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第十章 エルサレムに現れるメシア

       マタイ福音書 一九〜二三章

はじめに(19〜23章)

 第四ブロック(一四〜一八章)では、イスラエルから立ち去り、少数の弟子たちを連れて異邦の地方を旅するイエスが描かれました。その旅を終えて、いよいよイスラエルの地に再び入ろうとするときに、フィリポ・カイサリアの地でペトロのメシア告白があり、その告白の上に建てられる「エクレーシア」について語られるようになりました。このブロックは、「エクレーシア」についてのイエスの訓戒をまとめた語録集(一八章)で締め括られました。この訓戒を弟子たちに与えたとき、イエスはまだガリラヤのカファルナウムにおられます(一七・二四)。ところが、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」(一九・一〜二)と続き、ここから第五ブロックが始まります。

 並行するマルコ(一〇・一)では、「それから、イエスはそこ(カファルナウム)を去って、ユダヤ地方に行き、ヨルダン川の向こう側に渡られた」となっています。ガリラヤからユダヤに行くには、普通ヨルダン川の向こう側(東ヨルダン、ペレア)を経てユダヤに入ることになります。それで、マルコの描く行程は不自然であるので、マタイは「ヨルダンの向こう側のユダヤ地方」と書き換えています。いずれにせよ、イエスが最後にエルサレムに入る直前、「ヨルダンの向こう側」に滞在されたことは、共通の伝承であったと見られます(ヨハネ一〇・四〇参照)。

 第五ブロックの物語部分(一九〜二三章)はユダヤの地でのイエスの働きを物語りますが、この部分はエルサレム入城までの部分(一九〜二〇章)とエルサレムに入ってからの部分(二一〜二三章)に分かれます。しかし、この旅の目的地は(ユダヤ地方での活動が目的ではなく)エルサレムであり、イエスは受難を覚悟して、神の都エルサレムで最後の働きを成し遂げるために来られたのですから、この第五ブロックの標題は「エルサレムに現れるメシア」としてよいと思われます。
 聖都エルサレムでの働きを物語った後、マタイは人の子の顕現を主題とする、きわめて終末的な色彩の濃い語録集(二四〜二五章)を置きます。この第五の語録集も「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」(二六・一)という句で締め括られて、いよいよメシア・イエスの物語は彼の十字架の死と復活というクライマックス(二六〜二八章)に入っていきます。
 第五ブロックの物語部分(一九〜二三章)は、ほぼマルコ福音書の順序に従っており、その内容も共通していますので、今回もそれぞれの段落の詳しい講解は『マルコ福音書講解』に委ね、ここではマタイによる構成と内容の特色だけを見ていくことにします。

 律法学者たちに対する批判の言葉を集めた語録集(二三章)を、それに続く終末に関する語録集(二四〜二五章)と合わせて、第五の語録集を形成しているとする見方もありますが、主題があまりにも違うのと、対象も違っているので、ここでは二三章を物語部分の一部として扱います。




第一節 天の国に入る者 ― ユダヤの地で

離縁についての論争(19・1〜12)

