市川喜一著作集 > 第7巻 マタイによるメシア・イエスの物語 > 第3講

第三節 マタイ福音書の構成

マタイ福音書の区分について

 マタイ福音書の区分については、さまざまな提案がなされています。それぞれ、福音書解釈の立場を反映する理論から出た見方です。ここでは区分に関する諸説を紹介したり批判したりする余裕はありませんので、本講解の立場を簡単に説明するにとどめます。
 マタイはイエスの語録を五つの大きな説話集にまとめていることは広く認められています。それで、マタイはモーセ五書に倣って、神の国の新しい律法を五つの説話集にまとめて福音書を構成したという見方が、古くから行われていました。しかし、この見方は、受難物語を位置づけることができないなどの難点を批判されてきました。
 最初に本章の第一節「マタイ福音書の成立」で見ましたように、マタイはマルコ福音書の物語を枠とし、「語録資料Q」とマルコ福音書の説話部分などを用いて、イエスの教えの言葉を伝えることを重視した福音書を構成しました。その教えの言葉が、かなり明確に五つの説話集にまとめられているのですから、この五つの説話集は福音書を構成する主要な原理になっていることは認めなければなりません。マタイは十字架の受難にいたるメシア・イエスの生涯の物語の中に、この五つの説話集を配置して、特色ある福音書を構成しました。マタイは、(マルコにはない)誕生物語(一〜二章)を序文として置き、その後に物語と説話(説教集)を交互に配して、受難物語(二六〜二八章)のクライマックスに至るという形で福音書を構成したと見られます。それで、マタイ福音書は誕生物語と受難物語の間に(両者は大きな「囲い込み」を形成しています)、物語と説話からなる五つのブロックがあると見てよいでしょう。
 マタイによるイエスの教えのまとめ(説話集)は比較的明確で、次の五つになります。

 一 五〜七章    山上の説教
 二 一〇章     弟子の派遣にあたっての訓戒
 三 一三章     たとえ集
 四 一八章     集会での振舞いについて
 五 二四〜二五章  終末についての教え

 この五つの説教集は、どれもみな「イエスはこれらの言葉を語り終えると」という意味の定型文で締めくくられているので(七・二八、一一・一、一三・五三、一九・一、二六・一)、そのまとまりを見落とすことはないでしょう。この五つの説話集を区分の原理として、誕生物語と受難物語に囲まれた本体部分を区分しますと、次の五つのブロックに区分することができます。各ブロックは、メシア・イエスの働きと出来事を物語る部分があり、その後に一つの主題にまとめられた説話集が置かれています。説話集だけでなく、それぞれの物語部分もある主題の下に緊密に構成されています。それで、それぞれの物語部分と説話部分に標題をつけることができます。

序 説         誕生物語          一〜二章
 
 第一ブロック  物語  メシア・イエスの出現    三〜四章
  説話  御国の福音(山上の説教)  五〜七章
 
 第二ブロック  物語  民を癒すメシア       八〜九章
説話  弟子の派遣にあたっての訓戒 一〇章
 
 第三ブロック  物語  拒否されるメシア      一一〜一二章
説話  天の国のたとえ 一三章
 
 第四ブロック  物語  メシアの民の出現      一四〜一七章
説話  集会での振舞いについて   一八章
 
 第五ブロック  物語  エルサレムに現れるメシア  一九〜二三章
説話  終末についての教え     二四〜二五章
 
 終 局 受難物語          二六〜二八章

マタイによる物語の構成

 この区分に従って、マタイがメシア・イエスの物語をどのように構成しているのか、その概略を初めに見ておきましょう。

序説 誕生物語(一〜二章)
 マタイは、メシア・イエスの物語を伝記としてもいっそう完全な形となるように、最初にマルコにはなかったイエスの誕生物語を置きます。この部分(一〜二章)は、イエス誕生の次第を物語るだけでなく、マタイがこの物語全体で宣べ伝えたい告知内容を予示する信号(シグナル)が多く含まれており、全体への序説とか導入という役割を果たしています。先に見たように、最初に置かれた系図からすでに、イエスがダビデの子孫であることを示すことによって、イエスこそイスラエルの歴史の中で約束されてきたメシアであることが、強烈に主張されています。イエスがまだ処女であるマリアから生まれたこと、異邦の賢人たちがイスラエルの王として生まれたイエスを礼拝するために星に導かれて遠くの地から来たこと、ヘロデ王がメシアとしての王の誕生に不安を感じてこの方を抹殺しようとしたこと、難を避けてエジプトに逃れたこと、エジプトから帰ってガリラヤのナザレに定住したこと、そのすべての出来事にあらかじめ天使のお告げがあったことなど、イエスの誕生に関わるすべての出来事が聖書の成就であるとして、聖書を数多く引用しながら緊密に構成されています。このことによって、誕生の物語は聖書を成就するメシアの誕生としての威厳をもつ物語になっています。
第一ブロック メシア・イエスの出現(三〜四章)と「御国の福音」(五〜七章)
 次にイエスがメシアとしてイスラエルに現れる次第が物語られます(三〜四章)。この部分はマルコ福音書に従い、洗礼者ヨハネのバプテスマ活動から始まります。聖霊によってバプテスマする方としてメシアを告知することではマルコを継承していますが、マタイは「語録資料Q」から取られた素材を用いて、洗礼者ヨハネの実際の告知活動の姿をかなり詳しく伝えています。さらに、洗礼者ヨハネからバプテスマをお受けになった後、荒野で断食して祈られた時期のことも、「語録資料Q」からの語録を用いて、イエスがメシアとしてサタンに勝利された出来事であるという視点から構成されています。そして、マルコと同じく、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞かれたとき、ガリラヤに退き、ガリラヤで「悔い改めよ。天の国は近づいた」と天の国の福音を宣べ伝え始められたとされています。ガリラヤでは、最初にペトロら四人の漁師が弟子として召されたことが語られた後、マルコではすぐにイエスの癒しの働きが続きますが、マタイはそこで、イエスの福音告知活動を「御国の福音を宣べ伝える」ことと「あらゆる病気や患いをいやす」働きの二つに要約する記事を置きます。その上で、イエスが宣べ伝えられた「御国の福音」を五〜七章にまとめ、いやしの働きを八〜九章にまとめます。
 イスラエルに現れたメシア・イエスは、イスラエルの民に山の上で「御国の福音」を告知されます。それが五〜七章にまとめられている大きな語録集です。マタイは、自分たちの主要な伝承である「語録資料Q」を主な資料とし、その他の独自の資料からイエスの語録を集めて、ユダヤ教律法学者としての視点から、彼独特の説教集を構成しました。この部分は古来「山上の垂訓」とか「山上の説教」と呼ばれて、イエスの教えの典型的な集成とされてきました。そのさい、イエスの教えは高度な内面倫理と理解されることが多かったのですが、イエスは決して倫理を説かれたのではなく、恩恵の支配の到来を告知されたのであることを見逃してはなりません。この部分はマタイ福音書の中心の位置を占め、それをどう理解するかはマタイ福音書の理解だけでなく、福音そのものの理解にとって極めて重要な問題ですから、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』で詳しく取り扱いました。それで、本書ではこの部分は省略されています。本書を手にされる方は、前著によってこの部分をしっかり理解して、メシア・イエスの物語の中に位置づけてくださるようお願いします。

