市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第40講

終章 マタイ福音書の位置

はじめに

 誕生物語から始まるマタイの「メシア・イエスの物語」を読み進めて、その物語のクライマックスをなす十字架の死、埋葬、復活の最終場面まで来ました。終わりまで読み終えて、最後にこの物語全体のもつ意義を、この福音書が福音の展開の歴史において占める位置という視点から考察して、それをもって「マタイ福音書」講解の終章とします。



第一節 マタイ福音書の位置

マタイ福音書におけるメシア・イエス

 以上に見てきたように、マタイ福音書はその全編を通して、ナザレのイエスをイスラエルに約束されていた「メシア」として提示してきました。しかし、マタイにとって、そして聖書(旧約聖書)を信じるユダヤ教徒にとって、イスラエルのメシアであることは、すべての神の民の主であり、全世界の救済者であることを意味します。世界の諸民族は、このイスラエルのメシアに聴き従うことによって、神が備えてくださり終わりの日に成就した救済にあずかり、神と契約関係にある神の民、真のイスラエルとなるのです。
 預言者もこう言っています。

 「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。
    国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。
    『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。
    わたしたちはその道を歩もう』と。
    主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」。 (イザヤ二・二〜三)

 マタイの時代には、エルサレムは破壊され、シオンは廃墟となり、神殿はなくなっています。しかし、この福音書全編を通して明らかにしたように、ナザレのイエスは聖書の預言と約束を成就する「メシア」として、十字架上にすべての民の罪の贖いの業を成し遂げ、死者の中から復活して神の右に上げられ、「天と地の一切の権能」を授けられておられます。イザヤが預言した終末における万民の救済と神の支配は、今やエルサレムの神殿からではなく、復活によってメシアとして立てられたイエスから出るのです。それ故、マタイは復活者イエスの命令として、「すべての民をわたしの弟子とし、わたしがあなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という言葉で、メシア・イエスの物語を締めくくります(二八・一八〜二〇)。これは、世界のすべての民族に対する、イスラエルのメシアであるイエスに聴き従うようにという呼びかけです。
 初期の福音告知は、復活して神の子とされた救済者を「キリスト」という称号で呼びました。それは、「メシア」を指すギリシア語です。ギリシア語で福音書を書いているマタイは、メシアを指すのに「キリスト」というギリシア語を用いてきましたが、この講解で見てきたように、それはイスラエルのメシアを指す用語でした。ところが、最後にこのイスラエルのメシア・イエスを世界の諸民族の主であり救済者として指し示します。こうして、マタイ福音書はイエスを万民の救済者キリストとして世界に提示する福音告知に、独特の仕方で参加することになります。
 このマタイのキリスト提示の仕方が、初期の福音告知全体の中で、どのような位置を占め、どのような意義を担っているのかを見ることにしましょう。

