市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第31講

第五節 エルサレムでの四つの論争物語

はじめに

 マタイが独自に構成した「たとえ集」の後に、税金問答(二二・一五〜二二)、復活論争(二二・二三〜三三)、最も重要な掟についての問答(二二・三四〜四〇)、ダビデの子論争(二二・四一〜四六)という四つの論争物語が続きます。この部分は、順序もマルコの通りであり、内容も基本的にはマルコと同じで、とくにマタイの特色は出ていません。強いて違いを捜せば、マタイは最も重要な掟に関する問答をマルコよりも簡潔な形にまとめていることと、その問答の最後にある「もはやあえて質問する者はなかった」というマルコの句を、ダビデの子についての論争の後ろに持ってきたことぐらいです。マルコではこの句の後にさらにダビデの子に関する論争が続きますが、マタイはそれを不自然に感じたのでしょうか、最後のダビデの子論争の後ろにもってきて、四つの論争物語の部分を締め括っています。
 これらの論争の内容は、当時の状況における意味と共に、現在のわたしたちに対してもつ意義についても、「マルコ福音書講解」で詳しく論じましたので、その中のそれぞれの段落の講解を参照していただくことにして、ここでは「マタイによるメシア・イエスの物語」の流れを追うだけの簡単な要約にとどめます。

皇帝への納税(22・15〜22)

 ユダヤ教の本拠地、祭司や律法学者たちの牙城エルサレムに現れたイエスは、当然イエスに敵意をもつユダヤ教指導者層からの激しい攻撃を受けることになります。その最初が税金問答(二二・一五〜二二)です。マタイは、この問答がイエスを陥れるための罠であることを、「罠にかけようとして」という句を用いて明確に表現しています。また、この罠を仕掛けた主体について、マルコは「人々は」ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わしたとしており、漠然とユダヤ教指導者層(最高法院)を指していますが、マタイははっきりと「ファリサイ派の人々が」その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に遣わしたと限定しています。これは、神殿崩壊後のマタイの時代には敵対する勢力がファリサイ派だけになっていたことによると見られます。

 ファリサイ派の人たちと一緒にイエスに問いかけたヘロデ派とはどういう人たちであったのか、明らかではありません。普通ヘロデ家に忠実な親ローマ派の人たちとされていますが、当時ヘロデから好意的に処遇されていたエッセネ派を指すという見方もあります。

 「皇帝に税金を納めることは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という質問が罠であるのは、どちらに答えてもイエスを陥れることができるからです。イエスの時代には熱心党の運動が拡がり始めていました。熱心党は、異教の支配者であるローマ皇帝に税を納めることは、その支配を認めることになり、神だけを拝むことを求める第一戒に背くことになる、皇帝に税を納めることは律法に適っていない、と主張したのです。そして、律法を守る「熱心」から、ローマに妥協する支配層のユダヤ人を暗殺したり、ローマに対するゲリラ的な武力闘争を行ったのです。ローマが属州民に課す税《ケーンソス》を納めないように扇動することはローマに対する反逆行為ですから、ローマ側からの厳しい弾圧を受けます。もしイエスが「律法に適っていない」と答えるならば、ローマへの反逆を企てる者として訴えることができます。イエスが「律法に適っている」と答えるならば、異教の支配者の圧政に苦しんでいる民衆の支持を失わせることができます。
 この罠を仕掛けた質問者に、イエスは当時のローマ帝国の通貨であるデナリ銀貨をもってこさせて、「これは誰の肖像か、また誰の銘か」と逆に尋ねられます。彼らが「皇帝のです」と答えると、イエスはすかさず「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。それを聞いた民衆は、イエスの見事な答えに驚嘆し、イエスへの共感と支持を表明します。民衆の前での論戦には勝負がつきました。彼らはイエスからローマ当局に訴える口実も引き出せず、ますますイエスへの支持を高める民衆の前から退散します。
 この質問をした人たちは、民衆からメシア的な期待を寄せられ、民衆の苦しみに深い同情を示しているイエスから、「律法に適っていない。皇帝に税は納めるべきではない」という(熱心党寄りの)答えを引き出して、ローマへの反逆者として訴える口実を得ようとしたのでしょう。それは、彼らは後にピラトの法廷で、根拠もないのに「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ二三・二)と訴えたと伝えられていることからも推察されます。この時は、彼らの罠は御霊の知恵に満ちたイエスの言葉によって破られますが、ローマへの反逆者として訴えてイエスを抹殺しようとした彼らの意図は、最終的には成功します。イエスはローマへの叛徒としてローマ総督から死刑の判決を受けることになるのです。十字架刑は属州の反逆者に対するローマの処刑法です。

