市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第4講

第一章 誕生物語の福音

       マタイ福音書 一〜二章 

はじめに

 マタイ福音書は、イエスの働きと生涯の出来事を物語ることによって、メシア・キリストとしてのイエスに現された神の救いを宣べ伝えようとしています。したがって、そのような内容と性格において、マルコ福音書と基本的に同じです。マルコ福音書については、すでに詳しくその全体を講解していますので、この「マタイによる福音書」では、マルコ福音書にない記事とか、マルコ福音書と違うマタイの特色を取り上げて、マタイが語る福音を聴いていきたいと考えています。
 最初に、マタイが福音書のプロローグ(序説)としている「誕生物語」(一〜二章)を取り上げます。この「誕生物語」はマタイ独自の記事で、イエスの系図、誕生、幼児期を物語ることによって伝記としての体裁を整えると同時に、福音書全体で語ろうとする主題を予告する信号を発しています。「誕生物語」は、この福音書全体の基調を提示しているという意味で重要です。



第一節 メシア・イエスの系図

系図(1・1〜17)

 アブラハムの子でありダビデの子であるメシア・イエスの系図。 (一・一 私訳)

 マタイはその福音書を「メシア・イエスの系図」という書き出しの言葉で始めます。ここで「系図」と訳されている語は、ギリシャ語原典では「起源の書」という表現が用いられています。これは、旧約聖書に親しんでいるユダヤ人読者には直ちに創世記二章四節の「天と地の起源の書」とか、創世記五章一節の「人間たちの起源の書」(いずれも七十人訳ギリシャ語聖書の直訳)を思い起こさせる表現です。実際には直後に系図が来るのですから、マタイはこの表現で「系図」を指していると見てよいのですが、そのような表現を用いることによって、これから物語ろうとするメシア・イエスの物語は、天地創造や人間の歴史の物語に対応する重さをもつものであることを、マタイは読者に印象づけています。
 マタイはメシア・イエスの物語を、その方の起源(由来)を示すことから初めます。まず、その方は「ダビデの子」であること、すなわちダビデの家系に由来する方であることが示されます。それは、イスラエルを救うメシアはダビデの家系から出ると、広くユダヤ人の間で信じられていたので、ユダヤ人読者にイエスが約束されたメシアであることを示すためです。イエスが「ダビデの子」であることは、ごく初期のユダヤ人キリスト信者の間で重要視されていました。そのことは、パウロがローマ書の冒頭(一・二〜四)に引用している初期のキリスト告知定式からもわかります。そこでは、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と宣言されています。
 続いてメシア・イエスが「アブラハムの子」であることが加えられています(原文ではダビデの子の後)。ユダヤ人はみなアブラハムの子孫ですから、イエスが「アブラハムの子」であることをわざわざ言及するのはどういう意味があるのか、さまざまな見方があります。ユダヤ教において、アブラハムは偶像礼拝から唯一神礼拝に回心した改宗者の原型とされていましたから、異邦人伝道を志向するマタイがイエスを「アブラハムの子」として提示したのかもしれません。しかし、やはりイエスがアブラハムに与えられた約束を実現する方であるという主張をここに見るのがもっとも自然な見方でしょう。神はアブラハムを選び、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記一二・一〜三)。マタイはこの系図によって、イエス・キリストこそこの約束を成就する方であると主張しているのです。
 新約聖書は大部分ユダヤ人によって書かれていますから、イエスをユダヤ教最大の預言者モーセとの対比で語ることが多いのですが(マタイもその一人です)、その中でパウロはイエス・キリストを(モーセではなく)もっぱらアブラハムに対応する方として語っています(ガラテヤ書三章)。マタイはパウロとは独立に、メシア・イエスを「アブラハムの子」として示すことで、福音がユダヤ人だけでなく、異邦諸民族すべてに与えられていることを示唆しているのです。こうして福音書の最初の節は、「あなたがたは行って、すべての民(異邦諸民族)をわたしの弟子としなさい」という最後の節と呼応することになります。
 マタイは福音書全体でいつも「イエス」という名を用いますが、著作の標題的な位置を占める冒頭の節では「メシア・イエス」という名称を用いています(この呼び方はマルコ福音書の冒頭と同じです)。この名称は一章一八節でもう一度用いられるだけで、他では用いられません。「イエス・キリスト」という名は、マタイの時代にはすでに一人の人を指す固有名詞となっていましたが、ここでは《クリストス》というギリシア語はメシアとか救済者という地位を示す称号としての意味を保持していると見られます。すなわち、マタイは「メシア(救済者)としてのイエス」の「起源の書」(一節)とか「誕生の次第」(一八節)を語るのです。《クリストス》がそのような意味で用いられていることは、一六節で「メシアと呼ばれるイエス」という表現が出てくることからもうかがわれます。

 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、・・・・・・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからメシアまでが十四代である。
(一・二〜一七 一部私訳、中間の本文省略)