福音告知の諸潮流

 初期の福音告知はけっして一様ではありませんでした。イエスが世を去られた後に弟子たちが行った福音告知活動にはさまざまな流れがあり、それぞれの流れは独自の様相を見せています。ここでそのすべてを詳しく論じることはできませんが、マタイ福音書の位置を確認するために必要な最小限度のものに触れておきます。
 マルコ・マタイ系の伝承を総合すると、弟子たちはみなイエスが逮捕されたとき逃げ去っていて、処刑の現場には居合わせず、ガリラヤに戻って漁師の仕事に携わっていましたが、そこで復活されたイエスの顕現を体験して、福音告知への召しを受けています。ルカによると、弟子たちはイエスの指示に従って、エルサレムを離れることなく、エルサレムまたはその近郊で復活されたイエスに出会い、集まって一緒に祈り続けたところ、ペンテコステの日に約束されていた聖霊を受けて、イエスを復活者キリストと宣べ伝え始めます。ヨハネはエルサレムでの顕現(二〇章)を伝えると同時に、ガリラヤでの(七人の弟子たちへの)顕現も伝えています(二一章)。エルサレムに集まっていて、ペンテコステの日に福音告知を開始したのは、ユダを除く「十二人」弟子団とイエスの母マリアとイエスの兄弟たちであった(使徒一・一三〜一四)のですから、ガリラヤに戻っていた弟子たちも、ペンテコステの日までにはエルサレムに来ていたことになります。
 こうして最初期の教団は、「十二人」とイエスの家族を中核とするユダヤ人信徒の共同体として発足します。彼らはみなアラム語を話すパレスチナ生まれのユダヤ人たちでした。ところが、初期の御霊の力に溢れた福音告知によって、エルサレム在住の多数のディアスポラ・ユダヤ人が信仰に入ってきます。彼らはギリシア語を話すユダヤ人ですから、言語の違いから別の集会を形成するようになります。そして、彼らの律法に対する自由な態度が、周囲の律法に熱心なユダヤ教徒を刺激して激しい論争が起こり、ステファノが石打で殺されるという事件が起こります。この事件をきっかけにして始まった迫害によって、ギリシア語系ユダヤ人信徒はエルサレムから追われて各地に散らされ、行き先の地で復活者イエス・キリストの福音を宣べ伝えます。彼らの働きでシリア州の首都である大都市アンティオキアにも信徒の集会が成立するようになります。
 エルサレムに残った集会は、「十二人」とイエスの家族を中核とするアラム語系ユダヤ人信徒の集会ですが、四二年のヘロデ・アグリッパの迫害によって「十二人」の中のヤコブは殺され、ペトロは奇跡的に獄舎から救い出されてエルサレムを去ります(使徒一二章)。その後、イエスの兄弟である「義人」(律法の厳格な実行者)ヤコブがエルサレム教団の首座につき、エルサレム集会は律法順守に熱心な保守的な体質を強めていきます。
 ペトロはすでにサマリヤやカイサリアなどの地中海沿岸地方の諸都市で福音告知活動を進めていましたが(使徒八〜一〇章)、この迫害によってエルサレムから脱出した後は、アンティオキアにまで来ています(ガラテヤ二・一一)。ペトロがアンティオキアをはじめパレスチナ以外の諸都市で活動するためにはギリシア語が必要ですが、ペトロがどの程度ギリシア語を話したかは分かりません。「マルコがペトロの通訳であった」という伝承があることからすると、ペトロはアラム語で話し、誰かがギリシア語に通訳するという形で進められたと推察されます。とにかく、ペトロはイエスに直接師事した弟子の中の一人ですから、彼が伝える「イエス伝承」は貴重な伝承として、この地域におけるペトロの権威は高まってきたと考えられます。
 パウロは律法に熱心なユダヤ教徒として、はじめはエルサレムのステファノ・グループを迫害する側でしたが、ダマスコ途上で復活されたイエスに遭遇して回心し、イエスを復活者キリストと宣べ伝える者になります。しかも、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、イエス・キリストを信じることによって救われ神の民となると主張したので、異邦人は割礼を受けてユダヤ教律法を守らなければ救われないとする、ヤコブに率いられるエルサレム教団のユダヤ人集会と対立します。回心後長年アンティオキア集会で指導的な立場にあったパウロは、バルナバと一緒にエルサレムに上り、この問題を協議します(使徒一五章)。そのさい、すでに割礼なしのまま聖霊を受けた異邦人百人隊長コルネリオにバプテスマを授けていたペトロは(使徒一〇章)、両者を仲介する役割を果たします。
 その後、ペトロはアンティオキアに来て福音告知を進めますが、ユダヤ人と異邦人との共同の食事の問題でパウロと対立します。はじめペトロはユダヤ教律法の食物規定を無視して異邦人と一緒に食事をしていましたが、厳格な律法順守を求めるヤコブのもとから来た使者の要求に屈して、異邦人との共同の食卓から身を引きます。パウロはこれを福音の真理からの逸脱と非難してペトロと対立しますが、バルナバに代表されるアンティオキア集会はペトロの側につきます(ガラテヤ二章)。パウロはアンティオキア集会から去り、独立で福音を宣べ伝える活動に入ります。パウロが去った後のアンティオキア集会は、ペトロの権威の下に歩むことになります。
 パウロとシルワノやテモテらの協力者の一行は、西に向かい、小アジア、ギリシアの主要な都市に福音を伝え、信じる者たちの集会を形成します。その諸集会は、割礼を受けていない異邦人信徒とユダヤ人信徒が混在する集会で、両者の交わりがいつも困難な問題を引き起こしていました。また、異邦人信徒に割礼を要求するユダヤ人指導者からの妨害が絶えませんでした。それにもかかわらず、パウロがあらゆる困難に耐えて西の異邦世界に向かったのは、ローマ帝国の首都ローマに福音を確立し、ローマ帝国に福音を満たすという壮大なビジョンを持っていたからでした。
 これがルカが伝えるところから描くことができる初期の福音告知の主要な流れ(メイン・ストリーム)です。しかし、実際にはこれ以外にも多くの流れがありました。たとえば、「語録福音書Q」を生み出した告知活動は、おそらくガリラヤから始まって北へ進み、パレスチナ・シリアの地域に拡大したと考えられます。この運動は、生前のイエスの言葉に従って新しい生き方を広めようとするユダヤ人の信仰運動です。この運動は、霊感を受けて主の言葉を預言する巡回伝道者と、彼らの教えに従って信仰生活をする定住の信徒たちの集会で成り立っていたようです。彼らの信仰は、エルサレムからアンティオキアへ進んだ主流の福音告知活動とはかなり違った様相を示しています。最初期のエルサレムの教団で、復活されたイエスを「キリスト」または「キュリオス(主)」と告白し、そのキリストの十字架上の死を贖罪の出来事として宣べ伝える告知の定型(ケリュグマ)が出来上がっていました。この「福音」(ケリュグマ)の告知はアンティオキアで確立し、ヘレニズム世界に広く宣べ伝えられます。その運動の中心にはペトロがいます。そして、パウロもこの「ケリュグマ」を受け継いで、異邦世界に広めます(コリントT一五・一〜五)。ところが、「語録福音書Q」にはこの「ケリュグマ」がありません。この運動は、あくまで生前のイエスの言葉を拠り所としたユダヤ教の革新運動です。
 さらに、「トマス福音書」を残した別の告知運動もあり、これはシリアから東の地域に拡大したようです。シリア東部のエデッサを中心地とする初期の告知運動は、使徒トマスを権威と仰ぎ、東方に活動を進めます。後の時代に書かれた「トマス行伝」は、使徒トマスがインドまで伝道したと伝えています。この流れの中から生まれたと見られる「トマス福音書」は、イエスの語録を集めたものですが、ややグノーシス主義的な傾向を示しています。
 また、パレスチナ・シリア地域には、洗礼者ヨハネの影響を強く残し、使徒ヨハネからの伝承を受け継ぐとされる(この点には疑問がありますが)「ヨハネ宗団」も活躍しており、この宗団は(後にエフェソに移住したと推察されますが)特異な性格の福音書「ヨハネ福音書」を生み出します。
 南に向かった流れもありました。エジプトにはアレキサンドリアというヘレニズム世界最大の文化都市があります。ここには大きなユダヤ人共同体があり、七十人訳ギリシア語聖書を成立させたり、フィロンという当時の最大のユダヤ教哲学者を生み出していました。エルサレムとの交流も密接で、ごく初期に福音が伝えられています。パウロと親交があったアポロはアレキサンドリアの出身であり、「ヘブライ人への手紙」のようなヘレニズム思想とユダヤ教の融合を示す文書の著者として想定するのにふさわしい人物です。
 この他、すぐ後の時代に成立した諸文書から、フィリポやアンデレやマグダラのマリアなどを権威とする信仰運動があったことが推測されます。これらの潮流にはグノーシス主義の傾向を示すものが多くあります。このように、初期の福音告知運動はけっしてルカが伝える一筋だけの流れではなく、実に多様な流れがあり、多彩な性格と様相を示しています。

