市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第5講

第二節 メシア・イエスの誕生

聖霊による誕生(1・18〜21)

 メシア・イエスの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
(一・一八〜一九 一部私訳)

 マタイが語る「誕生の次第」では、ルカと違い、その主人公はマリアではなくヨセフです。天使はヨセフに現れ、男の子の誕生を告知し、イエスという名を与えることを命じます。この段落(一・一八〜二五)の動詞の主語はいつもヨセフです。
 婚約はしているが、まだ婚礼をあげ自分の家に入って結婚関係を結ぶにいたっていないマリアが妊娠していることが分かったとき、ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心します。マリアの妊娠が「聖霊によって」であることは、後で天使のお告げで分かることです。一八節でそう語られているのは、読者がすでに知っていることをマタイが先取りして言及しているだけで、当のヨセフにはまだ分かっていません。ヨセフにとってマリアの妊娠は結婚を不可能にする悲しむべき大事件であったはずです。
 当時のユダヤ教社会では婚約関係は法的には夫婦として扱われますから、婚約中の女性が婚約相手以外の男性と性関係をもったことが明らかになれば姦通の罪に問われます。ヨセフは律法を遵守するという意味でも「正しい人」でしたが、相手への思いやりが深いという意味でも「正しい人」であったので、マリアを法の裁きにさらすことを望まず、ひそかに離縁することで問題を解決しようとします(独身女性が妊娠出産しても姦通罪にはなりません)。婚約を解消するにも、証人の前で離縁状を渡す必要がありますが、おそらく理由を明示しないで離縁状を渡すという形で、「ひそかに」離縁することを決心します。

 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。(一・二〇〜二一)

 旧約聖書以来、とくに捕囚後のユダヤ教時代では、神の特別の啓示を人間に伝えるために、神の「御使い」が登場します。この時代のユダヤ教を彩る黙示文学では、いつも天使が天界の奥義と来るべき時代の秘密を見者に伝えます。メシアたるイエスの誕生物語も、天使の登場と告知によって、神の計画の進行が物語られます(一・二〇、二・一三、二・一九)。ヨセフがマリアを離縁すると決意したにもかかわらず、その決意を翻してマリアを妻として迎え入れたのは、夢に現れた天使のお告げによるとされます。こうして、すべてが神の計画によるものであることが強調されます。
 ヨセフは天使から「ダビデの子ヨセフ」と呼びかけられています。この呼びかけは、天使のお告げが生まれる子をダビデの家系に入れるための神の計画であることを、あらためて強調しています。天使は、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったものであるという秘密をヨセフに明らかして、ヨセフに恐れることなく、マリアを妻として迎え入れるように、すなわち、生まれる子を自分の子として受け入れるように促します。こうして、男性の関与なしに聖霊によって懐胎した子が同時にダビデの子であるという矛盾が、天使のお告げで解決されます。ヨセフとマリアは、人間的な悲劇の重荷に耐えて、神の計画を実現する器とされているのです。
 同時に天使はヨセフに、生まれる子にイエスという名をつけるように命じます。この物語は、イエスという名が人間の親の好みでつけられた名ではなく、神がその人物の使命を表現するために与えられた名であるという信仰を現しています。しかも、マタイはその名に、「自分の民を罪から救うからである」という説明を加えることで、自分が書く福音書の主人公の本質を一言で語りきっているのです。
 「イエス」という名は、モーセの後継者として民を約束の地に導き入れたヨシュアと同じ名です。この名は、ヘブライ語では「ヤハウェは救い」という意味をもつとされ、イスラエルの男子には珍しくない名前でした。マタイはイエスの名を「救い主」を意味する名としているのですが、同時にその救いを「罪からの救い」とすることで、これから描こうとしているメシアの姿に標題をつけているのです。マタイが描くメシアは「民を罪から救う方」なのです。
 マタイはイエスが「ダビデの子」であることを強調しています。これは、ユダヤ人にイエスをメシアとして示すためには必要なことでした。しかし、マタイはユダヤ人が期待する「ダビデの子・メシア」とはまったく違ったメシアを示すのです。当時のユダヤ人は、イスラエルの民を異教徒の支配から解放し、世界に自分たちの神の支配を確立するダビデのような人物を待望していたのでした。それに対して、マタイは「自分の民を罪から救う」メシアを提示するのです。ユダヤ人は律法を守る自分たちこそ義人であって、メシアは律法をもたない罪人である異邦人の支配から義人であるユダヤ人を救い出してくれる人物であると信じていました。ところが、マタイが提示する「ダビデの子」メシアは、罪に陥っている自分の民を罪の支配から救い出して、神との本来の交わりに回復してくださる方なのです。しかも、「自分の民」には異邦人も含まれるのです。マタイのメシア像は、ユダヤ人の誇りを打ち砕く質のものです。

