市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第36講

第二節 最高法院での裁判

はじめに

 逮捕されたイエスは直ちに裁判にかけられることになります。イエスの裁判の実際の過程と内容を正確に復元することは、裁判の記録も残されていませんし、当時の法制史的状況も十分に分かっていないので、不可能であるとされています。イエスの裁判に関する福音書の記事は、裁判の公式記録とかそれに基づく報告ではなく、あくまでイエスに関する教団の信仰伝承を素材として、福音を宣べ伝えるために書かれた物語です。この事実を念頭において、この裁判の記事からも福音を聴き取るように努めなければなりません。
 イエスの裁判で確かなことは、イエスはユダヤ最高法院の宗教裁判とローマ総督ピラトの法廷との二つの裁判を受け、最終的にローマの法律によって死刑判決を受け、ローマの支配への反乱を企てる者として処刑されたことです。この裁判の物語においても、マタイは基本的にはマルコに従っています。この二つの裁判の間にペトロの否認の記事を入れていることでは、マタイはマルコと同じですが、マルコにはないユダの自殺の記事を入れている点で大きく違っています。二つの裁判とペトロの否認については、すでに「マルコ福音書講解」で詳しく扱っていますので、ここではマルコと違うマタイの特色に注目しながら、物語のあらすじを追っていきます。

大祭司の審問(26・57〜68)

 逮捕されたイエスは、直ちに「大祭司カイアファのところへ」連れて行かれます(二六・五七)。マルコは「カイアファ」という大祭司の名をあげていませんが、マタイはイエスを殺そうとする謀議の主導者として、はじめから大祭司の名を上げています(二六・三)。イエスが最初に連れて行かれたのは、最高法院(サンヘドリン)の議場ではなく、大祭司カイアファの私邸でした。これは、大祭司による予審法廷であると見られます。最高法院の規定によれば、正式の法廷は夜間に開くことができませんでした。また、正式の最高法院法廷が異端審問を受け付けるには予審が必要とされていました。マルコは緊急に招集された議員による予審法廷と夜が明けてからの全員による正式法廷を区別して、正式法廷を「最高法院全体」と呼んでいます(マルコ一五・一)。マタイではこの区別があいまいです(二六・五九)。福音書は裁判の正確な報告ではなく、神の民イスラエル全体が民を代表する大祭司の人格において、神が遣わされたイエスと公式に対面し、イエスを断罪したという宗教的事実を告知するのです。そのことによって、当時のユダヤ教の体制そのものが断罪されることになるのです。

 ヨハネ福音書では、逮捕されたイエスが最初に連れて行かれたのは「その年の大祭司カイアファの義父であるアンナス」の屋敷です(ヨハネ一八・一三)。アンナスの尋問を受けてから、「大祭司カイアファのもとに送った」とされます(ヨハネ一八・二四)。そして、夜が明けてから開かれた大祭司カイアファを議長とする正式裁判で、死刑の判決が出され、ピラトに引き渡されます(ヨハネ一八・二八、マルコ一五・一)。アンナスは6年から15年まで大祭司であり、解任された後も五人の息子たちが神殿の要職にあって、この頃も実権を握っていたと見られます。カイアファはアンナスの義理の息子で、18年から36年まで大祭司でした。この異例の長期在職からも分かるように、彼はローマ総督ピラトと密接な関係を結び、ローマの後ろ盾で権力を維持しました。また、両替商や犠牲の動物を売る商人を神殿境内に入れたのはこのカイアファの時代であるとされています。そのため、神殿境内から商人を追い出されたイエスの行為を憎み、これがイエスを除こうとする動機の一つになったと見られます。カイアファはピラトに訴えて目的を達します。なお、イエスの裁判をした大祭司の名をあげているのは、共観福音書ではマタイだけです。