 初期の福音告知活動には実に多くの流れがあり、そこから傾向の異なる多様な文書が生み出されていたことは、「聖書外典偽典」(教文館)のY・Z「新約外典」と別巻「補遺U」や、「ナグ・ハマディ文書」T〜W巻(岩波書店)に見ることができます。また、H・ケスター「新しい新約聖書概説」(新地書房)も、正典以外の諸文書を広く視野に入れて、初期の福音告知の諸潮流を跡づけています。

エルサレム神殿崩壊後の情勢

 六六年に始まったユダヤ戦争と七〇年のエルサレムの陥落と神殿の崩壊は、福音の告知運動にも大きな影響を及ぼし、一つの転機となります。エルサレム教団の指導者「義人」ヤコブはすでに(六二年)殉教していました。エルサレム教団は、霊感を受けて語る預言者に促されて、開戦直前のエルサレムを逃れて、ヨルダン東岸のペラに移っています。こうして、エルサレム教団は影響力を失い、ユダヤ教の枠内に硬く留まっていた保守的なアラム語系のユダヤ人教団はやがて歴史の舞台から消えて行きます。
 このユダヤ戦争の戦場となったパレスチナの地を逃れて、多くのユダヤ人が各地に散りましたが、その中で北へ逃れたユダヤ人たちがシリア、とくにその中心都市アンティオキアに移住し、彼らだけの集会を形成したと考えられます。「マタイ福音書」の著者は、パレスチナで「語録福音書Q」の伝統の中で活動し、シリアに逃れてきたユダヤ人集会の指導的な立場の人物である可能性が高いと考えられます。
 エルサレム神殿の崩壊は、神殿祭儀に依存しているサドカイ派を没落させ、ユダヤ戦争に参戦したエッセネ派も壊滅的な打撃を受け(六八年にクムラン破壊)、七〇年以後のユダヤ教はファリサイ派の律法学者たちの指導の下に再建の歩みを始めます。神殿と最高法院なき後、彼らはヤムニアに学院を設け、そこから各地のユダヤ教会堂を指導するという形でユダヤ教の存続を図ります。その時、神殿崩壊という悲劇の原因になったということで黙示思想を厳しく排除し、律法のより厳格な順守を求めるようになります。そして、黙示思想的傾向が強く、異邦人と接触して律法違反の生活をしていると疑われたイエスを信じるユダヤ人たちは、「ナザレ派」の異端として厳しく弾圧され、ついに(おそらく八〇年代)「会堂から追放する」という決議がなされます。こうして、イエスを信じるユダヤ人は、この頃ユダヤ教会堂と決定的に別れて、別の宗団としての立場で歩むようになります。
 しかし、これはあくまでユダヤ教内部の問題です。すでに福音は異邦人の間に宣べ伝えられて、ヘレニズム世界の諸都市におもに異邦人から成る集会が形成されていました。エルサレム神殿の崩壊はユダヤ教では大事件ですが、それらの異邦人集会はあまり影響を受けることなく、ユダヤ教とは別の教団として活動を続けます。とくに、パウロの活躍により割礼なしの福音が確立されていたので、異邦人信徒は割礼を受けてユダヤ教徒になることなく、キリスト信徒として歩むことができたのです。

