市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第32講

第六節 律法学者たちへの弾劾

律法学者・ファリサイ派の偽善(23・1〜12)

 論戦が終わったところで、マルコは「律法学者に気をつけなさい。・・・・彼らは人一倍厳しい裁きを受けることになる」という短い警告を置いています(マルコ一二・三八〜四〇)。それに相当する位置に、マタイは「律法学者たちやファリサイ派の人たち」に対する長くて激しい弾劾を置きます(二三・一〜三六)。この箇所はマタイが構成した独自の語録集であり、マタイの状況や立場がよく示されており、また、重要な問題も提起されているので、やや詳しく見ておきましょう。

 エルサレム神殿崩壊後のマタイの時代には、祭司階級や他の派は消滅し、ファリサイ派だけが神殿なき後のユダヤ教の再建を担っていました。最高法院(サンヘドリン)に代わってヤムニアの学院を拠点としてユダヤ教を指導した律法学者たちはみなファリサイ派でした。それで、マタイにおいては「律法学者とファリサイ派」はいつも一組で現れ、一体として扱われます。この時代に彼らは、イエスを信じるユダヤ教徒を異端として追及するようになり、ユダヤ教の公式の祈りにその絶滅を祈る言葉を加えるに至りました。序章で見たように、マタイの時代にはユダヤ教会堂とユダヤ人信徒の共同体は決定的に断絶し、会堂からの異端者としての迫害に対して、マタイも激しい言葉で対抗することになります。

 この律法学者・ファリサイ派に対する激しい非難の語録集の聴衆は、「山上の説教」と同じく「群衆と弟子たち」です(一節)。ここでのイエスは、弟子たちと対立し迫害する律法学者・ファリサイ派の誤りを暴露することで、彼らを反面教師として、彼らの誤りに陥らないように警告されるのです。
 彼らの誤りは「偽善」という語で要約されます。この語録集では、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と繰り返されています。マタイは最初に(二〜一二節)、彼らの偽善の姿を描き、そのような偽善に陥らないように戒めます。マタイは、彼らが教えること(ファリサイ派ユダヤ教)が間違っていると言っているのではありません。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい」と求めます。すなわち、律法学者たちによってモーセの名によって与えられている律法は神からの正しい教えであるから、すべて守り行えというのです。マタイは彼らのユダヤ教そのものを批判しているのではありません。彼らの誤りは「言うだけで、実行しない」点にあるというのです。ここに彼らの偽善があります。だから、「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない」ということになります。パウロも、律法を持っていることを誇るユダヤ人が、自分が教える律法に反する行為をしている現実を暴露しています(ローマ書二・一七以下)。

 「モーセの座に着いている」というのは、ファリサイ派における律法学者たちの地位を示しています。すなわち、律法学者たちは現実の場面に適用して実行するために、聖書に書かれている律法を解釈し、それを弟子から弟子に教え伝えました。その口頭で伝承された聖書解釈の伝承が「口伝律法」と呼ばれて、ファリサイ派では聖書に書かれている成文律法と同じ権威があるとされました。そして、「口伝律法」を権威づけるために、その伝承はモーセにまで遡るとされました。それで、律法学者たちはモーセから伝えられた「口伝律法」をイスラエルに教える者として、「モーセの座に着いている」とされたのです。

 続いて彼らの偽善ぶりが、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(四節)という言葉で描かれます。律法学者たちはモーセ律法を実際の生活の場で実現するために、細かい規則をたくさん作りました。たとえば、安息日に仕事をしてはならないという律法を実際に行うにはどのように生活すべきであるかを、事細かに規定したのです。安息日に歩く距離は二〇〇〇キュビト(約九〇〇メートル)以下、調理については火をおこして調理することは禁止、治療行為も生命にかかわる緊急の場合の他は禁止という具合です。こうしてユダヤ教徒として守るべき行為規定は、命令と禁令を合わせて何百箇条に及ぶことになります。これをすべて守るように求めるだけで、神の戒めを内側から喜んで満たす力を与えることはないのです。イエスの福音が神の戒めを愛の戒め一つだけにして、その愛に生きる力を聖霊によって与えるのと対照的です。
 さらに、マタイは彼らの外面だけを飾る偽善を追及します。「そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」(五〜七節)。「そのすることは、すべて人に見せるためである」ことは、すでに「山上の説教」の中で詳しく描かれていました(六・一〜一八)。この箇所は、マルコ(一二・三八〜四〇)と大体並行しています。ただ「先生と呼ばれることを好む」を加えて、次の勧告につなぎます。
 「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(八〜一〇節)。「先生」と呼ばれることを好む律法学者たちの偽善を反面教師として、マタイはイエスの弟子たちに対する訓戒を与えます。イエスを信じる者たちの共同体においては、各人はみな直接イエス・キリストに結ばれており、イエスに教えられ導かれているのであるから、お互いはみな対等であり、兄弟です。共同体の中の誰かを師父として、その人物を通してキリストにつながるのではないことが強調されます。そうなれば、地上の人間に信仰が支配されることになります。一人ひとりが御霊によって直接霊なるキリストにつながって導かれて歩むところに、キリスト共同体の特質があります。現実の教会や集会はこの本質からはずれていますが(僅かか遙かに遠くか程度の違いはありますが)、わたしたちはこの本質を体現する方向を目指していなければなりません。