 大祭司の審問について、偽証が行われたこと、その中で神殿を打ち壊すというイエスの発言がいちばん問題とされたこと、証言が合わず、イエスを断罪する証拠が得られなかったこと、イエスは黙して何も語られなかったこと、それで大祭司が直接イエスに「お前は神の子、メシアなのか」と尋問したことでは、マタイはほぼマルコに従っています(二六・五九〜六三)。ところが、大祭司の尋問に対するイエスの答えでは、マタイはマルコにかなり重大な変更を加えています。
 マルコでは、大祭司の問いにイエスは「わたしはある」と答えておられます。あの神的臨在を告知する《エゴー・エイミ》という定式が用いられているのです。ところが、マタイではその言葉はなく、かわりに「それを言ったのはあなただ」(六四節前半の私訳)となっています。この表現は、先にも触れたように、本来イエスがピラトの尋問に対して答えられた言葉です(二七・一一)。マタイはその言葉を、大祭司の尋問に対するイエスの答えの言葉として用いるのです。マタイは同じ言葉をすでにユダの問いかけに対するイエスの答えとして用いています(二六・二五)。マタイがそのように変更した理由は、わたしは次のように考えます。マタイは《エゴー・エイミ》という表現を湖上の顕現の箇所で用いていますから、この表現をあまりにも神聖であるとして使用を避けたとも考えられません。おそらく、湖上の顕現は復活者の顕現物語ですから用いることができるが、裁判の場ではイエスはあくまで地上の人間として裁かれているので、人間がこの神的臨在を告知する言葉を使ったとすることはできない、とマタイが考えたからであろうと考えます。
 マタイは《エゴー・エイミ》の代わりに「それを言ったのはあなただ」というイエスの言葉を置いています。この言葉はもともとピラトの尋問に対してイエスが答えられた言葉を、この場所にもってきたものです(動詞の時制は違いますが)。イエスは大祭司にこう答えておられるのです。「わたしが神の子メシアであるというのは、わたしが言ったことではなく、あなたがそう言って、わたしを神を汚す者と断罪しようとしているのだ」。イエスは地上の生涯において、自分が神の子であるとか、メシアであるとは公に主張されませんでした。福音書においてイエスをメシアとして、また神の子として告知しているのは、イエス復活後の教団がその告知をイエスの地上の働きの中に重ねているからです(『マルコ福音書講解U』の92「マルコ福音書の二重構造」を参照)。マルコは復活者の顕現定式である《エゴー・エイミ》を大祭司の裁判に持ち込んでいますが、マタイはそれを不適切として避けたのかもしれません。もしイエスがこの言葉を使われたのであれば、大祭司は直ちにそれを涜神として断罪することができたでしょう。マルコではそうなっています。ところが、厳格なユダヤ教律法学者として、マタイは人間イエスがそのような自分を神とする発言をされたとすることはできなかったのでしょう。
 続いてイエスが語られたとされる言葉(これは明らかにダニエル書の引用ですが)、「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」(六四節後半)においても、イエスはここでは直接自分をその「人の子」としておられるのではないので(他の第三者を指す言葉とも理解できます)、これをもってイエスを涜神の罪に定めることはできないはずです。この言葉を自分を指して用いているとしたのは大祭司の方です。こうして、イエスを涜神の罪に定めるのです。マタイはイエスの断罪を、大祭司の側の策略であると強調するのです。このようにして、マタイはこの場においても、イエスが神の子メシアであるという福音の告知を否定することなく、イエスへの断罪を根拠のない断罪とし、大祭司の側の策略として描いています。
 イエスの答えを聞いた大祭司が、強引にこれを冒?と決めつけて衣を裂いたこと、居合わせた全員が死刑だと判断したこと、イエスの顔に唾を吐きかけ、それをした者が誰かを当てられない偽預言者として侮辱したこと(二六・六五〜六八)は、マルコの通りです。

ペトロの否認(26・69〜75)

 イエスが大祭司カイアファの審問を受けておられるとき、その屋敷の中庭ではペトロが人々に問いつめられてイエスを否認するという出来事が起こります(二六・六九〜七五)。この記事においてもマタイはほとんどマルコをそのまま踏襲しています。おもな違いは、マルコでは一人の女中がペトロに「あなたもあのナザレ人イエスと一緒にいた」と言ったとしているところを、マタイは「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」としている点(六九節)、また、マルコでは居合わせた人たちが「確かにお前はあの連中の仲間だ。お前もガリラヤ出だから」と言ったとしているところを、マタイは「言葉遣いでそれ(ガリラヤ出身であること)が分かる」と説明を加えている点です(七三節)。マタイは、ペトロの言葉遣いのガリラヤなまりから、ペトロがガリラヤのイエスの仲間であることが分かったとしています。エルサレムの正統ユダヤ教徒から見れば、最近ガリラヤでイエスによって起こされた新しい信仰運動は異端の疑いのある胡散臭いものでした。祭りでエルサレムに来ているガリラヤ人はイエスの仲間として、疑いの目で見られたのです。
 つい先ほど、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(二六・三五)と言ったばかりのペトロが、鶏が鳴く前に三度までイエスを知らないと言ってしまい、イエスの予告の言葉を思い出して、「外に出て激しく泣いた」のです。マルコが「打ち砕かれて泣き続けた」(私訳)としているところを、マタイは「激しく」という語を加えて、ペトロの砕かれた姿を強調しています(ルカも同じ)。このペトロの姿に、信仰とは何かがよく示されています。人間の決意や意志の力でイエスに従うことは不可能です。それが出来ないことを身をもって知り、生まれながらの人間の力が打ち砕かれたところに、恩恵として上から与えられる神の力、聖霊の働きによって、信仰は成立するのです。