マタイ福音書の歴史的位置

 以上のスケッチで、マタイ福音書の歴史上の位置がほぼ定められます。「歴史上の位置」というのは、マタイ福音書がいつ頃どこで、どのような歴史的状況の中で成立したか、したがって福音の展開の歴史の中でどのような位置を占めるかという問題です。本論の講解で詳しく見たように、マタイはマルコ福音書をイエス物語の枠組みとして用い、「語録福音書Q」やその他の資料に伝えられているイエスの語録を主題別に編集した独自の説話集を五つ形成してマルコの物語の中に組み込み、一貫した構想(プロット)をもつメシア・イエスの物語を書き上げました。その書き方には、ユダヤ人信徒の共同体が母胎であるユダヤ教会堂から閉め出されて、厳しく対立している状況がうかがわれます。そして、ペトロの権威を強調している書き方などを含めて、総合的に内容を考察すると、この福音書の歴史上の位置をほぼ次のように見定めることができます。
 マタイ福音書は、七〇年のエルサレム陥落の少し後の時期に、もともとパレスチナで「語録福音書Q」を生み出す運動の中にいたユダヤ人信徒の群れが、北方シリアのどこか(恐らくアンティオキア)に逃れて形成した集会の中で、その集会が対立するユダヤ教会堂から厳しい弾圧を受けるようになり、ユダヤ人への伝道を断念して異邦世界に活路を求めようとした時に成立したと見られます。
 マタイ福音書の歴史上の位置を考察する上で、もう一つ重要な事実は、この福音書がギリシア語で書かれているということです。この福音書がユダヤ人の間で成立したということから、もともとヘブライ語で書かれたのであるが、それが後にギリシア語に翻訳されたのだという見方が、古代教会以来なされてきました。しかし現在では、用語などの厳密な分析から、ヘブライ語から翻訳されたのではなく、初めからギリシア語で書かれた福音書であることが確認されています。むしろ、アラム語の「ナザレ人福音書」などは、このギリシア語のマタイ福音書をアラム語圏のユダヤ人に紹介するためにアラム語に翻訳編集されたものだとされています。

 ヘブライ語原語説はパピアスの証言を誤解した結果だと見られます。ヒエラポリスのパピアスは二世紀前半という早い時期に、彼の「証言」の中で「マタイはヘブライの《ディアレクトス》で語録を整えた」と書いています。これは、マタイが語録伝承をヘブライ的叙述法で整えたという意味であるのが、オリゲネス以降「ヘブライ語」で書いたと誤解されて伝えられ、古代教会の伝統的理解となります。