 『先生』《ラビ》はユダヤ教律法学者に対する尊称です。ユダヤ教では、アブラハムら父祖たちだけでなく、祭司・預言者・教師というような指導者が「父」《パーテール》と呼ばれることがありました(使徒七・二、二二・一参照)。「師父」という感じでしょうか。パウロは自分の伝道で信仰に入った者たちに、自分が彼らを生んだ父親であることを強調していますが(コリントI四・一五)、「師父」という尊称を求めているのではありません。『教師』《カセーゲーテース》は新約聖書ではここだけに用いられている用語です。

 マタイは、イエスの弟子の共同体が復活のイエスに直接つながる共同体であることをよく自覚しています。しかし、マタイの体質からか、それをこのような訓戒という形で表現します。そして、その訓戒を「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(一一〜一二節)という、へりくだりを説く一般論で締め括ります。

七つの「不幸だ」(23・13〜33)

 律法学者・ファリサイ派の偽善ぶりを描いた後に、マタイは、《ウーアイ》(不幸だ、禍いだ)という叫びを七回繰り返して、彼らに対する激しい断罪の言葉を投げつけます。この七重の「不幸だ」は、最初に置かれた山上の説教で九回繰り返して鳴り響いた「幸いだ」の祝福に呼応しています。そこでは「貧しい者」に「神の国はあなたがたのものだ」という祝福が与えられました。ここでは、その「貧しい者」(マタイの共同体)を異端として迫害するユダヤ教会堂の指導者たちに、「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」という断罪の言葉が突きつけられるのです。

 「幸いだ」と「不幸だ」という標語で、「二つの道」を対照するのはユダヤ教知恵文学の伝統です。ルカはこの「幸いだ」と「不幸だ」の対照を、彼の「平地の説教」の中でまとめてしまっています(ルカ六・二〇〜二六)。しかし、その対照の内容はマタイと異なっています。マタイでは、イエスを信じる「霊の貧しい」ユダヤ人信徒と、彼らを迫害する自己義認のユダヤ教指導者層との対照(ユダヤ教内での対照)ですが、ルカでは一般社会の貧しい者と富める者の対照です。なお、マタイ福音書二三章にまとめられた「不幸だ」の言葉はほとんど、ルカ福音書にも並行箇所があり、「語録資料Q」から採られたと見られます。比較のために、それぞれの語録にルカの並行箇所をあげておきます。

 七つの「不幸だ」の言葉をごく簡単に見ておきましょう。

 1「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(一三節、ルカ一一・五二)。

 最初に律法学者・ファリサイ派に対して、彼らは「人々の前で天の国を閉ざす」という重大な断定がなされます。この講解で繰り返し見てきたように、イエスが宣べ伝えられる「天の国」とか「神の支配」の内容は「恩恵の支配」でした。イエスは、彼らから罪人と呼ばれて神の国に入る資格がないとされた「貧しい人たち」に、父の無条件・絶対の恩恵を宣べ伝え、彼らをその中へ招き入れられました。その立場から見ると、律法を守る者だけが神の国に入るという「律法の支配」の教えは、「恩恵の支配」への扉を閉ざすものです。律法学者たちは律法を行っている自分の功績によって神の前に立つので、罪人と同列に扱われることを拒み、「恩恵の支配」に入ることを拒否しています。こうして、自分が入らないばかりか、イエスを異端者扱いにして、イエスを信じる「貧しい者」が入るのを妨げています。

