。そのとき新約聖書は本来の性格とはまったく違った取り扱いを受けることになります。たとえば、詩集は詩的感動で共感するために読むものですが、それを文法の教科書として用いるようなものです。
 もしわたしたちが新約聖書を読んで、その中に自分に語りかけるキリストの言葉を聞き、その言葉に自分を投げ入れることができるのであれば、わたしたちは聖書を読むことによって聖霊を受け、復活者キリストに出会うことができるでしょう。しかし、それは稀なことです。普通わたしたちが聖霊を受けるのは、信仰の交わりの中で福音の言葉を聞くときです。御霊によって復活者キリストとの交わりに生きている人たちと祈りを共にする場で、福音の言葉を聞き、その言葉に自分を委ねるとき、御霊の深い取り扱いを受け、何らかの形で復活者キリストの現実に接することができるのです。福音は人から人へ伝わるものです。そのような御霊の場を地上に確保することに、キリスト者の交わりとしての集会や教会の存在意義があるのです。
 こうして、御霊によって復活者キリストとの交わりに生きるようになったときに、新約聖書は、復活者キリストを証言する書として、その本来の姿をわたしたちに現します。その時はじめて、わたしたちは新約聖書の世界に生き、共感し、理解することができるようになるのです。
 ところで、イエス御自身はユダヤ人であり、復活者キリストの最初の証人たち、すなわち新約聖書を生みだした人たちも、ほとんどみなユダヤ人でした。彼らは自分たちの聖書(旧約聖書)が神の啓示であることを当然として受け入れていました。それで、彼らが体験した復活者キリストの現実も、彼らの聖書が語り続けてきた約束と預言の成就であると理解されるのも当然でした。こうして旧約聖書も、新約聖書の著者たちによって、復活者キリストの証言として扱われ、旧約新約の両聖書全体が復活者キリストの証言となったのです。事実、イエス・キリストの出来事、すなわち復活者キリストの十字架の死による人間の救済というような性質の出来事は、イスラエル二千年の啓示の歴史がなければ、あり得なかったでしょう。その意味で、旧約聖書は福音の本質的な(それがなければ福音が福音でなくなる)構成要素です。

教会の自己否定

 教会の外でも復活者キリストに出会うことができるという主張は、教会はなくてもよいと言っているのではありません。もし「無教会主義」が教会はなくてもよいという主張であるとすれば、わたしは無教会主義者ではありません。教会は尊い存在です。地上でキリスト教会ほど貴重なものはありません。その中に神の福音が保持されているのですから。
 教会は地上の人間が営む組織体として、どの組織体もそうであるように、光と影の両面があります。教会は権力からの激しい迫害に耐えて、多くの殉教者の血をもって信仰の告白を貫きました。内なる異説に対して、多くの論議を費やして福音の健全な理解を保持しました。多くの未開民族を教化して、文化の水準を引き上げました。世界の悲惨を担い、平和をもたらす多くの高潔な指導者を送り出してきました。しかし反面、教会は内部で相争い、殺し合うことまでしてきました。自分の教説と異なる者を迫害し、権力と癒着して反対者を追い出し、教派間で戦争をし、自分が支配権を握ったところでは異説の者や批判者を裁判し処刑してきました。
 どのように暗闇の面があろうとも、教会が地上で神の福音を保持する組織体として、何よりも尊い存在であることをわたしは疑いません。わたしは、ギリシャ正教会とかローマカトリック教会とかプロテスタント教会の一つとか、どの制度的な教会にも所属していませんが、キリスト教会の一員であると自覚し、それを誇りとしています。どの制度的な教会にも所属しないのは、教派の教理に拘束されないで福音の真理を追究したいからであり、教会の枠にとらわれないで交わりを持ちたいからです。
 わたしは教会の外にいる者としてではなく内にいる者として、「教会の外でもキリストに出会うことができる」と主張しているのです。この主張は外からの教会批判ではなく、内からの自己否定の告白です。教会が「教会の外でもキリストに出会うことができる」と主張すべきなのです。
 教会はこれまで「教会の外に救いなし」と考え、そう主張してきました。そして、この確信を拠り所として、外の人々を教会の中に導き入れて、自己を拡大することを目標にして伝道活動をしてきました。これは教会の自己主張です。教会自身が、すなわち教会の存立と拡大が目的となっているのです。しかし、教会がそのように自己主張するかぎり、教会はいつまでも外の世界と対立し、世界の中で特殊な一領域に留まります。
 主イエスはこう言われたのではなかったのでしょうか。