 マタイ福音書がギリシア語で書かれているという事実は、この福音書がギリシア語を用いるユダヤ人共同体において成立したことを示しています。先に見たように、当時のユダヤ人にはアラム語を用いるユダヤ人(おもにパレスチナ生まれのユダヤ人)とギリシア語を用いるユダヤ人(ディアスポラ・ユダヤ人と一部のパレスチナ・ユダヤ人)があり、イエスを信じるユダヤ人もこの二つのグループに分かれていました。そして、この二つのグループがかなり違った歩みをするようになることも、先に見たとおりです。
 マタイ福音書の母体となったユダヤ人共同体は、もともとガリラヤなどパレスチナで活動して「語録福音書Q」を生み出したユダヤ人の運動から出た共同体と見られますから、アラム語を用いたユダヤ人もいたことは十分ありえますが、その信仰の結実である「語録福音書Q」はギリシア語で書かれています。すなわち、この運動も全体としてはギリシア語圏ユダヤ人の運動として展開したことになります。
 その上、マタイが物語の枠として受け入れたマルコ福音書もギリシア語で書かれています。序章で見たように、マルコ福音書は復活者キリストの十字架を贖罪の出来事として宣べ伝えるケリュグマ伝承を枠組みとして、ペトロが伝えるイエス伝承を素材として物語る形で、ギリシア語圏の異邦人たちに福音を告知する書でした。ギリシア語で書かれたこのマルコ福音書を用い、七十人訳ギリシア語聖書を権威として引用し、ギリシア語の「語録福音書Q」を自分の本来の伝統とするマタイの共同体は、ギリシア語圏のユダヤ人の共同体であり、その福音書がギリシア語で書かれるのは当然です。
 マタイ福音書がユダヤ人共同体の中で、ユダヤ人のために書かれた福音書であっても、それがギリシア語で書かれた結果、ギリシャ語を共通語とするヘレニズム世界の異邦人伝道においてもそのまま通用する福音書になりました。こうして、ギリシア語で書かれたマタイ福音書は、ユダヤ教の伝統を異邦人世界に引き継いでいくための重要な接点となります。事実、この福音書は旧約聖書の伝統をもっとも豊かに継承する文書として正統派諸教会で尊重され(このことの意義は後述)、新約聖書正典が結集されるときには第一の位置に置かれることになります。そして、その後のキリスト教の歴史において、キリスト教の性格を決定するもっとも基礎的な文書になるのです。

マタイ福音書の神学的位置

 このような歴史的位置をもつマタイ福音書は、その思想内容からすると初期の福音の展開においてどのような位置を占めるのでしょうか。この問題はきわめて複雑な内容をはらんでいますので、簡単に答えることはできません。それでここでは、新約聖書の各文書の思想内容(神学)が福音の展開において占める位置を測る一つの物差しを提案して、その物差しで測ったマタイ福音書の神学的位置を考察することにします。
 初期の福音告知を担ったのは、ほとんどがユダヤ人(すなわちユダヤ教徒)でした。したがって、新約聖書のほとんどの文書はユダヤ人(または異邦人であってもユダヤ教に深く関わっている準ユダヤ人)によって書かれたものです。それで、その著者なり文書がユダヤ教に対してどのような態度をとっているか、いわばユダヤ教との距離が、その文書の位置を示す重要な指標になります。もちろん、新約聖書の各文書はキリストの福音を提示するために書かれたものですから、キリストをどのような方として理解し告知するか(キリスト論)が、その神学の基本的内容です。ただここでは、そのキリストの提示の仕方において、各文書がその母胎であるユダヤ教に対してどのような姿勢の中でしているかを検討することによって、各文書の福音展開史における位置を定める参考にしたいのです。
 イエスをキリストと宣べ伝える福音告知活動は、はじめはユダヤ教内部の運動として始まりました。それが福音がもつ内的必然とユダヤ教からの圧迫という外からの要因によって、異邦人にも宣べ伝えられるようになり、徐々にユダヤ教とは別の信仰である面が強くなり、最終的にはユダヤ教と対立する別の宗教としてヘレニズム世界に確立します。

 この過程を図解すれば次の三段階になります。→ 本書巻末450頁の図を参照してください。

 (1) 福音告知を示す円が完全にユダヤ教の円内にある段階。
 (2) 福音告知を示す円がユダヤ教の円の外に出ようとして激しく移動している段階。
    一部はすでにユダヤ教の円の外にはみ出しているが、全部が出てしまっているのではない段階。
    二つの円は一部重なっている。
 (3) キリストの民を示す円がユダヤ教の円の外に出てしまって、二つの円が離れている段階。

