市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第9講

第二節 荒野の誘惑

荒野の誘惑(4・1〜11)

 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、御霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。
  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
 『神があなたのために天使たちに命じると、
  あなたの足が石に打ち当たることのないように、
  天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
 『あなたの神である主を拝み、
  ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
(四・一〜一一)

荒野の誘惑 ― マタイの状況と視点(4・1〜2)

 イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった後、御霊に促されて荒野に入り、そこで四十日間サタンの試みをお受けになったという事実はマルコと同じですが、マタイの「誘惑物語」はサタンの誘惑の内容を三つ具体的に挙げている点で、マルコと大きく違います。マタイが語る三つの誘惑物語の意味を考える前に、マタイがどのような状況で、どのような視点からこの誘惑物語を書いたのかを見ましょう。

マタイがあげる三つの誘惑は、順序が違いますがルカにも同じ内容で出てきますので、「語録資料Q」から取られていると見られます。「語録資料Q」は、ユダヤ人同胞にイエスに従うように呼びかける信仰運動の中で、直弟子たちが伝えたイエスの語録を核として、ユダヤ戦争(六六〜七〇年)までの期間に漸次成長して現在の形をとるにいたったと見られていますが、この「誘惑物語」はその中でも最後期に(おそらくユダヤ戦争が勃発した後に)成立したと、多くの研究者は見ています。ユダヤ戦争の危機的状況の中で、故郷の地パレスチナを脱出しなければならなかったユダヤ人が、前途に待ち受けている荒野の中でイエスの弟子としてのアイデンティティを保持するための戦いを、イエスの体験に託して語ったものと考えられます。また、ユダヤ民族存亡がかかる危機的状況で、イエスはどのような意味でメシアであるのかというユダヤ教側からの厳しい問いかけに答えなければならないという一面もあったと見られます。この「語録資料Q」の担い手たちが直面した厳しい状況は、マタイとその読者が直面している状況でもありました。マタイが「語録資料Q」を用いるとき、それはマタイ自身が読者に語りかけたい言葉でもあったのです。

 この「誘惑物語」において、イエスはサタンの三つの誘惑を聖書の言葉を用いて退けておられますが、その聖書の言葉がみな申命記からの引用であることがまず注目されます。申命記は、エジプトを脱出したイスラエルが四十年間荒野を彷徨した後、ようやく約束の地を目の前にしたとき、モーセがイスラエルに改めて契約の言葉に聴き従うように求めた言葉です。その申命記においては、荒野四十年の彷徨は、イスラエルが御言に聴き従うかどうかを神が試された期間であるとされています。

 「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。(申命記八・一〜二)

 マタイは、イエスがユダヤの荒野で断食して祈り、そこで御霊の深い取り扱いを受けられたという伝承を、イスラエルが四十年荒野を彷徨した物語に重ねます。そうすることで、自分たちが地上の旅路で直面する誘惑と試練に、神の言葉に聴き従うことによって打ち勝つべきことを、イエスをモデルにして物語るのです。イエスご自身、その地上の生涯においてこのような誘惑にさらされ、父への従順によって打ち勝たれたのでした。
 イエスがユダヤの荒野におけるご自分の霊的体験を弟子たちに語られたのかどうか、また、語られたとすればどのように語られたのか、今では確認するすべはありません。しかし、イエスがその地上の生涯において様々な形で誘惑と試練を受けられたことは、一緒にいた弟子たちは見て知っています。イエスもこう言っておられます。

 「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒にいてくれた者たちである」。(ルカ二二・二八)

 以下に見るように、この三つの誘惑ないし試練の物語は、イエスがその生涯において体験され、一緒にいた弟子たちが見た誘惑・試練の要約でもあるのです。

イエスが荒野でサタンの誘惑に打ち勝たれた事実は、マルコが簡潔に伝えています(マルコ一・一二〜一三)。このことの意義については、「マルコ福音書講解」の当該箇所で詳しく書きましたので、ここではマタイに特有の問題に限定して講解します。なお、この段落は《ペイラスモス》について語っていますが、この語には「誘惑」と「試練」という二つの意味があります。この二つの意味については、「主の祈り」を講解した前著『マタイによる御国の福音』293頁を参照してください。

石をパンに変えよ(4・3〜4)

