市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第20講

第七章 天の国のたとえ

       マタイ福音書 一三章

はじめに

 基本的にはマルコに従って物語を進めてきたマタイは、マルコが安息日についての論争やベルゼブル論争の後に置いている四章の「たとえ集」に到達します。マタイもマルコの順序に従って、一一章と一二章で語ってきたイスラエルに拒否されるイエスの物語の後にイエスの「たとえ集」を置きます(一三章)。
 イエスは「神の支配」を宣べ伝えるにあたって、多くのたとえを用いて「神の支配とはこのような事態である」と民衆に語りかけられたのですが、そのたとえを語り伝えて「たとえ集」を形成した初期の教団においては、イエスのたとえの意味は変わり始めていました。その変化はすでにマルコ福音書においても見られますが、マタイはさらに自分が置かれている状況に即して、自分の主張を語るために、マルコにないたとえを入れたり、イエスがたとえを用いられた意図についてマタイ独自の理解を示す文を入れたりして、マタイ特有の「たとえ集」を形成します。その結果、また、「たとえ集」がイスラエルの拒否を語る部分の直後に置かれている結果、マタイの「たとえ集」はイエスを拒否するイスラエルに対するイエスの反論(実はマタイの反論)という性格が色濃く出てきています。こうして一三章の「たとえ集」は、メシアとしてのイエスに対するイスラエルの拒否を語る物語部分(一一章と一二章)の後に置かれた説話部分として、福音書の第三ブロックを締め括ることになります。
 もちろん、イエスのたとえはそれを聴く者に、自分が置かれている場を示して主体的な決断を迫る性格の語りかけであり、その性格は当時の人にも現代のわたしたちにも同じです。しかしここでは、マタイの決断、すなわち、マタイがイエスのたとえをどのように理解し、どのように提示したかの問題を中心に見ていくことになります。個々のたとえについて、イエスの本来の意味はどのようなものであったのか、また、わたしたち一人ひとりがそのたとえをどのように受け止めて主体的に生きるかは、別の機会に触れなければならない問題です。

 イエスのたとえの本来の意味、初期の教団の解釈、たとえの受け止め方の問題などについては、拙著『マルコ福音書講解T』の四章「たとえ集」についての講解を見てください。その講解を前提にして、以下の講解を進めていきます。




第一節 イエスのたとえと寓喩

「種を蒔く人」のたとえとその説明(13・1〜23)

 マタイはマルコに従い、「種を蒔く人」のたとえを最初に置いています(一三・一〜九)。たとえの言葉遣いもマルコと同じです。強いて違いを探せば、良い土地に落ちて多くの実を結んだ種について、マルコは「三十倍、六十倍、百倍」と書いているところを、マタイは「百倍、六十倍、三十倍」と逆の順序にしているところぐらいです。マタイが順序を逆にした意図まで詮索する必要はないと思われます。また、イエスが弟子たちにたとえの意味を説明されたところ(一三・一八〜二三)も、マタイは基本的にはマルコと同じ内容を伝えています。ここでも強いて違いを探すと、マルコが種を「神の言葉」を指すとしているところを、マタイは「御国の言葉」と表現している点、および、良い土地をマルコは「御言葉を聞いて受け入れる人」を指すとしているのに対して、マタイは「御言葉を聞いて悟る人」としている点です。「御言葉を受け入れる」は福音告知の状況における表現ですが、「御言葉を悟る」はマタイの律法学者的な体質をうかがわせます。
 『マルコ福音書講解T』の当該箇所で詳しく述べましたように、イエスのたとえそのものは本来きわめて終末的な性質のものでした。このたとえは、蒔かれた種の多くは不毛の土地に落ちて無駄になったように見えるが、良い土地に落ちた種が多くの実を結ぶことによって、農夫の苦労は必ず報われるのだということを語っています。そのように、イエスの中に聖霊によって到来している「神の支配」という終末的な現実は、今はイエスの低い姿の中に隠されているが、やがて必ず豊かな実を結んで顕わな現実となるのだと言っているのです。ところが、この終末的な「神の国のたとえ」が、初期の教団の福音告知活動の中で寓喩化されて、福音の言葉を聴く者の心構えを説く説教となりました。このたとえの性格の変化は、すでにマルコ福音書に見られるところですが、マタイもそのまま引き継いでいます。ただ、イエスが語られたたとえとその説明の間に入れられている「たとえを用いて話す理由」(一三・一〇〜一七)については、マタイはマルコの文に大幅な編集の手を加えています。
 マルコはイエスが「たとえを用いて話す理由」については、わずか三節で済ませていましたが(マルコ四・一〇〜一二)、マタイはかなり拡大して八節を使っています。マルコでは「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が、イエスがいつもたとえで語られる理由を訊ねています。すなわち、弟子たちもたとえで語りかけられる対象になっています。それに対してマタイでは、「弟子たちはイエスに近寄って、『なぜあの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか』と言った」となっています。マタイは初めから弟子たちと「あの人たち」を区別して、イエスが「あの人たち」、すなわち弟子以外の「外の人たち」にだけたとえで語られる理由を訊ねたことになっています。この弟子たちと外の人たちの区別は、「あなたがた」と「あの人たち(彼ら)」という表現で最後まで強調されます。
 この区別は、「あなたがた(イエスの弟子たち)には御国の奥義を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない。だから、彼らにはたとえで語るのだ」となります。ここでの「たとえ」は、謎という意味です。ヘブライ語とアラム語では、「たとえ」を意味する語は「謎」という意味もあり、マタイはここでその意味をこめて、「あの人たち」には謎で語って、奥義を悟れないままに放置するのだと言っているのです。マタイは、マルコでは他の箇所に用いられている「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という格言をここに入れて、悟りを「持っていない」彼らがますます謎の中に放置される理由としています。