 一四節は写本の段階でマルコ一二・四〇から入ってきたものと見られます。

 2「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」(一五節、ルカに並行箇所なし)。

 ここで律法学者・ファリサイ派が「地獄の子」と呼ばれています。彼らの「改宗者」を獲得するための伝道活動は、「自分よりも倍も悪い地獄の子」を増やすだけの活動だと断定されます。「地獄の子」という表現は、地獄に所属する者という意味です(ヨハネ福音書では「悪魔の子」と呼ばれています)。恩恵の神に反逆する者という意味で「地獄の子」と呼んだのでしょう。マタイは、自分たちこそ天の国に所属する民であると確信しているので、自分たちを「異端」と呼んで迫害するユダヤ教会堂の宗教活動を「地獄の子」という激しい言葉を用いて攻撃します。宗教的抗争は宗教的用語で罵倒し合うことになりがちです。しかし、イエスの弟子はここに止まっていてはなりません。両者の違いと対立を十分自覚した上で、「迫害する者のために祈れ」と言われたイエスの精神を、ここでも貫かなければならないのです。

 ここで用いられている「改宗者」《プロセライト》は、割礼を受けて正式にユダヤ教に改宗した異教徒を指すユダヤ教の用語です。ファリサイ派も会堂《シナゴーグ》を拠点にして周囲の異教徒に聖書を説き、その伝道活動の結果、異邦人(異教徒)の中から、ユダヤ教を受け入れつつ割礼を受けるまでには至らない「神を敬う者」と、割礼を受けて正式にユダヤ教徒になる「改宗者」を多く獲得していました。前一世紀には各都市にかなり拡大し、ティベリウス(在位14〜37年)の時代にはローマ市民のユダヤ教への改宗が社会問題になり、彼はユダヤ人をローマから追放しています。キリスト教の伝道活動に対抗して、ユダヤ教会堂の異邦人への布教活動も活発になり、一世紀後半には改宗者のバプテスマも行われるようになったと伝えられています。この語録(一五節)は、マタイの時代の状況を反映していると見られます。

 3「ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ」(一六〜二二節、ルカ六・三九参照)。

 この「不幸だ」の言葉だけは、「ものの見えない案内人」と呼びかけられ、「ものの見えない者たち」という非難が繰り返されています。律法学者たちは、自分たちこそ民を神の道に導く「案内人」であるとしていました。それに対して、マタイは彼らの議論の愚かさを誓いに関する議論を取り上げて暴きます。マタイは律法学者たちの議論を二組取り上げて(神殿と神殿の黄金、祭壇とその上の供え物)、尊い方(尊さの源泉)にかけて誓った誓いは無効で、尊くない方(尊くされる方)にかけて誓った誓いが有効だとする彼らの議論の愚かさ(論理的矛盾)をつきます。しかし、だからイエスの弟子たる者は尊い方にかけて誓いをしなければならない、と言っているのではありません。ここのマタイの議論はあくまで律法学者たちの土俵での議論です。彼らの立場に立っても、その議論は矛盾し愚かなものだと批判しているのです。また、神殿にかけて誓う者はその中に住んでおられる方(神)にかけて誓っているのであり、天にかけて誓う者も神にかけて誓っているのだから、誓う者は自分が結局神にかけて誓っていることを自覚しなければならないと説教しているのでもありません。イエスはいっさいの誓いを否定されました(五・三三〜三七)。その箇所の講解で詳しく見たように、イエスは完全な神の信実を見ておられたので、神の信実に支えられて生きる者の言葉も、無条件に信実でなければならない、誓いによって信実を保証する言葉とそうでない言葉を区別してはならない、とされたのです。マタイは、この神の信実の次元を見ることができない律法学者たちの誓いについて議論が、いかに愚かであるかを暴いて見せるのです。

 4「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」(二三〜二四節、ルカ一一・四二)。

 彼らは律法にある献げ物の規定を細かく調べて、間違いなく献げ物をすることに熱心であるが、律法の根本的な要求である正義、慈悲、誠実はないがしろにしているところに彼らの偽善があるという非難です。「もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが」という但し書きは、この語録が律法に忠実なユダヤ人の信仰運動(Q宗団)の中で伝えられたことを示しています。細かい規定は守っているが根本的な精神を見落としていることが、ぶよとらくだの比喩で印象深く語られています(二四節)。これはマタイだけにある語録ですが、イエスの語り方の特徴をよく反映しています。

