市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第41講

第二節 現代におけるマタイ福音書

マタイ福音書のユダヤ教的要素

 こうして、正典の第一の位置を占めることになったマタイ福音書は、その後のキリスト教の歴史において、他のどの文書よりも巨大な影響を及ぼすことになります。キリスト教といえばマタイ福音書を思い起こすほどです。それには理由があることは、以上に見てきたことからも理解できます。その影響のすべてをここで見ることはできませんが、最後に、現代の福音告知においてこの福音書が占める位置と意義に、ごく簡単に触れておきます。
 マタイ福音書の特色は、そのユダヤ教的体質にあります。ここで見たように、マタイ福音書はすでにユダヤ教の外に出ている場で書かれていますが、その性格はユダヤ教的な体質を多分に保持しています。著者がユダヤ教律法学者(少なくともその素養のある学者的人物)であり、対象がユダヤ人信徒の共同体であり、主要な論争相手がユダヤ教会堂である以上、この福音書のユダヤ教的体質は当然です。
 現代世界にキリストの福音を宣べ伝える活動においてマタイ福音書を用いるときは、この福音書のユダヤ教的体質を十分考慮に入れなければなりません。たしかにマタイ福音書はイエスの貴重な言葉を伝えており、しかもそれを「恩恵の支配」というイエスの福音告知の根本原理をよく理解した上で、壮大な構想の文書の形で伝えています。わたしたちは、マタイ福音書が伝えるイエスの「恩恵の支配」の福音をひれ伏して受け取らなければなりません。しかし、それだからといって、そのユダヤ教的体質をそのまま絶対化して受け入れる必要はありません。正典だからそのまま全部受け入れるという姿勢は問題です。
 新約聖書が正典であるというのは、新約聖書各書が示している霊的内容がわたしたちの信仰の霊的質の基準であるということであって、各文書の宗教的・文化的枠組みがわたしたちの生き方の絶対的な基準であるわけではありません。たとえば、マタイが断食を当然の習慣としているからと言って、わたしたちの信仰生活に断食がなければならないということにはなりません。もちろん断食してはいけないというわけではありませんし、断食にはするに値する価値があります。しかし、それは当時のユダヤ教の宗教的習慣であって、それをわたしたちの信仰に絶対必要な行為とすることはないのです。