 この時のペトロの姿が、わたしが「絶信の信」と呼んでいる信仰の消息を物語ることについては、すでに『マルコ福音書講解U』の段落86「ペトロの否認」の講解で詳しく述べていますので、それを参照してください。

 マタイ福音書においては、このペトロの否認の記事が含まれていること自体の意義が重要です。すでに見ましたように(一六・一七〜一九)、マタイ福音書は、イエスをキリストと信じ告白する者たちの教団におけるペトロの権威を重視して、ペトロを使徒団の首座においています。そのペトロがこのようにイエスを否認して裏切ったのです。マタイの宗団からすれば全信徒の指導者の首座にある人物が、主イエスを裏切ったのです。ペトロの行為は、主イエスを見捨てるという点でユダの裏切りと同じです。普通、宗教教団はその指導者の人間的弱点を隠すものです。ところが、ペトロを使徒の首座におくマタイ福音書は、そのペトロの裏切りの行為をありのまま伝えるのです。
 おそらくペトロ自身が、自分のしたことをしばしば涙ながらに語ったのでしょう。このように主を否認して裏切った自分に、復活されたイエスが現れて、ペトロを復活者イエス・キリストの証人として立てて遣わされたことを、主の恩恵として繰り返し証言したのでしょう。ルカ福音書五章(一〜一一節)の記事はこのペトロの体験を核としている、とわたしは見ています。すなわち、イエスの十字架刑の後、ガリラヤに逃げ帰って漁をしていたペトロに復活されたイエスが顕現されます。その時ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っています。この言葉は、直前にイエスを否認して裏切ったことの罪深さを指しているはずです。復活されたイエスは、裏切ったペトロを赦し、「人間をとる漁師」として召し、復活の証人として、そして裏切った者を赦して受け入れる恩恵の証人として世界に派遣されるのです。
 マタイ福音書が使徒の首座に置くペトロの裏切りの記事を載せているのは、この物語がペトロ自身の口から出て、広く信徒の間に語り伝えられて知られており、マルコ福音書にも記録されているので、これを削ることはできなかったという事情もあるかもしれません。しかし、何よりもこのペトロの体験こそ人間の弱さと、その弱さを受け入れ克服する主の恩恵の力を証言し、恩恵の場に成立する信仰の消息を具体的に伝える物語として、すなわち福音の本質を語る重要な物語として、マタイは積極的に自分の福音書に書きとどめたと思われます。

ピラトへの引き渡しとユダの自殺(27・1〜10)

 大祭司カイアファの屋敷で予審尋問を行い、イエスを涜神の罪で死罪と認めた議員たちは、夜が明けて正式の最高法院法廷を開くことができるようになると、ただちに正式法廷を開廷してイエスの死罪を議決します。そして、「イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに引き渡した」のです(二七・一〜二)。死刑の判決を下しておきながら、被告をローマ総督ピラトに引き渡したのは、当時最高法院には死刑を執行する権限がなかったので、ローマ総督に死刑を執行してもらうためです。

 二七・一の「相談した」は「議決した」という内容であると理解すべきことについて、また死刑執行権については、『マルコ福音書講解』の87「ピラトの法廷」を参照してください。