 マルコが悟るように呼びかけるたとえとしている「あかりのたとえ」と「秤のたとえ」(マルコ四・二一〜二五)は、マタイは最後の一節を用いるだけです。二つのたとえは他の文脈で用いている(五・一五、七・二、一〇・二六)ので省略したと思われます。

 マタイは彼らが「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」ことを、イザヤの預言の成就だとしてイザヤ書を引用しますが、マルコの引用より長くて詳しく、「わたしは彼らをいやさない」と彼らの滅びについて断定的です。それに対して「あなたがた」弟子たちについては、ルカが別の箇所で用いている「語録資料Q」の言葉をここに入れて、預言者たちや旧約の義人たちが見ていた以上の奥義を見ることを許されている幸いを強調しています。
 こうして、「たとえを用いて話す理由」の一段は、「彼ら」、すなわちイエスを信じない者たち、とくにイエスの信徒を迫害するユダヤ人会堂に対するマタイの激しい断罪になっているのです。一方「彼ら」との対照で、イエスに従う者たち(弟子たち)が「御国の奥義」を悟る者たちであることが強調されています。ここだけでなく、マタイでは弟子たちはイエスの言葉をよく理解して、神の支配の奥義を悟っている者と描かれており、弟子たちの無理解を強調するマルコと著しい対照を見せています。これは、対立するユダヤ人会堂に対して、自分たちこそ神の支配の奥義を悟っている集団であることを主張するためです。

「毒麦」のたとえ(13・24〜30)

 マルコでは「種を蒔く人」と「秘かに成長する種」と「からし種」の三つのたとえが一つのセットになって「たとえ集」に置かれています。この三つのたとえは、「神の国はこのようなものである」という形で導入される「神の国のたとえ」集を形成していたと考えられます。イエスは種と収穫を主題にして、農民の生活に密着した形で「神の国」を語られたのです。
 マタイはその中の「秘かに成長する種」のたとえを省き、代わりに「毒麦」のたとえ(二四〜三〇節)を入れています。このたとえはマルコになく、またルカにもなく(したがって「語録資料Q」からのものでなく)、マタイだけにあるたとえであり、そのたとえにマタイは自分で詳しい説明を付けています(三六〜四三節)。マタイの説明は、「種を蒔く人」のたとえの説明がそうであったように、たとえを寓喩としています。すなわち、たとえの細部にそれぞれ意味を持たせて形成された一連の物語にしています。イエスのたとえを寓喩とする傾向はすでに最初期の教団にあり(種を蒔く人のたとえが典型的)、その傾向は後世の教会の伝統になっていきますが、マタイもここで自ら明白な形の寓喩を用いているのです。