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。(マルコ八・三五)

 これは弟子としての信徒個人に言われた言葉でしょうが、教会もこれを自分への主の言葉として受け取るべきではないでしょうか。教会が自分を目的とするのではなく、世界が福音を聞き、キリストに出会うことを目的として、「教会の外でキリストに出会い、教会の外でキリストの命を生きることができる」とする立場に立つべきです。それは教会が自己の存在意義を否定しているようですが、実はそれが教会を真に生かす道であると、わたしは思います。神は世界の中の特殊な領域としてご自分の民を持つことを求めておられるのではなく、世界がご自分の民となることを欲しておられると、わたしは確信しています。教会がこの神のご意志に忠実に従い、自己否定の道を歩み、たえず自らから出て行くときに、教会は本来の使命に生き、神の命に生きることになるのではないでしょうか。

キリストと共に歩む

御霊による歩み

 キリストと出会った者はキリストと共に歩みます。せっかく出会ったのに、すぐ「はい、さようなら」では、すれ違っただけで出会ったことにはなりません。一緒に歩むようになってはじめて、本当に出会ったと言えるのです。では、「キリストと共に歩む」とはどういうことでしょうか。その歩みは普通人間としてよく生きることとどこが違うのでしょうか。
 まずここでも第一にはっきりしておかなければならないことは、キリストと共に歩むことと教会生活をすることとは別だということです。教会生活を送ることができるのは特権であり、有益なことです。しかし、それが直ちに「キリストと共に歩む」ことにはなりません。教会生活という特権に恵まれながら、キリストと共に歩んでいない場合もあります。教会は、キリストに出会った者が「教会の外で」キリストと共に歩むように教え励ます場所なのです。
 わたしたちが教会の外で、すなわち一般社会で、一人の人間として生活するときに、「キリストと共に歩む」ことが問題になるのです。では、キリストと共に歩むとき、そうでない普通の歩みと比べてどこが違ってくるのでしょうか。
 その違いの根本は、わたしたちを生かす力、わたしたちを歩ませる原動力が別のところから来るようになることです。キリストに出会った者は、キリストに合わせられて、「自分」が死ぬのです。今までわたしたちを生かしていた「自分」が、キリストと共に十字架につけられて死に、復活されたキリストが御霊としてわたしたちの中に生き始めてくださるのです。わたしたちを生かす力は、もはや自分自身ではなく、わたしたちの内に生きてくださるキリスト、御霊のいのちなのです。
 これがキリストに出会うときにわたしたちの内に起こる霊的な出来事です。ところが、現実のわたしたちは以前と同じように、この身体とひとつに結びつけられた生命を生きています。ここに、地上でキリストと共に歩む者の二重性が生じます。「外なる人」としてのわたしは、生まれながらの自然の生命を生きています。ところが、その中に御霊の命を生きる「内なる人」が生き始めます。現実に地上で生きるとき、わたしたちは生まれながらの自然の命に従って生きるのか、それとも内なる御霊によって生きるのか、選ばなければならなくなります。キリストにある者は、今まで人間が知らなかった選択を迫られることになります。
 使徒パウロはキリストにある者の歩みを一言でまとめてこう言っています、「御霊によって歩みなさい」。パウロは人間の生まれながらの命の質を「肉」と呼び、「肉」の望むところと御霊が望むところは相反するのであるから、「肉」が望むところを求めるのではなく、御霊が望むところを実現するために、御霊に従って歩むように求めるのです(ガラテヤ五・一六〜一七)。
 わたしたちは「肉」の働きはよく知っています。わたしたちの生まれながらの本性は自己中心、自己追求であって、そこから人間社会の様々な罪と悲惨が結果していることはよく理解しています。わたし自身もその中にいるのです。それは「生まれながらの本性」ですから、それから免れて生きることはできないのです。しかし、もしわたしたちが御霊によって歩み始めるならば、わたしたちの人生に今までなかった新しい相が現れてきます。それは信仰と愛と希望という相です。

