市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第12講

第四章 民を癒すメシア

       マタイ福音書 八〜九章


はじめに
 マタイはイエスのガリラヤでの福音告知活動を「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」たことと、「民衆のあらゆる病気や患いをいやされた」ことの二つにまとめました(四・二三)。そして、イエスが教え宣べ伝えられた「御国の福音」を、五章から七章の「山上の説教」において総括して綱領的に提示した後、八章から九章で「民衆のあらゆる病気や患いをいやされた」イエスの働きを具体的に物語っていきます。このいやしの物語は、同じ働きのために派遣される弟子たちへの「派遣の説教」(一〇章)へと連なって、物語と説話からなる第二のブロックを形成します。
 本章で八〜九章を講解することになりますが、この部分はマルコ福音書と重なる内容が多くなってきますので、重なる箇所については先行する『マルコ福音書講解』に委ね、本講解ではマタイ福音書の特色ある部分に限定して講解を進めていきます。紙数の関係もあり、福音書テキストは必要な場合以外は省略します。



第一節 マタイの奇跡物語

彼はわたしたちの病を担った(8〜9章)

 第二ブロックの物語部分(八〜九章)で奇跡物語を連ねることで、マタイは神から力を注がれたメシアとしてのイエスの働きを描きます。そして、その奇跡物語の間に、同じ働きを継承するように派遣されることになる弟子たちの召命物語を配置します。
 ここに置かれている奇跡物語の多く(らい病人、ペトロの姑、湖の嵐、ガダラの悪霊、中風の人、会堂司の娘と長血の女)はマルコ福音書から取られていますが、順序は異なり、記事も簡略になっています。他に「語録資料Q」からと見られるもの(百卒長の僕)とマタイ独自の記事(二人の盲人、口の利けない人)もあります。奇跡物語の数え方については、三つの奇跡物語が一組にされて、三組が二つの召命記事(八・一八〜二二と九・九〜一七)によって隔てられて配置されていると見る見方や、会堂司の娘と長血の女の物語を別に数えて十の奇跡物語があるとして、マタイはこれを出エジプトにさいしてモーセが行った十の「力あるわざ」に対応するメシアの「しるし」としていると見る見方などがあります。
 数え方はともかくとして、ここ(八〜九章)の奇跡物語は、イエスが神から遣わされた方であることを指し示す「しるし」として列挙されていると言えます。この奇跡物語集の意義は、「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねたヨハネの弟子たちに、イエスが「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と答えられたという記事(一一・二〜六)によって要約されています。このイエスの言葉に列挙されている「力あるわざ」は、すべて八章から九章に出てきています。
 マルコの記事と較べると、マタイは物語を簡略にしていることが目立ちます。とくに会堂司の娘と長血の女の記事(九・一八〜二六)が典型的です。マルコでは現場を見てきた人が状況を生き生きと語っているという雰囲気がありますが、マタイはイエスが奇跡を行われたという事実を淡々と報告しているという感じを受けます。記事の長さも、マルコが二三節を使っているのに対して、マタイは九節で済ませています。この違いはおそらく、マルコはイエスの奇跡を驚きをもって伝える物語伝承をそのまま用いているのに対して、マタイはイエスの奇跡はイエスがメシアであることを示すしるしとして事実だけを伝えればよいとして、イエスの教えと言葉を重視する立場から奇跡物語の記事を簡略にしたことから来るのでしょう。
 しかし一方、マタイにはマルコにない重要な進展があります。イエスがペトロの姑をいやされた記事(八・一四〜一七)で、イエスが連れてこられた病人を皆いやされたことを、マタイは預言者イザヤの言葉(イザヤ五三・四)の成就であるとしています。イエスの生涯の出来事をすべて聖書の預言の成就として物語るマタイの傾向からすれば、イエスの働きの重要な面である病人の癒しも預言の成就として描くのは自然なことですが、その預言がイザヤ書五三章であることは重要な意義をもつことになります。