 「毒麦のたとえ」はマタイだけにあるので、多くの学者はこのたとえはマタイだけが持っていたマタイ特殊資料(M)から取られたものと推定しています。しかし、たとえの本体を見ますと、一つの比較点だけを持つ「比喩」ではなく、初めから一連の物語としての構想をもって語られていることが感じられます。ある資料から伝えられた「比喩」をマタイが寓喩として解釈したというより、はじめからマタイが一つの寓喩を語り、その寓喩の意図を説明の部分で明らかにしているのではないかと、わたしは推察しています。

 この寓喩の意味はマタイ自身の説明によって明らかです。マタイの説明によってこの寓喩が語る物語を再構成してみると次のようになるでしょう。「人の子」であるイエスが来られて、世界という畑に神の言葉という良い種を蒔かれた。その種が実を結び、イエスの言葉に従う「御国の子ら」(御国に属する人たち)を生み出した。ところが、夜の間に敵である悪魔が世界に入ってきて、毒麦の種を蒔いた。その結果、世界には「御国の子ら」に敵対する「悪い者の子ら」もいるようになった。畑に麦と毒麦が混じっているように、現在の世界には「御国の子ら」と「悪い者の子ら」が混じっている。今「悪い者の子ら」が裁かれずに放置されているのは、良い麦を毒麦と一緒に抜いてしまわないためである。二種類の麦が十分生長して、違いが明らかになる収穫の時に、畑の主人が僕たちを遣わして刈り入れ、良い麦は倉庫に入れ毒麦は焼き捨てるように、世の終わりの裁きの日に、栄光の位に座して来られる「人の子」イエスは天使を派遣して、不法を行う「悪い者の子ら」を集めて審判の火に投げ込み、義人たちを「父の国」で太陽のように神の栄光で輝かせてくださる、ということになります。
 このたとえの主眼点は、麦と毒麦を一緒に抜いてしまわないように毒麦も今は放置されているが、収穫の時には必ず火で焼かれるようになる。そのように、不法を行う者たちも今は「御国の子ら」の中に混じっているが、彼らは終末時の神の審判によって必ず滅ぼされるのだという警告です。問題は、マタイが「毒麦」でどのような種類の人たちを指しているのかです。麦と毒麦が同じような形をしていて一見区別ができないという点がこのたとえの重要な前提になっているので、対立が明白なユダヤ人会堂や不信仰な世界を指すのではなく、同じようにイエスを告白している内部の者たちを指すと理解する方が順当でしょう。
 マタイが集会内部の(あるいは広くキリスト教運動の中の)「不法を行う者たち」に対して厳しい警告をしなければならないと考えていたことは、「山上の説教」の結び(七・二一〜二三)で明らかです。では、マタイにとって「不法を行う者たち」とはどういう種類の人たちであったのかについては見方が分かれます。ここでも「山上の説教」の結びと同じく、信仰に誇って律法を無視するような振舞いをする者たち(一部のユダヤ人信徒からはパウロの一派はそのように見えたでしょう)に地獄の火で焼かれると厳しい警告をしていると見ることもできます。あるいは、「つまずきとなるものすべて」という表現から、マタイが「御国の奥義」としている救済史理解(具体的にはイスラエルへの審判と異邦人への伝道)に反対する「偽預言者たち」を指しているとも見られます。彼らは「トーラー」を守らない異邦人を受け入れることを拒否して集会から追い出そうとしているので、マタイは終末に神ご自身が裁かれる日までユダヤ人も異邦人も一緒に育つままに委ねるようにと諭していると見る見方もできます。
 このように、このたとえは集会内部に存在する「悪い者の子ら」に対する終末の火の審判をもってする厳しい警告か、先走って人間的な判断で裁かないように諭す寛容を説くたとえか、理解の仕方は分かれます。現在のわれわれには寛容を説くたとえとして理解することが望ましいのですが、マタイ自身は厳しい警告として語っているのではないかと考えられます。それは、このたとえ集の最後に置かれている「投げ網」のたとえが、寛容を説く部分はなくて、世の終わりに「悪い者ども」が裁かれることだけを語っているので、そのたとえ(および山上の説教の結び)との整合性から、マタイはここでも警告を語っていると見られるからです。こうして、「種を蒔く人」のたとえとその説明で、外の人たちとの違いを強調したマタイは、一転して「毒麦」のたとえで内部の人たちに厳しい警告をすることになります。