復活論争(22・23〜33)

 次にサドカイ派の者が来て論争を挑みます(二二・二三〜三三)。サドカイ派は、終わりの日に神が死者を復活させるというファリサイ派の信条を、それが律法(モーセ五書)に書かれていないという理由で否定していました。そして、子なく死んだ兄の妻を、跡継ぎを得るために弟が娶らなくてはならないという律法にあるレビレート婚の規定を持ち出し、死者の復活を認めると、その妻は次々に結婚した弟たちの妻となるから、同時に複数の配偶者をもつことを禁じた律法に違反することになると論じて、ファリサイ派を批判していました。その議論をイエスに向けるのです。死者の復活については、イエスはファリサイ派と同じ立場に立っていると見て、サドカイ派が論争をしかけたのです。
 イエスは問いの立て方自体が間違っていることを突いて、批判者を撃退されます。彼らは復活者の世界にもこの地上の世界と同じように結婚という制度があるとする「思い違い」をしているので、こんな問いを立てるのです。彼らがこのような思い違いをするのは、神がまったく新しい世界を創造して、人間を天使のように朽ちることのない存在とされるという「聖書(の約束)も神の力も知らない」からです。そこでは、人間が存続するために結婚というような制度は必要でないのです。
 さらに、彼らが依拠するモーセ五書から「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と書かれているところ(出エジプト記三・六)を引用して、神がモーセにそう名乗られた以上、アブラハム、イサク、ヤコブは生きていることになる。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神であるから、神がそう名乗られたとき、彼らは生きていることになるからです。同じ聖書を読んでいても、イエスを生かしている復活の命が、このような驚くべき読み方を可能にするのです。

最も重要な掟についての問答(22・34〜40)

 次に、再びファリサイ派の律法の専門家が来て、最も重要な掟はどれかと尋ねたのに対して、イエスが、「心を尽くして神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」を、一つにまとめて「同じように重要な掟」とされた問答が来ます(二二・三四〜四〇)。問答の内容はマルコの記事と同じですが、マタイは質問者の動機に「イエスを試そうとして」という句を入れ、また、イエスの回答に感心して同意を示した律法学者の記事を省略して、対決色を強くしています。マタイは、賛意を示した律法学者をイエスが誉められた記事は入れたくなかったのでしょう。

ダビデの子論争(22・41〜46)

 最後にダビデの子についての論争が来ます(二二・四一〜四六)。マルコは、先行する質問なしで、「イエスは答えて言われた」という句でこの論争を導入していますが、マタイは「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった」という句で始めます。この書き方にも、ユダヤ教会堂側のメシア理解が間違っていることを突こうとする、マタイの攻撃的な姿勢がうかがえます。
 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか」というイエスの質問に、ファリサイ派の人たちは「ダビデの子です」と答えます。メシアがダビデの子であること、すなわちダビデの子孫から出て、ダビデの王国を回復する人物であることはファリサイ派の信条であり、当時のユダヤ教で主流をなすメシア観でした。こう答えさせた上で、イエスは詩編一一〇編一節の言葉を引いて、「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」と反論されます。
 この反論は、実はマタイのユダヤ教会堂のメシア観に対する攻撃でもあるのです。ここに引用されている詩編一一〇編一節は、初期の教団がイエスの復活を論証するのに好んで引用した聖句です。神はイエスを復活させて主《キュリオス》とされた。復活して神の右に上げられたイエスこそ真のメシアであり、ダビデはこの方を「主」と呼ぶのである。ところが、ユダヤ教会堂はイエスを復活された主《キュリオス》とは認めない。それでは、ダビデがメシアを主と呼んでいる詩編の聖句は矛盾に陥るではないか、という反論です。イエスの復活を信じて初めてこの詩編の言葉が成就するのだ、と主張しているのです。
 だからと言って、マタイはメシアがダビデの子であることを否定しているのではありません。イエスがダビデの子であることを強く主張しているのはマタイ自身です。ユダヤ人にイエスがメシアであることを説得するには、イエスがダビデの家系から出た方であることを示すことが不可欠でした。それで、「メシアは誰の子か」という問いに、マタイはこう答えます、「メシアは、人としてはダビデの子であるが、復活によって神の子とされた方である」。この答えは、初期の教団において共通の信仰告白となり、キリストは「肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」(ローマ一・三〜四)方として宣べ伝えられるのです。