イザヤ書の引用は、マタイが通常用いている七十人訳ギリシャ語聖書からではなく(七十人訳では「彼はわたしたちの罪を負い、わたしたちのために悩んだ」となっています)、ヘブライ語聖書を用いています。ただギリシャ語に訳すさい、成就引用に適するように語句の意味が微妙に変更されています。

 イザヤ書五三章は、イエスの十字架の死を意義づけるもっとも重要な預言です。イエスを復活されたキリストとして宣べ伝えた最初期の使徒たちにとって、イエスの十字架死をどう意義づけるかはもっとも切実な問題でした。彼らはみなユダヤ人でしたので、その意義づけを聖書に求めたのは当然です。彼らは聖霊に導かれて、イエスの死をイザヤ書五三章の「苦難のしもべ」の贖罪の死と理解し、そう宣べ伝えたのです。イザヤ書五三章は、最初期の福音告知において中心的な位置を占めることになります。
 マルコまでは、イエスの癒しのわざは単純に霊能者イエスのカリスマ的能力の現れとして扱われていましたが、マタイに至って、癒しがイザヤ書五三章の成就とされることで、キリストとしてのイエスの贖罪の業に含まれる出来事と理解されるようになった、あるいは少なくともそう理解されるようになる機縁を提供したと言えるのではないかと思われます。

マタイ福音書における癒しの物語のもう一つの特色は、癒しを与えるイエスが「ダビデの子」と呼ばれていることです。このブロックにおけるマタイ特有の記事である「二人の盲人」の癒しでも、二人の盲人はイエスに向かって「ダビデの子よ」と呼びかけています(九・二七)。マタイでは異邦人の女性までイエスに「ダビデの子よ」と叫んでいます(一五・二二)。このことの意義は、マタイ福音書における「ダビデの子」という称号の意義を扱う箇所でまとめて取り上げます。

百人隊長の信仰(8・5〜13)

 マルコにはない奇跡物語の一つに、カファルナウムでの百人隊長の子供の癒し(八・五〜一三)があります。この記事は信仰について重要なことを語っていますので、すこし詳しく見ておきたいと思います。

並行記事がルカ福音書七章一〜一〇節にあります。物語の基本的な内容は同じですが、状況の説明はかなり違っています。病気で苦しんでいるのは、マタイでは百人隊長の《パイス》(子供、または若い奴隷)ですが、ルカでは《ドゥーロス》(奴隷)です。この物語のヨハネ版では「王の役人の息子《フィオス》」となっています(ヨハネ四・四六)。百人隊長の懇願の切実さからすると、僕よりも子供と見る方が自然でしょう。さらに、マタイでは百人隊長自身がイエスのもとに来て子供の癒しを懇願していますが、ルカではユダヤ人の長老たちを使いとしてイエスに頼んでいます。ユダヤ人の長老たちは、この百人隊長が会堂を建てるなどユダヤ人のためによくしてくれた人物であることを説明しています。また、「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という言葉も、マタイでは百人隊長自身が言っていますが、ルカでは使いの友人に言わせています。ここでもマタイが状況説明を簡略にする傾向が見られます。

 おそらく語録資料Qにイエスと百人隊長との権威についての対話(八〜一〇節)が伝えられていて、マタイとルカがそれを核としてそれぞれの目的に適した形で物語を形成したのではないかと推察されます。天の国での宴会についての語録(一一〜一二節)も、ルカではまったく別の場所(ルカ一三・二八〜三〇)に置かれていて、この物語には出てきません。その語録をここに置いたのはマタイの編集によります。
 百人隊長というのはローマの軍隊の中の地位ですから、必ずしもローマ人とは限りませんが異邦人であることには間違いありません。異邦人がその信仰を誉められるという点に、マタイの記事の要点があります。そして、この異邦人の信仰と対照して、ユダヤ人の不信仰が責められることになります。この記事はマタイ福音書で、ユダヤ人の不信仰が非難される最初の記事になります。では、その信仰によって異邦人が天の国の宴会にあずかるようになり、その信仰をもたないことによって本来神の民として選ばれているユダヤ人が外の暗闇に追い出されるという「信仰」とはどのような信仰なのでしょうか。
 百人隊長の懇願に対してイエスは、「このわたしが行って、お前の子供をいやすのか」と突き放したような答えをしておられます。それに対してこの百人隊長は、「主よ、(たしかに)わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」と言って、自分が資格のない者であることを認めています。それでも子供の病気という差し迫った状況から、イエスに縋らないではおれないのです。