 5「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」(二五〜二六節、ルカ一一・三九〜四一)。

 6「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」(二七〜二八節、ルカ一一・四四)。

 第五と第六の「不幸だ」の言葉は共通しています。すなわち、律法学者・ファリサイ派の偽善は、外から見える行為は清く見せかけているが、内面は汚れに満ちている点にあるというのです。彼らも自分たちが教える戒めを熱心かつ誠実に実行しようとしていたのでしょう。しかし、マタイの立場からすると、彼らは律法を成就されたイエスを拒否しているのですから、イエスが説かれた内面から律法を実現する(五・二一〜四八)ことはできず、外側だけの律法の行為をしていることになります。イエスは人の内側から出てくるものは汚れたものばかりであることを見通しておられました(一五・一八〜一九)。神の恩恵を受けて初めて内面の変革ができるのですから、恩恵を拒む律法学者・ファリサイ派たちは内側を清めることはできず、彼らの律法への熱心も外側の清めに止まらざるをえないのです。

 7「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」(二九〜三三節、ルカ一一・四七〜四八)。

 殺された預言者の墓を建てたり、迫害された義人の記念碑を飾ったりすることは、「もし先祖の時代に生きていたら、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう」という気持ちを表すための具体的行為でしょうが、その行為は預言者たちを殺したことは罪であったという罪責の思いから出ていることになります。預言者たちを殺した先祖たちの罪を自分たち子孫が償う義務があるとして墓を建てるのですから、自分たちが預言者を殺した者たちの子孫であることを、墓を建てる行為によって告白しているのだというのです。預言者を殺した者たちの子孫として、預言者殺しの血を受け継いでいるのだから、最後に遣わされた預言者イエスを殺して、「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ」と(マタイの描く)イエスは迫られます(この言葉は他の福音書にはありません)。これは、イエスを殺したユダヤ教指導者層に対するマタイの痛烈な弾劾です。現在のユダヤ教会堂指導者層は預言者殺しの子孫だというマタイの糾弾です。そして、最後に「蛇よ、蝮の子らよ」という洗礼者ヨハネの激しい弾劾の言葉(三・七)を用いて、「(神の子イエスを殺した)あなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と断罪します。この最後の言葉はルカに並行箇所がなく、「語録資料Q」からではなくマタイ独自の筆になるものと見られます。マタイは、この激しい断罪の言葉で七つの「不幸だ」の言葉集を締め括るのです。

今の時代の責任(23・34〜36)

 「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる」(三四〜三六節、ルカ一一・四九〜五一)。

 「不幸だ」を七回重ねて、自分たちと対立し迫害するユダヤ教会堂指導者を弾劾した後、最後にマタイは彼らにふりかかる滅びの命運を宣告します。
 「だから」というのは、前段を受けて、「あなたがたは預言者殺しの子孫だから」、今もこれからも、神が遣わされる者を迫害し、殺すのだと続きます(動詞は未来形)。「十字架につけ」という句が含まれることからも、ここの迫害がイエスの十字架以後の、キリスト信徒への迫害であることが分かります(ユダヤ教内では十字架刑はありえません)。また、ここで「神が遣わされる者たち」の中に、霊感を受けて語る「預言者」だけでなく、律法を正しく理解して教える「知者・学者」が含まれていることは、マタイがユダヤ教の知恵思想の流れにある学者であることを思い起こさせます(ルカでは「預言者と使徒たちを遣わす」)。
 こうして、アベルから最近のゼカルヤに至るまで、「地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる」と言われた後、「アーメン、わたしはあなたたちに言う」(直訳)という荘重な預言定式を伴って、「これらすべてのことが、今の時代の者たちにふりかかってくる」(直訳)と宣告されます。「これらすべてのこと」とは、これから語り出されるエルサレム神殿の滅亡を先取りして指していると見られます。

 「あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤ」については、マタイは「バラキアの子」をつけて(ゼカリヤ一・一)、十二預言者の一人であるゼカリヤを指すとしているようですが、ルカには「バルキヤの子」はなく、歴代誌下二四・二一のゼカルヤとか、(もはや知られていない)当時の出来事を指しているとする見方があります。
 「血がふりかかる」というのは、「その責任が問われる」(ルカ)という意味ですが、マタイはこの表現をもう一つの重要な箇所(二七・二五)で使っています。この箇所は、イエスを殺した責任をめぐる論争で重要な意味を持ちますが、この問題はその箇所の講解で触れることにします。

滅びに定められたエルサレムへの嘆き(23・37〜39)

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない」。(三七〜三九節)