ユダヤ教的要素の相対化

 この霊的内容と時代の宗教的・文化的枠組みの区別は往々にして困難なことがありますが、原理としては区別して扱わなければなりません。この問題を考えるさい、わたしはパウロがユダヤ教に対して取った態度が重要な示唆を与えていると思います。パウロは自分が体験したキリストの恩恵を宣べ伝えた結果、ユダヤ教を否定する者として、ユダヤ教徒と一部のユダヤ人キリスト教指導者から激しい非難を受けました。しかし、パウロはユダヤ教を否定したのではなく相対化したのです。パウロは、ユダヤ教は偽物の宗教だから廃棄せよとは言っていません。ユダヤ教は福音を生み出した母胎として他の宗教にはない特別の価値があります。パウロは、すでにユダヤ教徒である者はそのままユダヤ教の中にとどまっておればよいとしています。ただ、ユダヤ教徒でない者がキリストに結ばれて御霊の世界に生きるようになるのに、ユダヤ教に改宗しなくてもよいと主張したのです。キリストにある命の場では、ユダヤ教はあってもよいし無くてもよいのです。これがユダヤ教の相対化です。その価値を認めつつ、救い(人間の完成、いのちの充満)にとって絶対に必要なものではないと位置づけることが「相対化」です。
 宗教は自分を絶対化する傾向があります。むしろ、絶対化は宗教の本質かもしれません。この宗教でなければ人間は救われないとするのです。ですから、パウロがユダヤ教を相対化したとき、ユダヤ教を絶対とするユダヤ教徒から迫害されたのです。このことはキリスト教についても同じです。キリスト教が一つの宗教として世界に存在する限り、キリスト教は自分を絶対化します。すなわち、キリスト教こそ神に至る唯一の道であり、救いに至るにはキリスト教に入らなければならないと主張します。それは、具体的には「教会の外に救いなし」と表現されます。キリスト教会こそキリスト教が地上に形をとって現れたものだからです。しかし、キリストにおける恩恵の絶対性の前では、キリスト教会もキリスト教も相対化されます。
 キリスト教を含む「宗教」の相対化は現代の重要な課題ですが、問題があまりにも大きいので、ここでは現代におけるマタイ福音書の位置という問題に限定します。現代世界に福音を確立しようとするさい、マタイ福音書がその中に保持し伝えているイエスの福音告知の核心、すなわち「恩恵の支配」の福音はしっかりと全面的に受け止めて、それぞれの歴史的現実においてわたしたちが生きる土台としなければなりませんが、この福音書が体質的に継承しているユダヤ教の枠組みは相対化しなければなりません。
 ではマタイ福音書のどの部分が福音の核心を伝え、どの部分がユダヤ教の体質を示しているのかという問題は、テキスト解釈の問題であり、この講解はこの問題意識をもって進められてきました。講解にあたって、マタイの編集の手を跡づける作業をしたのも、その部分にユダヤ教の体質とか枠組みが出ていることが多いからです。個々のテキストについてその作業が十分に成功しているという保証はありませんが、その作業全体の過程で、イエスの福音の核心がどの方向にあるかを指し示すことはできたのではないかと考えています。それが指し示す方向には、「恩恵の支配」あるいは「恩恵の絶対性」という福音が見えています。
 このようにマタイ福音書をその核心において受け取るならば、その使信はパウロの福音と同じであることが理解できます。パウロの「キリストの福音」もまさに「恩恵の絶対性」を根本原理としているからです。パウロはこのキリストにおける恩恵の絶対性を異教世界に宣べ伝えるために、ユダヤ教を明白に相対化する必要に迫られました。それに対してマタイは、先に見たような状況のために、ユダヤ教的な枠組みの中でこの「恩恵の支配」の福音を提示することになるのです。
 ところで、マタイ福音書の中のユダヤ教的な枠組みを相対化する作業は、キリスト教を相対化するという様相を帯びてきます。それは、キリスト教がユダヤ教を母胎として生まれ、多分にユダヤ教的要素を継承して形成されているからです。宗教学では、キリスト教がユダヤ教と一体と見られて「ユダヤ・キリスト教」と呼ばれることがあります。旧約聖書を正典と仰ぎ、マタイ福音書を正典の第一に置いてその決定的な影響の下に形成されたキリスト教が、ユダヤ教的な要素を多分に持つことは自然の流れです。それで、マタイ福音書の中のユダヤ教的体質を相対化する課題は、キリスト教の中のユダヤ教的要素(大抵の場合キリスト教そのものであると自覚されている)を相対化することにつながってくるのです。
 ここで、ユダヤ教の枠組みを相対化するということは、旧約と新約の救済史構造を相対化する(なくてもよいとする)のと全然別であることに注意しなければなりません。マルキオンはキリスト教からユダヤ教的要素を排除するするために旧約聖書そのものを廃棄しましたが、それは誤りです。イスラエルの民の中に神が働かれた歴史があったから、イエス・キリストの福音がありうるのです。旧約聖書を放棄すること、すなわちイスラエルの歴史の救済史的意義を否定することは、福音の根を引き抜くことであって、キリストの福音を一種のグノーシス主義的(霊知主義的)な宗教にしてしまいます。
 ここで問題になっているのは、イエスの時代に出来上がっていた「ユダヤ教」と呼ばれる宗教体制です。この時代にイスラエルの中に、モーセ律法順守を根本原理とする祭儀と生活の体系が形成されていました。それは、周辺諸民族の諸宗教と対立して、「ユダヤ教」と呼ばれる一つの宗教になっていました。この「ユダヤ教」を相対化しなければならないのです。われわれユダヤ人以外の諸民族・諸文明はキリストの福音を受け取るさい、ユダヤ教を絶対的な価値の基準として受け入れる必要はないのです。
 マタイ福音書が壮麗で優れた福音書であるだけに、その中のユダヤ教的要素を相対化する作業は困難であり、きわめて慎重な配慮を要します。しかし、世界の諸民族・諸文明が密接に結びついて、一つの地球文明を形成しつつある現代においては、この優れた福音書を活かすには、この作業を避けることはできません。この講解もささやかながらその作業を進めてきました。その作業の中に、イエスの「恩恵の支配」の福音を現代世界に確立する道が通じているはずです。
 最後にもう一度、「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の蔵から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」(一三・五二)というイエスの言葉を引用しておきます。先にそれはマタイが自分の仕事のことを言っているのだと書きましたが、今わたしたちはこのマタイ福音書に対して、同じことをしなければなりません。旧約聖書の伝統と初期の福音告知の諸伝承を総合しているこの壮麗なマタイ福音書という蔵の中から、恩恵の絶対性という「新しいもの」とユダヤ教的体質という「古いもの」を取り出して、それぞれにふさわしい位置を与えること、それが現代の課題となります。