インマヌエル(1・22〜25)

 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(一・二二〜二三)

 マタイは、イエスという名に「自分の民を罪から救う方」という姿を見るだけでなく、この方の本質を示すもう一つの名をあげます。それは、預言者イザヤの書から取られた「インマヌエル」という名です。
 マタイが引用する預言者イザヤ(七・一四)の予言は、シリアと同盟した北王国イスラエルが攻めてくると怯える南王国のアハズ王に、主だけに信頼するように求めたイザヤの預言(イザヤ七・一〜十六)の中の一節です。その中で、主御自身が与えられるしるしとして一人の男の子の誕生が語られます。この予言の新共同訳が「おとめ」と訳している語は、ヘブライ語聖書では《アルマー》という語で、これは既婚と未婚を問わず結婚適齢期の女性を指します。未婚女性を指す《ベツラー》ではないので、他のギリシャ語訳聖書は「若い女」と訳していますが、七十人訳ギリシャ語聖書は処女という意味をも含む《パルテノス》という訳語を用いていますので、マタイは自分が用いる処女懐妊の伝承の聖書証言に最適だとしてこの訳を使ったと見られます。
 マタイがこのイザヤの預言を引用するさい、重点は「処女」が子を産むという予言としてではなく、その子が「インマヌエル」と呼ばれることにあります。マタイによれば、たしかにイエスはまだヨセフと関係していないマリアから生まれたのですが、そのようにして生まれたイエスは、イザヤが予言したとおり、「インマヌエル」の現実、すなわち「神が我々と共におられる」という現実をもたらす方となったことが強調されているのです。
 マタイはイエスの生涯を物語るさいに、この「インマヌエル」の視点 すなわち、イエスは神が我々人間と共にいてくださる現実をもたらされた方であるという視点から、イエスの働きを描くのです。イエスが語られる言葉は、イエスと共におられる神がイエスを通して人間に語られる言葉であり、イエスがなされる業は、神がイエスを通してなされる業なのです。「インマヌエル」は、マタイがイエスの像につけたもう一つの標題です。
 ところで、マタイ福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という復活者イエスの言葉で終わっています(二八・二〇)。復活されたイエスが自分たちと共にいてくださり、自分たちの中に働いてくださっているというのが、最初期の弟子たちの共通の信仰内容でした。彼らにとって、復活者イエスが共にいてくださるとは、「神が我々と共におられる」ことに他ならなかったのです。マタイはこの現実の中から語り出すのです。「インマヌエル」であるイエスが、復活者として自分たちと共にいてくださる、これが初期の信徒の信仰内容であり、福音の核心です。こうして、福音書の前置きともいうべき誕生物語の中で掲げられたイエスの名「インマヌエル」は、福音書の最後の言葉と対応して「囲い込み」を形成し、この福音書全体の主題を提示することになります。すなわち、マタイ福音書は、今わたしたちと共にいますイエス・キリストを物語る書であり、それによって人間の中に現臨される神を示す書である、と言えます。これは他の福音書も同じですが、マタイはそれを「インマヌエル」という名を用いて表現しているのです。