 図の説明
(1)の段階 アラム語系のエルサレム原始教団、ヤコブとその一派、「語録福音書Q」の運動などは(1)の段階。信徒はすべてユダヤ教徒。ユダヤ戦争以前のパレスチナはこの段階。
(2)の段階 おもにパレスチナ以外の地域でユダヤ戦争以前に、異邦人信徒も含むようになった福音告知活動、たとえばアンティオキア集会とかパウロの福音告知は(2)の段階。この段階で、ユダヤ教の外に出ようとする動きを担ったのはおもにギリシア語系のユダヤ人で、アラム語系のユダヤ人はユダヤ教の枠内に留まっている。信徒はユダヤ教徒と異教徒(異邦人)が混在している。パウロ七書簡はこの段階の証言。
(3)の段階 エルサレム神殿崩壊以後、ユダヤ教側がイエスを信じるユダヤ人を会堂から追放し、キリスト信徒側も明確にユダヤ教とは別の宗団としての立場で活動したのが(3)の段階。この段階では、アラム語系ユダヤ人のキリスト教は消滅に向かっており、キリストの民には(ギリシア語系の)ユダヤ人信徒も含まれているが、異邦人信徒が大勢を占めるようになる。福音告知活動の中心はなお(ギリシア語系の)ユダヤ人が担っているが、徐々に異邦人指導者が台頭してくる。ユダヤ教との関係は対立関係だけになっている。マタイ福音書やヨハネ福音書、ヨハネ黙示録、ルカ文書、コロサイ・エフェソ書はこの段階の証言。

 その過程で新約聖書の各文書が生み出されることになるのです。ところが、その過程で新しい信仰を示すために生み出された文書は、「新約聖書」に納められている文書だけではありません。それ以外に実に多くの文書が生み出されています。その過程で生み出された多くの文書の中で特定の内容と傾向のものが選ばれて正典となり、「新約聖書」となったのです。それで、初期の福音展開史におけるマタイ福音書の位置を定めるためには、新約正典以外の文書も視野に入れて考察しなければならないことになります。
 「ユダヤ教との距離」という物差しを見やすくするために、その距離がもっとも短い立場ともっとも遠い立場をあげると、(新約聖書の範囲内では)ヤコブとパウロになるでしょう。主の兄弟ヤコブは、律法熱心な周囲のユダヤ教徒から「義人」と呼ばれるほど、律法を厳格に順守する人物で、ペトロがエルサレムを去ってからはエルサレム教団の首座にあって、エルサレム教団の性格を決定することになります。彼の影響下にあるユダヤ人信徒たちのある者は、異邦人がイエス・キリストを信じたのであれば、その異邦人は割礼を受けてモーセ律法を順守するユダヤ教徒にならなければ救われないと主張します。すなわち、キリスト信仰もあくまでユダヤ教の中のことでなければならないとするのです。彼らの場合、キリストはユダヤ教徒のメシアであり、彼らのユダヤ教との距離はゼロです。ヤコブ自身がそうであったかどうかは問題が残りますが、そのようなユダヤ人の側にいたことは事実です。
 それに対して、もっとも遠い位置にいるのがパウロです。パウロは、異邦人は割礼を受けてユダヤ教徒にならなくても、異邦人(異教徒)のままでキリストを信じて救われるとしました。「キリストは律法(ユダヤ教)の終わりとなられた」(ローマ一〇・四)のです。パウロのキリストは律法(ユダヤ教)の外にいますキリストです。このような主張はユダヤ教を否定するものとして熱心なユダヤ教徒から憎まれ命を狙われます。また、ユダヤ教との距離がゼロであるユダヤ人信徒からも激しい非難と妨害を受けることになります。

 新約聖書の各文書のユダヤ人著者は、自分の宗教を「ユダヤ教」と呼ぶことはほとんどありません。例外的にパウロがそう呼んでいる箇所が二回あるくらいです(ガラテヤ一・一三、一四)。彼らは自分たちの宗教である「ユダヤ教」をいつも「トーラー」(ギリシア語では《ノモス》、日本語では「律法」)と呼んでいます。新約聖書を読むとき、多くの場合「律法」という用語はユダヤ教全体を指していることに留意しなければなりません。