信仰・愛・希望

 わたしたちの内に始まった新しいいのちは、まず信仰という形で現れてきます。ここで「信仰」というのは、わたしたちがこれまで体験してきた宗教生活のことではありません。そのような意味の信仰は、わたしたちの生まれながらの本性的ないのちも十分その必要を知り、実践してきました。自分の幸せを求め、自分の力に余るところを神仏に願うという信仰は、人間の本性から出てきました。しかし、キリストにあって受ける御霊がもたらす信仰は、イエスが「アッバ、父よ」と祈って父と一つになって歩まれたように、父への信頼と委ねによる歩みです。それは、子として創造者なる神と親しい交わりに入ることです。そのことを、使徒パウロが次のように言っています。

 「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。(ローマ八・一四〜一五)

 この信仰によって、わたしたちは人生の不安や苦難の中にあっても、神の信実と慈愛を土台とすることで平安の中に歩むことができるようになります。この信仰によって、わたしたちは自分の名誉や繁栄を求める祈りではなく、神の栄光を求める「主の祈り」を祈る人生を貫くのです。
 次に、御霊がもたらす新しいいのちは、わたしたちの中に今まで知らなかった質の愛を芽生えさせます。それは、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているから」(ローマ五・五)、わたしたちもその質の愛に生きざるをえなくなるのです。
 わたしたちは、イエスが「敵を愛しなさい」と求められたことに驚いています。たしかに、これは人間本性だけから出る倫理には不可能なことです。しかし、イエスは決して不可能を求めておられるのではなく、まず父の無条件絶対の愛を与えて、その愛に生きるように勧めておられるのです。イエスはこう言っておられます。

 「あなたがたの父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となりなさい」。(ルカ六・三六)

 父が背く者をも赦して無条件で受け入れて愛してくださるのであるから、その愛によって生きるあなたがたも、相手の価値にかかわらず(敵であっても)受け入れて愛しなさい、と言っておられるのです。
 使徒パウロも、その神の愛が聖霊によって注がれていることを前提にして、聖霊の賜物として、あるいは聖霊の実として、愛に生きるように勧めるのです。キリスト教は愛の宗教だと言われています。そして、新約聖書の中でも「コリントの信徒への手紙一」の一三章が「愛の賛歌」として有名です。しかし、その章は聖霊の賜物について語っている箇所の真ん中で、聖霊の最高の賜物として語られていることを忘れてはなりません。御霊によって生きる者の中に、そのような愛の相が現れてくるのです。
 さらに、御霊に生きる者は希望に生きる者です。現実の人生とわたしたちの在り方は、弱さと苦悩とに破れ果てていても、御霊は来るべき世で神の栄光に与ることの保証として、わたしたちが希望に生きる力となっています。そのことを使徒パウロは次のように語っています。

 「御霊という初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望の相において救われているのです」。(ローマ八・二三〜二四 一部私訳)

 御霊は来るべき世、永遠の世界の生命なのです。その命を「初穂」として、いまこの過ぎ行く世において与えられ、その命に生きることを許されているのです。この滅ぶべき世で、朽ちるべき体をもって生きているわたしたちは、この初穂である御霊のいのちを生きることによって、わたしたちが神の子として完成される希望、すなわちこの朽ちるものが朽ちないものにかえられる希望、死者の復活に与るという希望(コリントT一五章)をもって生きているのです。
 新約聖書(とくにヨハネ福音書)は、イエス・キリストを信じる者は永遠の生命を持つと宣べ伝えています。「永遠の生命」とは、いつまでも生き続ける生命のことではありません。わたしたちが生まれながらの体と一つに結ばれている生きている生命、この朽ちるべき命とは別の質の、来るべき世に属する命ということです。この命はこの地上で始まっているのです。現在この地上で、このような永遠の生命に生きる姿を「希望」というのです。そのような意味で、「希望」はキリストにあって生きる者の本質的な相です。
 このように御霊によってわたしたちの現実の中に生じる信仰と愛と希望、これがキリストと共に歩む人生の実であり、しるしです。