 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。(一・二四〜二五)

 ルカの誕生物語とは違い、マタイではイエス誕生の光景は一切語られず、ヨセフの従順が強調されています。ヨセフは天使のお告げに従い、マリアを妻として迎え入れますが、子の誕生までは関係をもたなかったことが改めて言及され、イエスの誕生にヨセフが関わっていないことが強調されます。イエス誕生の出来事は語られず、ヨセフが天使の命令に従って、誕生の後「イエス」と名付けたことだけが語られます。

「男の子が生まれるまで」の解釈は古代教会以来はげしく争われてきました。カトリック教会は、マリアの永遠の処女性を擁護するために、男の子が生まれた後も引き続いてヨセフはマリアと関係しなかったと解釈してきました。「まで」はその後の状況の変化を必ずしも要求しないという言語上の理由です。それに対して古代教会以来一部の人たち、とくにプロテスタント側では、男の子が生まれるまでは関係しなかったが、その後は普通の夫婦関係をもち、イエスの弟や妹たちが生まれたと解釈してきました。カトリックの解釈では、イエスに弟妹はありえないのですから、マルコ福音書六章三節の「兄弟たち、姉妹たち」は「従兄弟、従姉妹」を意味するなどと、かなり無理な説明がされてきました。もともとマタイはイエスの誕生にヨセフが関与していないことを主張しているだけで、イエス誕生以後のことには関心をもっていないのですから、それ以後もマリアは処女であったというような無理な解釈はしなくてもよいはずです。マリアの永遠の処女性という思想は、マリアの無原罪の教理とともに、ずっと後代のカトリック教会の思想であって、新約聖書の解釈に持ち込むべきではありません。