 百人隊長の懇願に対するイエスの答えは、ほとんどの翻訳で「わたしが行って、いやしてあげよう」と訳されています。しかし、この訳ではイエスの好意を百人隊長が断っていることになり、やや不自然です。これを疑問文に訳して、ユダヤ人であるイエスが異邦人の家に入ることを拒絶している(当時ユダヤ人は汚れを受けないように異邦人の家に入ることを避けた)と理解する方が、この物語の信仰的な意義をいっそう明確にすると考えられます(エレミアスがそう理解すべきことを論証し、岩波版佐藤訳が疑問文に訳しています)。原文では「わたし」が強調され、「このわたしが」というような勢いになっています。このようなイエスの拒否は、もう一つの異邦人の治癒物語であるシリア・フェニキアの女の娘の場合にも見られます(マルコ七・二七、マタイ一五・二四〜二六)。両方の物語で、そのようなユダヤ教律法の垣根を乗り越える異邦人の信仰が物語られていると見ることができます。両方の物語で、イエスが病人のところまで行かず、遠くから言葉だけで癒されていることや異邦人の信仰が称揚されていることなど、同じ構成が見られますが、百人隊長の懇願に対するイエスの答えを拒否を示す疑問文と理解すれば、両者の並行構成は完全になります。

 百人隊長は、たしかに自分がイエスを家に迎え入れる立場にないことを認めた上で、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすればわたしの子供はいやされます」と答えます。彼は自分がイスラエルの民に属する者ではなく、イスラエルの民に約束された祝福を受ける資格のない者であることを認めます。しかし、彼はイエスを通して注がれる神の恵みはユダヤ人であろうと異邦人であろうと無条件に注がれるのだと信じ、同時にイエスの言葉にはどのような病気をも癒し、どのような悪霊も服従させる権威があることを信じたのです。ユダヤ人と異邦人の区別を超える無条件の恵みへの信仰を、彼はイエスの拒否を超えてイエスに縋る態度で示し、イエスが諸霊を支配する神的な権威をもつ方であることを「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすればわたしの子供はいやされます」という言葉で告白するのです。
 このイエスの権威への信仰を、彼は自分が行使する権威の体験から理解し告白します。彼はこう言っています。「わたしも権威の下にある下っ端の将校にすぎませんが、それでもわたしの下には兵卒がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。わたしですら、わたしに与えられている権威によって、わたしの言葉はわたしの権威の下にある者によって実行されるのです。まして、あなたは神から遣わされ権威を与えられた方。あなたがひと言葉を発して命令されるならば、病気は去り、子供は癒されます」。まことに軍人らしい告白です。この告白に対して、イエスが「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われた時刻に、この百人隊長の子供は癒されたのでした。
 この百人隊長の信仰、すなわち、イエスが神から遣わされた者として、受ける者の資格を問わず無条件に救いを与える神の恩恵を示し、病気や悪霊まで従わせる権威ある言葉を持っておられる方であると信じた信仰を、イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と称揚されます。そして、この信仰をもつ百人隊長をモデルとして、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人(異邦人)が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着くようになる」と預言されます。この語録をここに置いたことに、マタイが百人隊長の物語を異邦人伝道の根拠にしようとする意図がうかがえます。同時に、「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と、自分たちだけが御国の約束にあずかる者であると自負しながら、イエスをこのような方と信じないで拒否するユダヤ人会堂の不信仰が責められます。ここに、イエスに対するイスラエルの不信仰を責めるマタイ福音書の本筋が最初に顔を見せます。