 マタイはアブラハムからヨセフに至る系図を掲げます。この系図はメシア・イエスの出現をイスラエルの歴史としっかり結びつけ、旧約と新約の連結器の役割を果たしています。この系図は、アブラハム以来、神がイスラエルの歴史の中に働いてこられた流れの到達点として、イエスがお生まれになったことを宣言するのです。逆に言えば、アブラハムから始まるイスラエル二千年の歴史は、メシア・イエスの出現によってその意義を全うするのであると宣言しているのです。
 詳しく見ると、この系図には多くの問題点があります。今は個々の問題点を考察するゆとりはないので、マタイの福音提示を理解するのに有益と思われる数点に絞って考察します。

 1 この系図はヨセフの系図ですが、ヨセフはイエスの誕生に直接関与していないことが明言されています(一・一八)。それにもかかわらず、ヨセフの系図が掲げられているのは、ユダヤ人社会では男性だけが系図を構成するからです。イエスが「ダビデの子」であるためには、イエスの父親がダビデの家系でなければならないのです。ところで、イエスがヨセフの実子でなくても、ヨセフが子と認知すれば、イエスはヨセフの家系を継ぐ者として、ダビデの家の出身となります。それで、ヨセフとの関係なしでマリアから生まれたイエスが、ヨセフの家系であるダビデ家の出身であることを示すために、マタイは次の段落(一八〜二五節)で天使のお告げによってヨセフがイエスを正式に子として受け入れたことを物語るのです。系図(二〜一七節)と誕生の次第(一八〜二五節)は一体として、メシアであるイエスの「血統証書」を構成します。

 2 この系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という四人の女性の名があげられています。系図に子を産んだ女性の名があげられるのは異例のことです。なぜこの四人の女性の名があげられているのか、その理由とか目的について様々な見方があります。四人の婚姻関係はみな問題をはらむものであったので、そういう婚姻関係からも神はメシアの先祖になる人物を得られることを示して、問題視されていたマリアの場合を擁護しているという見方もあります。しかし、この見方は、ユダヤ教では四人の女性が必ずしも非難されていないので困難です。おそらく、四人とも外国人女性であることが共通していますから(ウリヤの妻は外国人であるとは明言されていませんが、「ヘテ人ウリヤ」の妻として推定できます)、メシアの家系に外国人の血が入っていることを示して、神はイスラエル以外の異邦人をも顧みる神であることを語っていると見るほうが自然でしょう。この見方は、異邦人伝道を志向するマタイの意図にも合致します。

 3 マタイは、アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロンへの移住まで、バビロンへ移されてからメシアまでという三つの区分を、それぞれ聖数七の倍の一四代という数でまとめています(一七節)。この数え方には不正確な点があって、必ずしも事実と一致しません。同一人物を重複して数えたり、逆に違う人物を一人に数えたり、王名が三代も欠落しているというような問題点があります。しかし、わたしたちはここに年代記的な正確さを求めるべきではなく、著者の神学的意図を探るべきです。当時ユダヤ教の一部には、歴史の中の神の働きを年数を区切って物語る風潮があり、そのさい、七年(週年)を単位として数える傾向がありました(たとえば「ヨベル書」)。マタイは、イスラエルの歴史の始まりであるアブラハムからダビデ王国の成立までを七の倍の一四代と数え、ダビデ王国がバビロン捕囚で滅びるまでを同じ一四代とすることで、次の出来事、すなわちダビデ王朝の回復を担うと約束されたメシアが到来するのも一四代後であると示唆した上で、捕囚から一四代目のイエスの誕生を語ります。そうすることで、イエスの誕生がまさにメシアの到来にふさわしい神の時であることを告げているのです。

 4 マタイは彼の福音書全体を通していつも「イエス」という名を用いていますが、一章の系図と誕生を語るところで、「メシア・イエス」という称号付きの名を二回(一節と一八節)、「メシア」という称号を二回(一六節と一七節)用いています。先に述べたように、ここでの《クリストス》はメシア(神から油注がれた者)とか救済者の称号としての意味を保持しているので、原語のギリシャ語《クリストス》を「キリスト」と訳すか「メシア」と訳すかが問題となります。マタイの時代でも現代でも、「イエス・キリスト」という名は一体として用いられていますので、一節と一八節ではこう訳すのも理由がありますが、一六節と一七節ではメシアとしての称号ですから、「メシア」と訳すか、「キリスト」とするにしても個人名ではなく称号であることを説明する必要があると思われます。わたしは、一貫して「メシア」と訳す方が、マタイの言おうとするところをよく伝えることができると思います。

最新の英訳聖書NRSVは四箇所とも「メシア」と訳しています(一節と一八節では Jesus the Messiah)。新共同訳は一六節だけを「メシア」と訳していますが、そうするのであれば少なくとも一七節は「メシア」と訳さないと、一貫性を欠くと思います。《クリストス》の訳し方については、拙著『マルコ福音書講解T』330頁を参照してください。