市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第17講

第六章 拒否されるメシア

       マタイ福音書 一一〜一二章

はじめに

 第二のブロック(八〜一〇章)でイスラエルにおけるメシアの癒しの働きと、同じ働きのために派遣される弟子たちへのイエスの言葉をまとめたマタイは、続く第三のブロック(一一〜一三章)で、イエスとイスラエルの間に高まる対立と緊張を物語ります。その前半の物語の部分(一一〜一二章)でイエスに対するイスラエルの拒否が語られ、後半の説話の部分(一三章)で、この拒否に対するイエスの応答がたとえのかたちでまとめられます。このブロックには、最近ユダヤ教の会堂と訣別しなければならなかったマタイの集会の痛みに満ちた体験が反映しています。



第一節 共に拒否されるヨハネとイエス

ヨハネの質問(11・2〜6)

 マタイはしばしばイエス物語の新しい区切りをバプテスマのヨハネの記事で始めます。ガリラヤでの福音告知の開始を物語る第一ブロックは、ヨハネの洗礼活動とヨハネの逮捕から始まります。この第三ブロックは獄中からのヨハネの問いの記事で始まり、次の第四ブロックはヨハネの処刑から始まります。他の福音書以上にマタイはイエスとヨハネを一体として扱う傾向が強いことは先に述べました。ここでもマタイは、ヨハネをイエスの先駆者と位置づけ、イエスがヨハネよりも偉大であることを主張すると同時に、ヨハネを「女から生まれた者の中でもっとも偉大な」人物、預言者以上の者、イエスと同じ戦列に立つ者とし、イスラエルがヨハネもイエスも同じように拒否したことを告発します。
 ヨハネは自分の後に火をもってバプテスマする方の出現を予言しました(三・一一〜一二)。ところが、獄中でイエスの活動の様子を伝え聞くと、自分が予告した激しい火による審判とは様子が違います。それで弟子を遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせます。イエスはご自分がしておられる力あるわざ(八〜九章)を列挙してお答えになります。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これは、イエスの働きがイザヤの預言(二九・一八〜一九、三五・五〜六、六一・一)の成就であることを指し示しています。いや、それ以上です。旧約にはらい病人の清めや死者の生き返りはありませんでした。そしてこう付け加えられます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。

 マタイはここまでに伝えたイエスの働き、とくに力あるわざ(奇跡)を「メシア(ギリシャ語ではキリスト)の働き」(一一・二)と呼んでいます。この表現は、イエスがメシアであることを認めないヨハネの弟子集団に対するマタイの主張を滲ませています。ヨハネが質問のために弟子を遣わしたことが歴史的事実であるかどうか、また、その質問の動機などについては議論がありますが、この一段がイエスをメシアと認めない洗礼者ヨハネの宗団に対するマタイの弁証を反映していることは確かであろうと考えられます。

 たしかに、イエスが病人を癒し、貧しい者に恵みを告知される働きは、イスラエルが期待していたメシア、すなわち異教徒の支配を滅ぼす終末的審判者としてのメシアの姿とは違います。イスラエルは自分たちが期待していたメシアでないことに失望して、イエスに「つまずく」のです。しかし、イエスがなさっている力あるわざ自体は、イスラエルの人々にとって神の栄光を現し、預言の成就であることを示すしるしであっても、「つまずき」ではありません。「つまずき」はとくに最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている」事実にあります。イエスが言われる「貧しい人」というのは、律法を守ることができない者たちとして、律法学者たちから「罪人」と呼ばれてさげすまれている人たちのことです。この「貧しい人たち」をそのままで(律法を守れないままで)神の支配に招き入れるのが、イエスの福音であったのです。このイエスの「恩恵の支配」の福音に、「律法の支配」に固執するユダヤ教指導者たちはつまずいたのです。イスラエルは「つまずきの石につまずいた」のです(ローマ九・三二)。