 マルコではここから直ちにピラトの裁判の記事が続きますが、マタイはその前にユダの自殺の記事(二七・三〜一〇)を入れます。これは他の三福音書にはないマタイ独自の記事です。イエスが選ばれた十二人の弟子たちの中からイエスを引き渡す者が出たという悲劇をも、マタイは聖書の預言を正確に成就する出来事として描き、イエスが聖書を成就するメシアであることをここでも強調するのです。この段落には、聖書に精通していて、イエスの出来事を聖書の預言の言葉によって見事に構成する、マタイの律法学者としての力量がよく示されています。
 最高法院でイエスに有罪の判決が下り死刑と決まったことを知ったユダは後悔し、すでに手にしていた銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返しに行きます。そして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言ったとされます(二七・三〜四)。この記事から、ユダはイエスを死に追いやるつもりはなく、あれだけの神の力を持ちながら、民を糾合してローマに対する戦いに立ち上がらないイエスの態度に失望し、イエスを窮地に追い込むことで、自分が考えるメシア的な使命にイエスが立ち上がることを期待したのだが、期待に反してイエスはやすやすと捕らわれ、死刑の判決を受けたことで、自分がしたことの誤りに気づき、後悔したのだと想像する説が出てきます。この説は「イスカリオテのユダ」という名を「シカリ派のユダ」と見て、ユダを熱心党《ゼーロータイ》的な思想の人物とする説と通じています。しかし、この説はあくまで想像の域を出ません。ここのユダの言葉はユダの行為に対する教団の価値判断であって、ユダが実際にそういう意味で「後悔した」という判断の根拠にすることはできません。
 ユダがイエスを裏切った動機は、金銭欲からという福音書の説明も含めて、決定的な根拠はなく、不可解だという他はありません。ヨハネ福音書(一三・二、一三・二七)のように、「サタンが彼の中に入った」と言うほかはないのでしょう。しかし、動機は不明でも、その結果は、どの福音書も主張しているように、メシアがその使命を果たすために神が定められた道での出来事であることには変わりありません。マタイはとくにそれを精密に示してみせるのです。
 ユダは銀貨三十枚を返そうとします。すなわち、イエスを銀貨三十枚で売り渡した取引をないものとしようとするのです。しかし、時すでに遅く、イエスの死刑は確定しています。祭司長たちは「我々の知ったことではない。お前の問題だ(協会訳では「自分で始末することだ」)」と言って、銀貨を突っ返します。それで、「ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」とされます(二七・五)。ユダは自分で銀貨を始末するだけでなく、このような取り返しのつかない誤りを犯した自分自身を自殺によって始末するのです。

 ユダの最後がどうであったかは分かりません。しかし、主を裏切ったユダの最後は悲惨であったという伝承はあったようです。彼の最後は悲惨でなければならないという思いの中で伝承されたのでしょうから、誇張も伴ったと考えられます。ユダの最後についてはルカも伝えています(使徒言行録一・一六〜一九)。それによりますと、ユダはイエスを裏切って得た報酬で土地を買いましたが、「その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」となっています。さらに、「このことがエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は『血の土地』と呼ばれるようになった」とされています。マタイでは、以下に見るように、この土地は違った経路で「血の畑」とよばれるようになったと説明されています。ユダの最後に関する伝承が、様々な形で伝えられていたことがうかがわれます。

 ユダが神殿に投げ込んだ銀貨を、祭司長たちは拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言って、その銀貨で「陶器職人の畑」を買い取り、外国人の墓地にします(六〜七節)。マタイが福音書を書いた時代(おそらく八十年代)には、エルサレム近郊に「血の畑」と呼ばれる土地があることは知れ渡っていたのでしょう。マタイは、その畑がこのように「罪のない人の血を流すことによって買い取られた土地」だから、そう呼ばれるようになったのだと説明します(八節)。その上で、この出来事全体が預言者エレミヤの言葉の実現だとするのです(九節前半)。
 ところが、マタイがエレミヤの預言として引用している言葉(九節後半〜一〇節)は、その通りの言葉としてはエレミヤ書にはありません。祭司長たちがユダに報酬として与えた金額「銀三十枚」はゼカリア書一一章一二〜一三節の言葉から来ています(359頁の「ユダの裏切り」の項を参照)。そして、その中にある「鋳物師」と訳されているヘブライ語の単語が「陶器師」という意味もあることから、「陶器師」のところで主の言葉を聴いたことで有名な預言者エレミヤの体験(エレミヤ一八・二〜三)と、エレミヤが獄中で主の言葉を聴いて親戚(陶器師とは関係なし)の土地を買った物語(エレミヤ三二・六〜一五)をかなり自由に結びつけて、マタイがこのユダの物語を構成したと考えられます。

 ゼカリア書一一章一二〜一三節の預言に、「わたしは銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた」(新共同訳)とありますが、「鋳物師」では意味が通じないとして、シリア語訳ペシッタやアラム語タルグムでは、発音がほとんど同じの「賽銭箱」と読み替えています。協会訳はここを「さいせん箱」と訳しています。マタイは元のヘブライ語に「陶器師」という意味もあることを手がかりにして(新改訳が「陶器師」と訳しているのはマタイの引用を理解しやすくするためか)、ゼカリア書の預言とエレミヤ書の記事を、やや強引に結びつけたと考えられます。