 ユダヤの地に入るとすぐにファリサイ派の律法学者たちが近づいてきて、「イエスを試そうとして」論争をしかけます(一九・三)。すでにガリラヤで、安息日律法を公然と無視するような活動を続けるイエスに対して、ファリサイ派の人たちは「どのようにしてイエスを殺そうか」と相談し始めていました(一二・一四)。ガリラヤで多くの民衆を集めて教えを説くイエスが、ついに聖都エルサレムの近くまで来たのです。イエスの教えが明白に神聖な律法に違反することを民衆の面前で暴露して、イエスを捕らえ裁判にかけ、抹殺しなければなりません。こうして第四ブロックの物語は、イエスとファリサイ派の人たちとの論争物語になります。エルサレムに入る前(一九〜二〇章)ではまだ弟子たちへの語りかけもありますが、エルサレムに入ってから(二一〜二三章)は批判者たちとの激しい論戦ばかりになります。
 批判者たちが最初に持ち出したのは離縁の問題でした(一九・三以下)。彼らはイエスが以前から離婚を姦通だとする厳しい発言(五・三二参照)をしておられたことを知っていて、「離縁は許されない」という発言を民衆の面前で引き出し、イエスが律法の明文を無視する者であるとの公然の証拠をつかもうとしたのでしょう。彼らは、「そもそも離縁することは律法に適っているのかどうか」と訊ねます(三節)。イエスは彼らの意図を知りつつあえて、創世記の言葉を引用して、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と断言されます(四〜六節)。そこで彼らは、「では、なぜモーセは離縁状を渡して離縁するように命じたのか」と詰め寄ります(七節)。これは、「お前の言っていることは、モーセ律法の明文(申命記二四・一)を無視することではないか」という詰問です。それに対してイエスは、「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない」と答えられます(八節)。
 これは、モーセ律法を神から与えられた定めとし、絶対無条件に順守しなければならないとするファリサイ派ユダヤ教の立場を根底から覆す重大な発言です。離縁を認めたモーセ律法の規定は、「あなたがたの心のかたくなさに向かって」与えられたものであって、「初めからそうだったのではない」、すなわち本来の創造者の意志ではないというのです。そうであれば、律法の規定を守っていても、必ずしも神の意志に従っていることにはならないわけです。律法を順守すれば、神に義と認められるというユダヤ教の根本的な立場は崩れます。律法を守っていても、心のかたくなさ、すなわち神への背反は変わりません。
 では、神の意志を実現するにはどうすればよいのでしょうか。それは、恩恵の場にひれ伏して「心のかたくなさ」が打ち砕かれることです。人間の自我が打ち砕かれるとき、「神が結び合わせてくださったもの」を人が離すことはなくなるのです。二人を結び合わせるのは、神の恩恵です。
 こうして、もはや離婚がありえない恩恵の場における結婚関係について、マタイはそれを「《ポルネイア》の場合以外で妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる」(九節)という法文で表現します。マタイは、マルコやルカにはない「《ポルネイア》の場合以外で」という例外規定をつけています。すなわち「みだらな行いの場合以外は」離婚は許されないという戒律を教団に与えています。これは、離婚に関するユダヤ教の厳格な立場を代表するシャンマイ派とほぼ同じです。ここにもマタイのユダヤ教的体質がうかがわれます。
 このような厳格な禁止規定を聞いて、弟子たちは困惑し、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言います(一〇節)。おそらく、これは群衆の面前でのファリサイ派の人たちとの論戦の後、家に入ってなされた弟子たちだけとの間の問答であると考えられます。それに対してイエスは言われます。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(一一〜一二節)。
 ユダヤ教において、結婚は成人した男女の神聖な義務でした。結婚しないのは「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者」だけでした。ところが、イエスの弟子の中には「天の国のために結婚しない者」がありうるとされるようになったのです。独身生活を貫いて神に仕える生き方は、すでにクムラン宗団に先例がありますが、イエスの弟子集団にも(ユダヤ教では例外的な)独身を貫いて神の国のために仕える道が開かれたのです。
 ただし、イエスの弟子すべてがこの道に召されているのではないことが強調されます。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである」のです。独身生活は結婚生活の煩わしさから逃れるためではなく、神の国の働きのために生涯を捧げるためでなければなりませんが、それは、そうせざるをえないほどに御霊の恵みを力強く注がれた人の特権です。たとえば、パウロは使徒としての恵みの賜物を与えられたので、独身の生涯を貫いて福音に仕えたのでした。

 離婚問題についてのイエスの発言、九節の語録(とくに《ポルネイア》の訳)、また独身者について、詳しくは『マルコ福音書講解T』の54「離婚について」の項、および『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』170頁の「第四節 心の中の姦淫」を参照してください。

子供のように(19・13〜15)

 次にイエスが子供を祝福された記事(一九・一三〜一五)が来ますが、これはほぼマルコ(一〇・一三〜一六)と同じで、とくにマタイの特色はありません。強いて違いを探せば、マルコ一〇・一五のお言葉は、マタイはすでに一八・三で使っているので、ここでは略されていることぐらいです。しかし、略されているこの句こそが、この段落の中心的なお言葉ですから、マタイの記事は何か中心がぼやけた感じが否めません。マルコはそのお言葉を「アーメン、わたしは言う」という句で始めており、この語録の重要性を示しています。マルコ(一〇・一五)では「子供のように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできない」となっています。「子供のように」、すなわち自分からは何もできない、何も提供するものがないという無の立場で、神が差し出してくださっている恩恵を受け入れるのでなければ、神の国に入ることはできないというのです。この自分を無として恩恵を受け入れることが信仰です。イエスはここで、「信仰によって神の国に入る(救われる)」という福音の根本を語っておられるのです。ところが、マタイはこのお言葉をここから外して、弟子たちに自分を低くして謙虚になれと説く訓戒にしたので(一八・三〜四)、焦点がはっきりしない記事になったようです。