「処女降誕」について

 新約聖書の中でも、パウロ書簡、マルコ福音書、ヨハネ福音書は誕生物語がなく、イエスの処女降誕も主張していません。詳しい誕生物語をもち、その中でイエスの処女マリアからの誕生を語っているのは、マタイ福音書とルカ福音書だけです。しかも、マタイ福音書とルカ福音書では誕生物語はかなり大きく異なっています。この事実は、初期においてはイエスの誕生に関する伝承はごく一部の地域またはグループに個々に伝えられていて、このような伝承を知らない地域またはグループも多かったことを示しています。初期には、イエスがどのように生まれたかには関心がなく、当然普通の誕生であったと考えていた人たちも多かったわけです。イエスの誕生をどう考えるかは、イエスをキリストと信じる信仰に関係がなかったのです。
 イエスの誕生に関する伝承がどのように伝えられ、マタイとルカの誕生物語に用いられるようになったのか、その経過は明らかではありません。母のマリアを含むイエスの家族は最初期のエルサレム集会に加わっていますし(使徒一・一四)、とくに弟のヤコブは「義人」として内外の信望あつく、後にエルサレム教団を代表する指導者になっています。この家族から何らかの素材が出て、ユダヤ人信徒のグループで伝承が形成された可能性が考えられます。最初期のエルサレム教団で、イエスの家族と近親者、とくに母マリアが特別な立場にあったことは、イエスを生んだ母親への賛嘆をたしなめるような伝承(ルカ一一・二七〜二八)があることからもうかがえます。
 周囲のユダヤ人がイエスの出生を問題視していたことは、イエスが「マリアの子」と呼ばれたことからもうかがえます(マルコ六・三)。ユダヤ人社会では、「ヨセフの子イエス」と父親の名で呼ばれるのが普通です(父親がすでに亡くなっていても)。「マリアの子」という呼び方は、父親がわからない出生であるという疑念を表す呼び方です。イエスに反対する者たちは、イエスの出生をマリアの私通によるものと嘲笑し、イエスを信じる者たちはそれを「処女懐胎」と主張したのです。
 イエスの出生に関する秘密は、マリアまたは家族から出て、ユダヤ人キリスト者の間で伝承を形成し、マタイとルカによって美しい誕生物語に書きとどめられます。その過程はもはや解明することはできませんが、その伝承を担った人たちも書き記した人たちもみな、イエスを復活者キリストとして信じ宣べ伝える人たちですから、誕生物語が十字架と復活の福音の刻印を強く受けることは避けられません。むしろ、マタイとルカはこの福音を提示するために誕生物語を書いたと言えます。いまは個々の細い表現までに立ち入ることはできませんから、重要な数点に絞って見ておきましょう。
 まず第一に、イエスの誕生が聖書の予言を成就する出来事であることが強調されます。聖書の成就という福音の基本的な主張が誕生物語を形成します。その刻印は、ユダヤ人の間で成立したと見られるマタイ福音書にとくに強く現れています。すでに冒頭で系図がそのことを主張していますが、マタイは誕生物語で繰り返し、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という句を用います(一・二二、二・五、二・一五、二・一七、二・二三)。
 第二に、他の多くの点では大いに異なっているマタイとルカですが、イエスの誕生が聖霊によるものであることを強調するのは共通しています。この聖霊による受胎・誕生物語は、イエスが聖霊によって死から復活して神の子とされたという福音の告知(ローマ一・四)を反映しているからです。マタイもルカも共通してマリアが処女であったことを強調するのは、マリアの懐胎が人間の男性との通常の性関係によるものではなく、神の霊の働きによるものであることを示すためです。神の子は聖霊によって生まれるのです。
 ギリシャ・ローマ世界には、神々が人間と交わって子が生まれるという神話が多くありました。たとえばギリシャ神話で、天を司る最高神ゼウスは黄金の雨に変身して、青銅の部屋に閉じこめられているダナエを訪れ交わります。こうして生まれた子が英雄ペルセウスです。旧約聖書にもさらに古い神話の痕跡として、神の子らが地上の娘と交わりネフィリームと呼ばれる英雄たちを生んだという記事があります(創世記六・一〜四)。もちろん、新約時代のユダヤ教においては、神が人間の女性と交わって子を産むなどありえないことです。あくまで神の霊の創造的な働きの結果として、男性との関わりなしにマリアは懐胎するのです。処女懐胎は、復活信仰と同じく創造信仰の一局面です。後に処女降誕の記事は、ギリシャ・ローマ世界の人々にイエスが神の子であると説得する材料として用いられますが、本来は復活信仰の一部として、誕生伝承を素材として福音を告知するものであったことに留意すべきです。
 第三に、誕生物語はイエスの受難の生涯を先取りして、神の子の受難を物語ります。とくにマタイでは、三博士の礼拝に象徴されるように、イエスは世界の主として全世界に崇められますが、ヘロデ王の迫害に見られるように、イエスは同国人から迫害され命を狙われるようになることが予告されます。ルカもシメオンの予言という形で生まれた子の受難を予告します。このような受難予告は、誕生物語が福音の一部として形成されたことを示しています。
 第四に、誕生物語は福音に対する人々の対応を描いています。マタイではヨセフに代表される信じる者の従順、三博士に代表される世界の讃美、ヘロデに代表される信じない者たちの反抗が描かれます。ルカでは神が与えてくださった救いへの讃美の合唱が物語全体に響いています。
 このように誕生物語は、イエスの誕生について事実あったことを記録して報告する伝記とか歴史ではなく、神の子の世界への誕生を物語ることで福音を告知するものですから、わたしたちもそのようなものとして聴かなければなりません。このように聴くとき、処女懐胎というようなことは実際にあったのかどうか、そのようなことは可能かどうかなどは、もはや問題になりません。聖霊によってイエスを死者の中から復活させて神の子とされた方が、同じ聖霊によって処女マリアから神の子イエスをこの世界に誕生させられたのです。処女降誕は復活信仰の中に含まれます。そして両方とも万物を創造された神が、私たちの救いのために成し遂げてくださった大いなる働き、力ある業なのです。