 ペトロは中間にいます。コルネリオの場合に見られるように、ペトロは異邦人コルネリオに割礼を施すことなく、バプテスマを授けてキリストの民として受け入れています。そして、異邦人信徒に割礼を求めるべきかどうかが問題になったエルサレム会議で、パウロの立場を擁護しています(使徒言行録一五章)。しかしアンティオキアでは、異邦人も食物に関するユダヤ教律法を守ることを要求するような態度を示して、パウロからその矛盾を厳しく追及されています(ガラテヤ二章)。その後、ペトロはイエスの筆頭の直弟子としての権威をもってローマまで福音告知の範囲を広げています。ペトロの福音告知はパウロが活躍した地域と重なっていますが、割礼なしの福音を異邦人世界に宣べ伝えるパウロを批判し、彼の福音告知を妨害した者たちの中にペトロが含まれるかどうかは確定できません。とにかく、ペトロはヤコブとパウロの間で、一貫した姿勢を貫くことができなかったようです。
 このような物差しで測ったとき、マタイはどのような位置にあるのでしょうか。これまで、マタイとヤコブ、マタイとペトロ、とくにマタイとパウロの関わり方が様々に理解され議論されてきました。この問題を考えるときに留意すべきことは、マタイは七〇年のエルサレム陥落からかなり経った時期に福音書を書いているという事実です。ヤコブもペトロもパウロもみな六〇年代に殉教しています。そして、先に見たように、エルサレム神殿の崩壊以後はユダヤ教とユダヤ人キリスト教教団をめぐる情勢は大きく変わり、キリスト信徒は完全にユダヤ教の枠の外に出てしまっており、キリスト教諸集会では異邦人信徒が主流になる時代が始まっています。
 このような状況でマタイが福音書を書いたとき、ユダヤ教との距離という物差しでは、「ユダヤ教の外にある」という場所はもう決定しています。それ以外の場所にいることはできません。しかも、マタイはユダヤ教律法学者としての体質を抜きがたく受け継いでいる人物であり、「語録福音書Q」を生み出したユダヤ人の(すなわちユダヤ教の枠の中での)福音告知運動の伝統を継承する立場にいます。この状況が「マタイ福音書」を生み出すのです。
 マタイの律法学者的な体質から、マタイを義人ヤコブと同じ系列におく議論がありますが、マタイとヤコブは律法に忠実であるという点では同じ体質かもしれませんが、置かれている立場や状況が全然違いますから、同列に並べて比較することはできません。ヤコブはユダヤ教の中で、他のユダヤ教徒以上に厳格に律法を順守すればよいのですが、マタイはユダヤ教の外にあって、ユダヤ教と対峙しながら、異教徒を受け入れている立場で、ユダヤ教を完成する神学を主張しなければならないのです。ヤコブの思想を証言する文書はないので(新約聖書の中の「ヤコブ書」は主の兄弟のヤコブの著作とするには問題があります)、ヤコブとマタイを直接比べることはできませんが、マタイがもはや割礼を主張しないという一事をとっても、またこの福音書に律法の細則にとらわれない立場が多く表明されていることからも、マタイはヤコブから遙かに遠い場所にいることが分かります。
 マタイはパウロに対してどのような態度をとったのか、正確に描くことはできません。マタイの時代には、割礼なしの福音はすでに確立し、割礼のない異邦人がキリストの民の主流になっていました。異邦人に割礼を受けさせるべきかどうかという問題は、もう過去のものであり、マタイが「パウロの論敵」の陣営にいたかどうかは問題になりません。マタイは当然のこととして割礼を求めることなく、異邦人を受け入れ、異邦人への福音告知を目指しています(二八・一九)。ただ、70年以後西方で主流を形成しつつあるパウロ系集会の信仰の質に対して、マタイがどう向かい合ったかは分かりません。マタイがパウロ書簡を知っていたかどうかも分かりません。しかし、パウロが激しく律法による義を否定してユダヤ教の外に飛び出していたのと比べますと、マタイはその律法学者的な体質を色濃く保持していて、律法への忠誠を明らかに示しているので、パウロとは対照的な位置にいると言うことはできます。
 ところでパウロも、彼の信仰による義の主張によって律法(ユダヤ教)を否定するのではなく成就するのだと言っています。事実、パウロは彼の福音によってユダヤ教の遺産を異邦世界に広く伝えたという面があります。一見ユダヤ教を否定しているかのような主張によって、かえってユダヤ教の核心部分を伝えているという意味で、わたしはパウロとユダヤ教のつながりを「逆接」と呼んでいます。否定することで成就するという逆説的な接続の仕方という意味です。それに対して、マタイとユダヤ教は「順接」と言えます。逆説を含まない順当な接続という意味です。信仰は律法を廃止するのではなく成就するのだと正面から主張して(五・一七)、信仰が律法を満たすということの真意を説く立場です。このように、たしかにその言説に表れている限りでは、パウロとマタイは遠いところにいますが、マタイがすでにパウロによって確立された異邦人キリスト教の場にいることから、事実上はそれほど離れていないと言えます。
 結局マタイは、ヤコブとパウロの間にいたペトロにもっとも近いのでしょう。おそらくマタイはシリアのどこかでこの福音書を書いていると考えられますが、シリアではペトロの権威が確立しており、マタイの時代のシリアでは、すでに殉教したペトロが使徒の中の筆頭者であり、キリストの民の礎石として尊ばれていたようです。マタイは律法(ユダヤ教)に対する立場から、ペトロを自分にもっとも近い使徒と感じ、ペトロを権威と仰ぐ福音書を書きます(一六・一八)。すぐ後に見るように、マタイ福音書が尊ばれて新約聖書の中の第一の書とされたため、マタイが権威とするペトロが古代教会において使徒の首座を占めるようになり、その後の教会史に巨大な影響を及ぼすことになります。