預言者以上の者(11・7〜15)

 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められます(七〜一五節)。イスラエルがユダの荒野で出会った毛衣の人物は、時代の風になびいて耳あたりのよい言葉を語る葦のような弱い人物ではなく、また、権力を誇り、力をもって吸い上げた富で贅沢に王宮に暮らす王でもない。彼こそ神の言葉を語るまことの預言者、いや預言者以上の者です。ユダヤ教では、預言書の結集が完成した時点(前二世紀)で預言者の時代は終わり、これ以上預言者は出ないと考えられていたので、ヨハネが神からの預言者だとすれば、彼は申命記(一八・一五)に預言されていた「モーセのような預言者」であり、まさに預言者マラキ(三・一)がメシア出現の道備えをする先駆者として預言した人物に他ならないことになります。ヨハネはイザヤやエレミヤのような偉大な預言書を残さなかったけれど、救済史上の位置からすれば律法と預言の時代を締め括る預言者であり、イザヤ、エレミヤ以上に偉大な、モーセと並ぶ預言者であり、女から生まれた者のうちでもっとも偉大な人物です。このようにイエスの言葉としてマタイが伝えるヨハネへの高い評価は、この人物の叫びに耳を傾けなかったユダヤ教指導者たちに対するマタイの厳しい批判が背後に響いています。

 この洗礼者ヨハネについての小語録集(一一・二〜一九)は、ルカ七・一八〜三五とよく一致しており、「語録資料Q」から来ていると見られます。おそらくこれは、語録資料Qを生み出したユダヤ人の信仰運動が、自分たちと同じ戦線に立つと見ていた洗礼者ヨハネについて形成した語録集であると考えられます。ルカとの重要な違いは、マタイが一二〜一五節をここに入れていることです。ルカはこの語録を別の文脈(一六・一六)に置いています(逆に、ルカ七・二九〜三〇にあるファリサイ派や律法学者への非難は、マタイでは他の場所二一・三二に移されています)。また、この「律法と預言者はヨハネまで」という語録は詳しく見ますと、マタイとルカではヨハネの位置づけが違います。すなわち、ルカでは「それ以来」、すなわち彼より後に、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくで入ろうとしていますが、マタイでは「彼が活動し始めた時から今に至るまで」そのような事態になっています。すなわち、ルカではヨハネは律法と預言者の時代に属していますが、マタイではすでにイエスと共に新しい時代の開始を告げる人物になっています。ここにもヨハネとイエスの一体性を重視するマタイの傾向がうかがわれます。

 マタイの共同体は、終末的な新しい時代を告知する者としてヨハネの弟子集団と共同戦線に立つとしながら、同時にヨハネではなくイエスがメシアであること、イエスがもたらされた事態はヨハネが与えるものとは次元が違うことを強調しなければなりませんでした。それで、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」とヨハネを高く評価しながらも、すぐに「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と続けるのです。すなわち、イエスがもたらされた「天の国」に属する者は、どのように小さい者でもヨハネより偉大だというのです。マタイの時代では、イエスの弟子たちの集団は、ヨハネの弟子たちの集団となお競合関係にあったのです。

 このようにヨハネを高く評価する言葉は、ヨハネ集団と競合関係にあった初期のキリスト集会から出たとは考えられないので、イエスご自身の言葉であると見られます。ただ、ヨハネをイエスの先駆者とする言葉(一〇節)は、初期の教団から出たものと見られます。

 マタイにはイエスが復活者としてご自分に属する者に聖霊を与えて、復活のいのちの次元に生かしてくださっていることが分かっています。イエスは女から生まれた者であっても、復活者キリストは御霊によって生まれた方です。この語録は、神の御霊の次元に生きる者は、人間的にはどのように小さい者でも、「女から生まれたもの」、すなわち生まれながらの人間性から発する宗教に生きる者がいかに偉大であっても、到達できない境地にいるのだと主張しているのです。