 このエルサレムに対するイエスの嘆きは、ルカ(一三・三四〜三五)ではエルサレムに向かう旅の途上で語られたことになっています。マタイはそれを律法学者・ファリサイ派に対する激しい弾劾の後に置いて、その語録集の結びとすると同時に、以下に続く神殿崩壊預言(二四章)への導入とします。
 ここでの「わたし」は、もはやイエスの活動の範囲を超えて、イスラエルの歴史の中でご自分の民に働きかけ続けてこられた主なる神を指しています。昔から預言者が、神を指す「わたし」を用いて民に語りかけたように、ここでイエスは預言者的な霊感により、ヤハウェがイスラエルに語りかける言葉を語っておられます。今やエルサレムは、最後に遣わされた御子を殺すことによって、預言者殺しの罪の升目を満たすのです。その結果は「見捨てられて荒れ果てる」以外ではありえません。これからは律法学者に代表されるユダヤ教は、「主の名によって来る方」イエス・キリストを心から受け入れるまでは、「わたしを見ることはない」と見放されます。

マタイの反ユダヤ教論争(23章)

 以上に見たように、マタイは自分たちに対立し迫害するユダヤ教会堂の代表者に対して、伝えられた語録を集められるだけ集め、さらに激しい文言を書き加えて、この律法学者・ファリサイ派弾劾の語録集(二三章)を形成しました。この語録集の背景には、序章で見たように、イエスをメシアと信じるマタイの共同体と、異端として迫害するユダヤ教会堂勢力との激しい対立と断絶があります。
 たしかに「罪人たち」に「恩恵の支配」を宣べ伝えたイエスは、律法学者たちと対立し、彼らの批判に対して様々な形で反論されました。「放蕩息子のたとえ」を初めとする多くのたとえも、彼らに対する反論のために語られたものでした。さらに、イエスの「語録資料Q」を形成したユダヤ人の信仰運動も、ユダヤ教会堂からは反対され迫害されたので、「語録資料Q」の中にユダヤ教指導者層を厳しく批判するブロックが、イエスの語録を核として形成されることになりました。この「語録資料Q」の流れに属するマタイは、自分の時代のさらに厳しい断絶の状況の中で、このユダヤ教指導者層批判の語録を集大成する語録集を造り上げます。
 マタイの時代が、イエスの時代および「語録資料Q」が形成された時代と決定的に違っているのは、エルサレム神殿の崩壊と、それ以後のユダヤ教を担ったファリサイ派律法学者たちがイエスを信じる者を公式に異端として追放したことによります。エルサレム神殿の崩壊は、教団の側では、イエスを殺したことに対する神の裁きと理解され、ユダヤ教指導者層は神に断罪されたのだという確信になっていきました。そして、ユダヤ教会堂がイエスを信じる者を公式に異端としたことは、マタイの共同体などユダヤ人キリスト信者が、会堂とはいっさいの関わりを断ち、もはやイエスを信じるように働きかけることもできず、外に出て行かざるをえないようにしました。このような状況が、マタイの律法学者たちに対する激しい断罪の語録集(二三章)を造らせたのです。
 この語録集が形成された歴史的状況を強調したのは、この語録集の糾弾や断罪があくまでユダヤ教内部の争いであることを理解するためです。二三章は、イエスをメシアと信じるユダヤ人と、その信仰を異端とするユダヤ人との間の論争です。ユダヤ教内の一部の陣営の者が他の陣営のユダヤ教徒を「地獄の子」と断定したからといって、ユダヤ教の外にいる者がユダヤ教徒全体を「地獄の子」と断罪することは、大きな筋違いです。ところが、キリスト教の歴史の中で長らく、この筋違いの考え方が行われていたのです。神の言葉である聖書(新約聖書)がユダヤ教を断罪しているのであるから、ユダヤ教徒(ユダヤ人)は呪われた者である、キリスト教徒の交わりに入ってはならない、というような考え方が底流となって、キリスト教世界におけるユダヤ人迫害が行われました。
 キリスト教世界でユダヤ人迫害という罪深い愚行が繰り返されたのは、聖書を正しく理解しなかった結果であるという面があります。聖書の文言はあくまで、その言葉が出てきた歴史的状況に置いて、その言葉の霊的内実が問われなければなりません。歴史的状況を捨象して、書かれた言葉だけを絶対化すると、とんだ間違いを犯しかねません(ファンダメンタリズムの誤り)。最近の聖書関連の学問が、この歴史的状況をかなりの程度に明らかにしたことは、聖書理解に対する大きな貢献です。わたしたちが学問的成果を尊重しながら、聖書解釈を追求しているのもこのためです。もちろん、歴史的状況が分かったから聖書が理解できるわけではありません。聖書はあくまで霊的次元の言葉ですから、霊的な理解力を必要とします。ここでは聖書解釈の問題に立ち入ることはできません。ただ、マタイ福音書二三章を理解するにあたって、歴史的状況を考慮に入れることの重要性を指摘するにとどめます。