 子供の祝福について詳しくは、『マルコ福音書講解T』55「子供と神の国」を参照。

金持ちの青年の問い(19・16〜22)

 続いてマルコと同じく、イエスに永遠の命を受け継ぐ道を尋ねた金持ちの青年の話が来ます(一九・一六〜二二)。マタイはこの記事もほぼマルコの記事(一〇・一七〜二二)をそのまま用いています。しかし、マタイはマルコの記事を微妙に変えています。マルコの「善い先生」という呼びかけの「善い」を外し、「何をすればよいでしょうか」という質問を「どんな善いことをすればよいでしょうか」にしています(マタイの倫理主義的な体質が現れていると見られます)。従ってイエスの答えも、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか」から、「なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか」と変わります。掟を数え上げるときも、マタイは「奪い取るな」を略して、代わりに「隣人を自分のように愛しなさい」を入れています。また、マルコは永遠の命を受け継ぐためには掟を守ればよいという青年の理解を前提にして物語っているのに対して、マタイは「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」というユダヤ教の公式の立場をイエスの発言としています(一七節)。もっとも目立つ点は、マルコでは「あなたに欠けているものが一つある」と言っておられるところを、マタイは「もし完全になりたいのなら」と言い換えている点です(二一節)。
 「完全」という用語はマタイ独自で特愛のものです。「完全」はマタイの理想です。マタイはイエスの教えを、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と要約します(五・四八)。この言い換えの結果、マルコでは掟を守ることで命を得ようとする立場そのものを捨てるように示唆しておられるお言葉が、修道院的な無所有の生活を要求する言葉と誤解されかねない表現になっています。マタイでは、命を受け継ぐための完全さは、いっさいの所有を売り払って施し、無一物となって、放浪巡回して福音告知活動をするイエスの仲間になることによって初めて達成される完全さになりかねません。実際、キリスト教の歴史において、この言葉に促されて修道院的な生活に入った人たちが多くいたようです。もっとも、マルコの言葉もそのような理解に導く可能性はありますが、マタイの表現の方がいっそうその方向に導きやすいと言えます。しかし、この方向の理解は福音の根本原則に反します。マタイにおいても、「完全」という用語に幻惑されず、あるいは、そのような完全に達することは人間本性には不可能であることを悟って、自分の功績によって命を受け継ごうとする人間の立場を捨て切ることを求めていると理解しなければなりません。そのことは次の富に関する問答で明らかにされます。

 マルコはこの質問をした人物を「ある人」と言うだけですが、マタイは「若者」としています(二〇節と二二節)。それで、この段落の標題は「金持ちの青年」とされることが多いのですが、ルカ(一八・一八)は「ある議員」としています。「たくさんの資産を持っていた」のですから、「青年」よりは「議員」の方が理解しやすいと考えられます。ただし、理解しやすい方は後での書き換えである可能性が高くなります。

富める者と神の国(19・23〜26)

 「持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい」というイエスの言葉に従うことができず、悲しんで去って行った青年を見て、イエスは弟子たちに「金持ちが天の国に入るのは難しい」ことを語り出されます(一九・二三〜二六)。そして、その難しさを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」というイエスらしい比喩で重ねて強調されます。この比喩は、金持ちが天の国に入る難しさを誇張したユーモラスな表現です。「針の穴」はエルサレムの城壁にあったごく小さいくぐり穴を指しているという解釈は必要ないでしょう。ラビ文学に、象が針の穴を通るという表現があると伝えられています。
 この「難しさ」は、人間が最高の能力を発揮しても達成できないという種類の難しさではありません。自分を無とすることの難しさです。イエスが金持ちの青年に財産を放棄することを求められたのは、今まで掟を守って行った善行にさらにもう一つの高度の善行を加えるように求められたのではなく、自分の善行や価値に頼る立場を放棄することを求められたのです。自分を放棄することは、資産や地位や教養などを多く持っている者ほど難しくなります。そういうものを持たない者、自分に頼るものを何も持たない「貧しい者」が神の国に入るのです。イエスの神の国の告知は、「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」で始まっています。
 この言葉を聞いて、弟子たちは驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言います。それに対してイエスは言われます、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。自分を捨てきること、無になることは、人間にはできないことです。自我を主張することが人間の本性ですから。ところが、人間にできないことを神が成し遂げてくださるのです。どのようにして成し遂げてくださるのかは、まだ何も語られていません。それは、十字架の福音によって告知されることになるのです。キリストがわたしのために死んでくださることによって、キリストに合わせられてわたしは死に、自我が打ち砕かれるのです。キリストにあって、神の恩恵だけが支配し、自分が無になることができるのです。