暴力を受ける天の王国(11・11〜15)

 続く一二節の「洗礼者ヨハネが活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取っている」という語録は、理解困難で、解釈が分かれています。まず「力ずくで襲われている」と(受動態で)訳されている動詞が問題になります。これを(中動態と見て)天の支配が「力をふるっている」とか「力をもって突入している」と理解する訳もありますが、これは後半の「激しく襲う者がそれを奪取している」と矛盾してきます。「天の国は力ずくで襲われている」を、そこに入ろうとする者の激しい熱意と理解する解釈(ルターら)もあり、このルカの解釈(後述の注)に影響された解釈は、説教の主題聖句として魅力的です。しかし、このギリシャ語の動詞は敵対的な暴力行為を指す語で、この解釈も無理があります。ギリシャ語原文の意味としては、「天の王国は暴力を加えられている。そして暴力的な者たちが、それを奪い取っている」(岩波版佐藤訳)となり、その暴力は敵対的に理解しなければなりません。敵対者は主の言葉の告知に迫害を加えるなど暴力的に対抗し、天の支配を妨げ、入ろうとする者から奪い取っているというのです。

 この困難な語録を、ルカはかなり書き換えて理解しやすくしています。この語録に関しては、困難なマタイの形が語録資料Qの原型で、ルカはそれを自分の福音の神学に従って解釈して書き換えたと見られます。ルカ(一六・一六)ではこうなっています。「律法と預言者はヨハネの時までである。それ以来、神の支配が福音され、すべての人がそれに力ずくで入っている」。神の支配は「暴力を受ける」のではなく「福音される」となり、「力ずくで襲う」という動詞は、神の支配「の中へ」という句を伴って、(中動態で)「力ずくで入る」という意味で用いられます。主語も「すべての人」となり、世界的な福音告知によって異邦の諸民族が激しくエクレーシアに入ってきているイエス以後の時代を描く文にしています。

 「洗礼者ヨハネが活動し始めたときから今に至るまで」という句は語録資料Qにはなく、マタイの編集句と考えられるので、マタイはこの文を書いたとき、ヨハネの活動から自分の時代までの歴史を念頭においていたと見られます。この時期全体を通じて、イスラエルはヨハネに対してもイエスの弟子たちに対しても敵対的で、迫害をもって神の支配を妨げてきたのです。マタイは語録資料Qを生み出した信仰運動の苦難の歴史を振り返り、洗礼者ヨハネをその戦列に加えるのです。イスラエルに新しい時代の到来を告げる働きは、洗礼者ヨハネの活動からはじまったのです。イエスも初めはその中におられたのです。そして、ヨハネもイエスも拒否したイスラエルの愚かさを、次の子供の遊びの比喩で告発します。

広場の子供のたとえ(11・16〜19)