正典第一の位置

 このようにマタイ福音書は、マルコ福音書を基本的な枠組みとして受け入れることによって、復活者キリストの十字架上の死を神による贖罪の出来事として告知するケリュグマ伝承と、ペトロから伝えられたイエス伝承を継承し、さらにその中に「語録福音書Q」の伝承とマタイ独自の伝承を組み込むことによって、初期の主要な伝承すべてを総合する文書になっています。その上、ラビ的素養のある学者としてマタイは旧約聖書に精通し、旧約聖書の伝承を駆使して、メシア・イエスの物語を聖書の最終章として書き上げる能力を発揮しています。このように、旧約聖書と初期の主要な福音伝承のすべてを総合するマタイの構想力は驚嘆すべきものがあります。彼のこの構想力の産物として、マタイ福音書は実に偉大な風格を備えた堂々とした福音書になっています。古代教会の指導者たちが、このようなマタイ福音書を尊重し、正典を結集したとき、これを第一の福音書としたことは十分理解できます。
 さらに、マタイ福音書が正典の四福音書の第一に置かれたことは、古代教会のグノーシス主義に対する戦いの結果であるという一面があると考えられます。二世紀から四世紀にかけての古代教会の形成期に、教会の中にグノーシス主義的な信仰が盛んになってきます。使徒的な信仰を擁護しようとする教会指導者(教父)たちは、グノーシス主義を使徒的信仰から逸脱するものとして、これを批判糾弾して戦わなければなりませんでした。この戦いの中で新約聖書正典が結集されるのです。
 グノーシス主義の内容は複雑で、その概略を描くことすら困難ですが、ここではマタイ福音書の位置を考察する上で必要な一面だけを取り上げます。グノーシス主義は、イエスが啓示された父なる霊神を最高神として、イエスから受ける霊的知識(グノーシス)によって無知の暗闇から目覚めて魂の父なる神に帰還することを救済とするので、旧約聖書の創造神はこの魂の牢獄である物質世界を造った下位の神(デーミウールゴス)として卑しめられます。それで、旧約聖書は全面的に排除されるか、裏返しに解釈される(創世記の蛇は人間に知恵を与えて邪悪な創造神から救い出す力と解釈される)などして、否定されることになります。
 二世紀中葉に活動したマルキオンの流れを汲む教会は勢力を強め、キリスト教会の半数近くがマルキオン派になったと言われています。マルキオンをグノーシス主義者とするのは問題が残りますが、彼が旧約聖書を否定した点においては、グノーシス主義の陣営に属します。彼は自分の教会の信仰基準として独自の聖書を造ります。それはパウロの十書簡(現行聖書のパウロ書簡から牧会書簡を除いた十書簡)と(自分流に改変した)ルカ福音書から成り立っています。この「マルキオン聖書」が、グノーシス主義に反対して使徒的信仰の確立を目指す教父たちに、正統な信仰の基準としての正典を結集する必要を痛感させます。
 二世紀末に活躍した教父の一人エイレナイオスは、このマルキオンだけでなく当時のグノーシス主義者たちを批判して「異端反駁論」という書を書きますが、その中で福音書は四つでなければならないことを論じ、現在新約聖書に含まれる四福音書を正統な使徒的信仰の基準とします。二世紀末に成立したと見られる「ムラトリ正典目録」でも、この四福音書が上げられていますが、そこではマタイ福音書が第一に置かれ、第二にマルコ、第三にルカ、第四にヨハネという現行の順序が現れています。
 マタイ福音書が正典の第一に置かれたのは、マルコとルカが使徒の弟子であるのに対して、この福音書が使徒マタイ自身によって書かれたと受け取られていたから(正典の基準は使徒性)という面がありますが、それと共に、この福音書がもっとも明白に旧約聖書の権威を継承し、(前述したように)旧約聖書の延長上の書として書かれているからだと考えられます。正統派の教会は旧約聖書を信仰の基準として受け入れていましたから、旧約聖書を否定するグノーシス主義派に対抗する上で、マタイ福音書はもっとも力強い援軍であったのです。マルコ福音書以上に多くの伝承を総合しているという点では、ルカもマタイと変わりませんが、ルカはマルキオンに利用されたことからも分かるように、旧約聖書とのつながりではマタイよりも弱くなります。ヨハネ福音書は初めからグノーシス主義との親近性を疑われて(事実後の時代にはグノーシス主義者たちの特愛の福音書になります)、地域によっては正典として受け入れるのにためらいがあったようです。それで、使徒ヨハネの作とされながらも、最後に置かれることになったようです。