すべてを捨てた者への報い(19・27〜30)

 持ち物をすべて売り払ってイエスに従うことができず、悲しんで去っていった青年に較べ、ペトロたちはいっさいを捨ててイエスに従って来ました。そこで、ペトロがイエスに言います。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(一九・二七)。マルコでは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」とだけありますが、マタイは「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」を付け加えて、報償の問題にしています。
 報償を求めるペトロの問いに対するイエスの答えも、マルコにはない言葉で始まります。マタイでは、イエスは黙示思想的な表現で報償を約束されます。「はっきり言っておく(原文は、アーメン、わたしはあなたがたに言う)。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(一九・二八)。

 ほぼ同じ内容の語録が、「人の子」という語を使わないでルカ(二二・二八〜三〇)にも伝えられています。ここは「語録資料Q」から来ていると見られますが、この場合はマタイの方が「語録資料Q」の表現を忠実に残していると考えられます。

 「人の子が彼の栄光の座に着く更新の時には」(直訳)というのは、きわめて黙示思想的な色彩の濃い表現です。「人の子」が天から現れて「栄光の座に着くとき」、それまで不義なる者たちが支配していた「この(旧い)アイオーン」は覆され、神が支配される「来るべき(新しい)アイオーン」が実現します。その変革が《パリンゲネーシア》(更新、再生)と呼ばれているのです。「このアイオーン」で迫害されてきた義人聖徒たちは、その更新のとき神の支配にあずかり、世界を裁く者の座に着くというのです。「語録資料Q」を生み出したユダヤ人の信仰運動は、このような黙示思想的な希望に立って、迫害を耐えてきました。ユダヤ教黙示思想では律法に忠実なイスラエルに約束されていた栄光を、イエスはすべてを捨てて忠実に従った弟子たちに約束されるのです。なお、イスラエルは十二部族から構成される神の民ですから、終末的な神の民を治める者も十二人とされ、そこから「十二使徒」の概念が出てくることになります。
 マタイは、自分の本来の伝統である「語録資料Q」に見られる黙示思想的な将来の栄光を約束した後、マルコ(一〇・二九〜三〇)が伝えるイエスのお言葉を用いています。しかし、マルコに較べるとずいぶん簡単に要約して書いています。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(一九・二九)。
 イエスに従う者が受ける報酬は、イエスに従う者に賜る聖霊によってイエスと同じ質の命に生きることです。その命に生きる者は、このアイオーンでは捨てた家族や畑の百倍を迫害と共に受け、来るべきアイオーンでは永遠の命を受け継ぐのです。イエスの語録にはユダヤ教黙示思想の用語や枠組みが多分に残っていますが、そこで語られていることは、十字架され復活されたイエス・キリストの福音において、聖霊による命の現実として実現するのです。
 マタイは、マルコに従って、この段落を「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という語録で締め括ります(一九・三〇)。これは人の運命の逆転を語る当時の格言であったのを、イエスが神の国の一面を語るのに用いられたと見られます。人間的な評価ではもっとも先に入ると見られる者ではなく、最後になると見られている者が先に神の国に入るのです。立派な大人ではなく何の能力もない幼子が、律法順守を誇る義人ではなく徴税人や遊女など罪人が、イスラエルではなく異邦人が先に神の国に入ります。

 ここで「金持ちの青年の問い」、「富める者と神の国」、「すべてを捨てた者への報い」の三つの項で扱った事柄について詳しくは、『マルコ福音書講解T』56「金持ちと神の国」を参照してください。

ぶどう園の労働者のたとえ(20・1〜16)

 幼子の祝福からここまで、マルコに従って神の国に入ることを主題とした物語を続けてきたマタイは、最後にマタイだけにある「ぶどう園の労働者のたとえ」(二〇・一〜一六)を置いてこの部分を締め括ります。
 このたとえは当時のパレスチナの雇用状況をよく反映しています。都市に暮らす貧しい階層の人たちは、その日の生活の糧を得るための日雇い労働の口を求めて、町のアゴラ(広場または市場)に集まり、雇い主の声がかかるのを待っていました。このたとえは、おそらくぶどうの収穫期のことでしょう。ぶどう摘みは夜が冷え込む雨期の始まる前に終えていなければなりません。ぶどう園の主人が、緊急を要する仕事のために何回も広場に出向いて労働者を集めることは実際にあったのでしょう。当時の日雇い労働者の一日の標準の賃金が一デナリオンでした。
 イエスのたとえはこのような実際の雇用状況に即しています。しかし、聴く者を驚かすのは、夜明けに雇われた者も、昼の十二時、午後の三時、そして夕方の五時に雇われた者も、みな同じ一デナリオンの賃金を与えられたという点です。普通は労働時間に応じた賃金が支払われます。ところが、このたとえの主人は、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に」、同じ一デナリオンの賃金を払ったのです。最後に賃金を受けた者は、「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」と不平を言います。それに対して主人は、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と言います。