 イエスは「四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とあります。普通わたしたちは一日か二日も断食すれば耐え難い空腹感を覚えますので、この表現は不思議に思われます。しかし、断食は数日続けると、食事をしないことが自然になって、あまり空腹を感じなくなります。ところが、断食も四十日近くなると、飢餓状態になり回復不能な衰弱に陥ります。イエスはこの人間の限界ぎりぎりのところまで行かれたのです。
 まさにその時に「誘惑する者が来て」、イエスに言ったのです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。神の子であるならば、神の力をもってこれらの石をパンに変えて、自分の命を救ったらどうかという誘いです。ここで神の力は奇跡を行う力とされ、しかもそれを自分のために用いるように誘われているのです。この誘惑は最後の死の場面まで続いています。自分を逮捕しにきた軍勢を、イエスは父にお願いして十二軍団の天使で撃退することもできたのですが、神の御計画を成就するために、この誘いを退けられます(マタイ二六・五三〜五四)。十字架の上で苦しむイエスに向かって、「神の子なら」今十字架から降りて自分を救ってみよと、不信のユダヤ人たちは挑発しますが、イエスは黙して十字架の死を父の御旨と受けとめられます(マタイ二七・三九〜四四)。
 この誘惑に対して、イエスは申命記の言葉を用いてお答えになります。先に引用した申命記の後に、次の言葉が続きます。イエスはこの言葉に従うことによって、誘惑を退けられるのです。

 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。(申命記八・三)

 イエスは自分の命を救うことよりも、神の言葉に従うことを優先させられるのです。マタイは、このようなイエスを語ることによって、荒野に旅する主の民に同じ生き方と覚悟を促すのです。
 申命記はマナの奇跡はこのことを教えるためであったとしています。ところが、ユダヤ人たちはイエスに、モーセが荒野でイスラエルにマナを与えた以上の奇跡をしてみせるように要求したのです。イエスが神の子であるというのは、イエスがメシアであるという主張に他ならないのですが、メシアであるならば、イエスはモーセに相当するかモーセに勝る業をして見せよというのです。メシアの時代はモーセの時代を再現するはずなのです。もしイエスが石をパンに変えて限りなく民衆にパンを与えるならば、イエスは直ちにメシアであると歓呼されて、イスラエルの解放というメシアの偉大な業を成し遂げることができるではないかという誘惑です。イエスはこのような人間の欲求を満たすメシアの道を退け、神の御旨に従い受難の僕の道を歩まれるのです。ヨハネ福音書六章はこのことを劇的な構成で描いていますが、マタイ福音書は荒野の誘惑物語の一つとして、簡潔に語るのです。

神殿で(4・5〜7)

 次に「誘惑する者」(ここでは「悪魔」と呼ばれています)は「イエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」言います。「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。現実にはイエスは荒野におられます。しかし、イエスの内面に起こった誘惑と戦いを、マタイは実際の光景のように描きます。ここでも再び「神の子なら」ということが問題になっています。すなわち、もし自分がメシアであるというのであれば、神殿の屋根から飛び降りて無事であることを見せれば、民衆は信じるであろうというのです。当時のメシア待望においては、神殿がメシアの栄光が現される場所とされていました。悪魔は聖書の言葉(詩編九一編一二節)を引用して誘惑します。ファリサイ派の人たちや律法学者たちも、彼らのメシア神学からしばしばイエスにメシアのしるしを要求しています。実際、チウダという自称メシアは一撃でヨルダンの水を分けると豪語して民衆を集め、魔術師シモンは空中を飛んでみせると言って高い建物から飛び降りて墜死したという伝説があります。このような伝説は、当時のメシア待望の雰囲気をよく伝えています。
 イエスは再び申命記の言葉を用いて、この誘惑を退けられます。イエスが引用された言葉は申命記六章一六節の「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」から出ています。イスラエルは荒野を旅していたとき、水がないのでモーセと争い、モーセが本当に神から遣わされた者であるかどうかを問題にしました。モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言いますが、結局民の要求に応えて、ナイルを打った杖で岩を打ち、岩から出た水を与えます。それで、その地はマサ(試し)とメリバ(争い)と呼ばれるようになったというのです(出エジプト記一七章一〜七節)。こうして、イエスがメシアであるしるしを示すように要求するユダヤ教側からの攻撃を、マタイは聖書を用いて退けるのです。
 ここで主を試みるように誘惑する者も聖書の言葉を用いていることが注目されます。主を試みることも信仰も、聖書の言葉に従って行動しようとすることでは一見同じです。しかし、主を試みる行為は人間の側の欲求を神が満たすかどうかを試す行動であり、信仰は自己が無となって神の信実だけを根拠として行動することであって、まったく別物です。「主を試してはならない」という申命記の戒めは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして(すなわち自己を完全に放棄して)あなたの神、主を愛しなさい」という根本的な戒め(申命記六・五)のすぐ後に置かれていて、この戒めの裏側をなしています。

ただ主に仕えよ(4・8〜11)