 洗礼者ヨハネに関するマタイ(または語録資料Q)の提示には二つの面が入り交じっています。一つは、ヨハネを自分たちと共同の戦線に立つ同志として提示する面です。ヨハネはイエスと同じく終末の決定的な転換を告知するために神から遣わされた使者であるという見方です。もう一つの面は、同じく終わりの時に神から遣わされた者ではあるが、ヨハネではなくイエスがメシアであるという主張です。この面がもう一度確認されます。
 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」(一三節)。ヨハネは律法と預言者の時代に属し、その時代(準備の時代)を終わらせる最後で最大の大預言者です。それは、ヨハネの後に出現したイエスこそ成就者メシアであり、ヨハネはメシア出現の前に道備えをすると預言されていたエリヤであることを意味します。イスラエルは、神の霊の火車に乗って天に上げられたエリヤが終わりの日に再来するのを待望していましたが、もしイエスがメシアであることを認めれば、ヨハネこそ再来のエリヤであるという神秘が理解できるのです(一四節)。マタイは、イエスがよく用いられた「耳のある者は聞きなさい」という言葉をここに置いて、イスラエルにこの奥義をよく考えるように促します。
 こうして、ヨハネとイエスは先駆者とメシアとしてセットでイスラエルに遣わされたのに、イスラエルは両者を共に拒否したという告発をもって、マタイはこの洗礼者ヨハネの段落を締め括ります。その告発はイエス特有のたとえの形で語られます(一六〜一九節)。
 「今の時代」、すなわちヨハネとイエスの告知を受けたイスラエルは、広場で遊ぶ子供にたとえられます(一六〜一九節)。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」というたとえの意味は、そのたとえが指し示す本体がすぐに続いているので明らかです。(順序は逆になっていますが)ヨハネが荒野での厳しい禁欲的な生活の場から、迫っている審判に備えて悔い改めを呼びかけると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、彼の呼びかけを無視しました。「悪霊に取りつかれている」という表現は、当時のユダヤ人が自分たちの常識とはかけ離れた主張や生活をする者を拒否するときに投げつけたレッテルです。今度は、イエスが神の恵みの時が到来している、すなわち婚礼の喜びの時が来ているとして、飲食を共にして喜びをすべての人と分かち合い(イエスは実際、カナの婚礼では水をぶどう酒に変えて婚礼の宴を祝福されました)、律法の外にいるような人たちとも食卓を共にされたとき、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って、イエスを非難したのです。

 イエスはたとえを語るだけで、その解説はされなかったという事実からすると、「広場の子供」のたとえ自体(一六〜一七節)はイエスが語られたものである可能性がありますが、その解説(一八〜一九節)は語録資料Qのものであると見られます。また、解説の部分でイエスが「人の子」と呼ばれているのも、イエスを「人の子」として告知した語録資料Qの文であることをうかがわせます。

 しかし、イスラエルが拒否したからといって、ヨハネやイエスの告知が正しいものではなかった(神からのものではなかった)ことにはなりません。むしろ「知恵の正しさは、その働きによって証明される」のです。この表現の背後には、預言者は「神の知恵」によってイスラエルに遣わされた者であるという知恵文学の伝統があります(ルカ一一・四九参照)。イスラエルは「知恵」によって派遣された預言者たちを殺してきたのであり、今ヨハネとイエスを拒否しているが、ヨハネとイエスが正しいこと(神から遣わされた者であること)は両者の働きの結果が証明するというのです。マタイがこの「知恵の働き《エルガ》」という語をこの段落の最後に用いたのは、段落の最初の「メシアの働き《エルガ》」(二節)に対応し、イスラエルの拒否にもかかわらず、イエスがメシアであることはイエスの働き全体が証明すると言おうとしているのだと考えられます。
 こうして、この時代のイスラエルは、ヨハネの厳しい審判の告知にも、イエスの喜びのおとずれにも真剣に対応しなかったことが告発されるのです。この告発は(次の段落のガリラヤの町々に対する厳しい告発も含めて)、福音書が語るヨハネやイエスの告知に対するユダヤ人群衆の熱狂的な歓迎からすると、やや異様な印象を受けます。この落差は、語録資料Qを生み出した信仰運動(Q集団)がイスラエルに拒否された体験を反映していると考えられます。ヨハネとイエスが実際に活動したときには、ユダヤ人民衆は熱烈に反応しましたが、ユダヤ教指導者階級は無視または反発しました。イエスの死後、イエスの言葉を宣べ伝えたQ宗団は、イスラエル社会に受け入れられず孤立していったようです。ユダヤ戦争の前後を通じて、イスラエル社会に影響力を確立したのは、洗礼者ヨハネの宗団でもQ宗団でもなく、ラビのユダヤ教だったのです。マタイがこの福音書を書いたころには、マタイ共同体は会堂が代表するユダヤ人共同体から分離し、敵対し、異邦人伝道に将来を託さざるをえない状況になっていました(序章参照)。その体験がこのような告発をここに置かせたと見られます。