 このたとえは、マタイだけにありますがマタイの創作ではなく、当時のパレスチナの状況をよく反映していることと、その内容が世間的な常識に衝撃を与えるイエス独特のものであることから、イエスが語られたたとえであると見られます。このたとえは、これから見るように、ルカだけにある「放蕩息子のたとえ」と同じで、比較点を一つだけ持つ比喩であるので、物語の細部に意味を持たせた寓喩的解釈をするべきではありません。

 このたとえの主人公は、ぶどう園に雇われた労働者たちではなく、最後の者にも同じ賃金を与えた気前のよい主人です。標題としては「気前のよい雇い主」の方が、内容をよく現すでしょう。イエスはこの「気前のよい雇い主」をたとえとして、神の恩恵を語っておられるのです。イエスの父は、この雇い主のように、働きに応じて報酬を与えるのではなく、働きの多少にかかわらず無条件に同じ祝福を与えるのです。神の支配(神の国)とは、このような絶対無条件の恩恵の支配の場です。人間の側の働きや功績とか資格は問題にならない場です。
 では、イエスはこの神の恩恵を語るたとえを、実際にはどのような状況で誰に向かって語られたのでしょうか。それは「放蕩息子のたとえ」と同じように、イエスが告知される恩恵の支配に不平を言った人たち、すなわちイエスを激しく非難したファリサイ派律法学者たちに向かって、恩恵の支配の福音を弁証するために語られた比喩なのです(ルカ一五・一〜三参照)。
 「放蕩息子のたとえ」では、父親の財産を放蕩に使い果たして帰ってきた息子を、父親が無条件に迎え入れて歓迎の宴を開きます。それを見て、ずっと父親の家で働いてきた兄が不平を言います。マタイの「気前のよい雇い主のたとえ」では、夜明けから働いてきた人が不平を言います。どちらも、自分こそ資格がある者なのに、資格がない者がよいものを受けることへの不満不平です。それでは自分の資格は無意味になるではないかという抗議です。
 ファリサイ派に代表されるユダヤ教では、律法を順守する者が義人として神の国を受け継ぐ資格があるとされていました。律法を知らず、守ることもない者は罪人であって、神の国を受け継ぐ資格はないのです。ところが、イエスは「罪人」と言われていた徴税人や遊女たちと食事の交わりを持ち、自分の仲間として受け入れ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。もしイエスが告知されるように、神の恩恵によって資格のない者が神の国に入るのであれば、律法を順守することがその資格であるとするユダヤ教は根本から否定されることになります。ユダヤ教を代表する者たちがイエスを殺そうとしたのは当然です。この非難に対して、イエスは「放蕩息子のたとえ」やこの「気前のよい雇い主のたとえ」で反撃されるのです。この二つのたとえは一対です。
 「気前のよい雇い主のたとえ」がこのような意味であることは、それが置かれている位置からも確認されます。神の国に入ることを主題とする先行する部分の最後に、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という語録が置かれていましたが、その意味を説明するかのようにこのたとえが続き、そして、このたとえの結びとして、同じ「このように、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉が置かれています(二〇・一六)。このたとえはこの御言葉に囲い込まれて、この御言葉の内容を示すものになっています。イエスの状況では、自分たちこそ真っ先に神の国に入る資格があると思っている「義人」ではなく、資格では最後の者であるとされている徴税人や遊女たちが先に神の国に入るのです(二一・三一参照)。マタイの状況では、ユダヤ教会堂に対する批判としてその意味も含んではいますが、さらに、先に選ばれたイスラエルの民よりも、律法を持っていない異邦人の方が先に神の国に入ることを示唆しています(八・一一〜一二参照)。これは、福音告知をユダヤ人だけに限ろうとする体質を乗りこえて、異邦人に福音を宣べ伝えようとするマタイの立場の標語にもなっています。