 次に「悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて」、言います。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」。これもイエスが内面において戦い、その生涯を通して戦われた戦いを物語にしたものです。「国」《バシレイア》とは支配のことです。地上のすべての民と富を思うままに支配する権力を与えようというのです。これこそ英雄たちや王たちが切に求め、死力を尽くして戦い取ろうとしたものに他なりません。その権力を獲得するためには、他者を支配するむき出しの力を最高の原理として、すなわち神として拝まなければなりません。それは神に敵対する力を神として拝むことです。サタンを拝むことです。
 長年、異教諸帝国の強大な力の支配に虐げられてきたイスラエルは、それに打ち勝つ力をメシアに期待するようになっていました。メシアは世のすべての国を支配し、イスラエルをその支配にあずからせる者でなければならないのです。そのようなユダヤ教のメシア期待に、イエス(とイエスの弟子たちの群)はサタンの誘惑を直感し、厳しく退けるのです。実際、この時代のイスラエルは武力によるローマ支配転覆の誘惑に勝つことができず、滅亡を招くのです。
 イエスは三度申命記の言葉を用いてこの誘惑を撃退されます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。これまで(マタイの文の中で)「誘惑する者」とか「悪魔」と呼ばれてきた者は、ここでイエスの口によって「サタン」という名で呼ばれて、厳しく退けられます。この「サタンよ、退け」という激しい言葉は、受難の秘義を語り始められたイエスを諫めたペトロに向かって発せられています(マルコ八・三三、マタイ一六・二三)。「主の僕」として受難の道を歩むイエスは、ペトロのメシア期待の中にサタンの誘惑を見て、激しく退けられるのです。その激しさは、イエスの内面における戦いの激しさを垣間見させます。そして、この激しい言葉を受けたペトロ自身が語り伝えた伝承によって、この言葉が「荒野の誘惑」物語のイエスの口に置かれたと見られます。
 イエスが引用される聖書は申命記六章一三節です。この節も「シェマー」(申命記六・四〜五)のすぐ後ろに出てくる言葉で、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という根本的な戒めを言い直したものに他なりません。こうしてみると、三つの誘惑はみな、「あなたには、わたしの他に神があってはならない」という第一戒をめぐる戦いであることが分かります。
 イエスの場合は、「神の子なら」という誘惑の言葉が示唆しているように、イエスが父から受けられた啓示と召命とは別のメシアの道へと誘う誘惑でした。この誘惑を、イエスは第一戒の精神に固執することで克服されるのです。
 わたしたちも地上の歩みの中でたえず誘惑にさらされています。自己の欲望の充足とか、自分の栄光とか、他者を支配する力とかを神とする誘惑がつきまといます。この誘惑に対して、わたしたちはイエス・キリストにおいて現された神だけを神とし、この神に自己を委ねきることで勝利するのです。
 「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた」。

ユダヤの荒野におけるイエス

 「誘惑物語」がどのようにして成立したのか、またその内容と意義については多くの議論があります。しかし、イエスがユダヤの荒野で決定的な霊的体験をされて、「神の国」告知への召しを受けられたことは確かであると考えられます。共観福音書によると、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受け、ユダヤの荒野で霊的体験を深め、ヨハネが投獄された後、ガリラヤに退いて独自の福音告知活動を始められたことになります。ユダヤ地方でヨハネと一緒におられたのがどのくらいの期間であったのかは分かりませんが、ある程度の期間ユダヤ地方で洗礼者ヨハネの運動に参加しておられたことは十分推察できます。
 この期間のことについてはヨハネ福音書がやや詳しい伝承を伝えていますが、それによると、イエスもユダヤ地方でバプテスマを授ける運動を進めておられた時期があったようです(ヨハネ三・二二、四・一)。ヨハネ福音書は、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになった事実には触れず(従ってその時に聖霊が降ったことは語られていませんが、イエスに聖霊が降ったことは証言しています)、荒野で四十日間断食されたことも伝えていません。しかし、ヨハネの弟子たちが師に倣って断食したことは伝えられていますから(マルコ二・一八)、イエスがヨハネと一緒におられるときに断食されたことは自然なことです。
 この期間のことについてヨハネ福音書が伝えているもう一つの重要な情報は、イエスの最初の弟子が洗礼者ヨハネの弟子であったこと、さらにアンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルというような弟子団がイエスのユダヤでの活動期間に形成されていたことです(ヨハネ一・二五〜五一)。この事実は、イエスがユダヤで活動されていた期間に、洗礼者ヨハネとは異なる質の教えが始まっていたことを示しています。
 以上の伝承を総合しますと、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、洗礼者ヨハネのバプテスマ運動に身を投じておられた期間に、ユダヤの荒野で深く御霊の取り扱いを受け、父の啓示にあずかり、福音告知への召しをお受けになったと見てよいと考えられます。この見方は、イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったときに聖霊が降ったという可能性を排除するものではありませんが、事実はもうすこし複雑であったようです。共観福音書の語り方は、イエスの地上の出来事を用いて復活者キリストを宣べ伝えようとするマルコの福音告知の動機から、単純化され図式化されていると見られます。マタイ(とルカ)はマルコの図式化を引き継ぎながら、イエスがユダヤの荒野で断食し深い霊的体験をされたという伝承を、「語録資料Q」が伝える誘惑物語で内容を与え、召命を確認する体験としたと考えられます。