第二ブロック 民を癒すメシア(八〜九章)と弟子の派遣に当たっての訓戒(一〇章)
 次に、教えと並んでイエスの福音告知の働きのもう一本の柱である「あらゆる病気や患いをいやす」働きが八〜九章にまとめられます。そしてその後に、同じように御国の福音告知といやしの働きのために派遣される弟子たちへの訓戒の言葉が一〇章にまとめられ、この八〜一〇章が第二のブロックを構成します。
 第二ブロックの物語部分(八〜九章)で奇跡物語を連ねることで、マタイは神から力を注がれたメシアとしてのイエスの働きを描きます。そして、その奇跡物語の間に、同じ働きを継承するように派遣されることになる弟子たちの召命物語を配置します。
 ここに置かれている奇跡物語の多く(らい病人、ペトロの姑、湖の嵐、ガダラの悪霊、中風の人、会堂司の娘と長血の女)はマルコ福音書から取られていますが、順序は異なり、記事も簡略になっています。他に「語録資料Q」からと見られるもの(百卒長の僕)とマタイ独自の記事(二人の盲人、口の利けない人)もあります。奇跡物語の数え方については、三つの奇跡物語が一組にされて、三組が二つの召命記事(八・一八〜二二と九・九〜一七)によって隔てられて配置されていると見ることもできますし、会堂司の娘と長血の女の物語を別に数えて十の奇跡物語があるとして、マタイはこれを出エジプトにさいしてモーセが行った十の「力あるわざ」に対応するメシアの「しるし」としていると見ることもできます。
 この部分の最後に、もう一度「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という、イエスの働きを要約する一文が置かれ(九・三五)、四章二三節の同じ文とでイエスの働きを伝える部分を囲い込んでいます。その上で、「飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆のために、同じ働きをするように弟子を送り出されます。
 最後に、ご自身と同じ御国の告知と病人の癒しのために弟子たちを派遣されるにさいして弟子たちに与えられた訓戒の語録が一〇章にまとめられています。この語録集は「派遣説教」と呼ばれることもあります。イエスはご自分がされている働きと別のことを弟子にさせようとはされないのですから、弟子たちに与えられた訓戒の言葉は、イエスの福音告知の質を示すものとして重要です。「派遣説教」は、違った視点からですが、イエスの「神の国」告知とはどういう質の運動であったのかを示す点で、「山上の説教」と並んで重要な意味を持っています。

第三ブロック 拒否されるメシア(一一〜一二章)と天の国のたとえ(一三章)
 第二のブロック(八〜一〇章)でイスラエルにおけるメシアの癒しの働きと、同じ働きのために派遣される弟子たちへのイエスの言葉をまとめたマタイは、続く第三のブロック(一一〜一三章)で、イエスとイスラエルの間に高まる対立と緊張を物語ります。その前半の物語の部分(一一〜一二章)で、イエスに対するイスラエルの拒否が語られ、後半の説話の部分(一三章)で、この拒否に対するイエスの応答がたとえのかたちでまとめられます。このブロックには、最近ユダヤ教の会堂と訣別しなければならなかったマタイの集会の痛みに満ちた体験が反映しています。
 物語の部分(一一〜一二章)は、洗礼者ヨハネとイエスを共に拒否したイスラエルへの弾劾、多くの奇跡を行われたにもかかわらずイエスを受け入れなかったガリラヤの町々への非難、安息日問題や悪霊追放に関する論争など、ユダヤ教会堂との対立が厳しくなっていく様子が描かれます。そして、イスラエルから拒否されたメシア・イエスがイスラエルから立ち去っていかれる姿が、イザヤの預言の成就として意義づけられます(一二・一五〜二一)。
 その後にイエスのたとえ集(一三章)が置かれます。ファリサイ派律法学者たちとの論争の後に「たとえ集」を置いているマルコに従い、マタイも論争物語の後に「たとえ集」を置いています。イエスのたとえは本来「神の国」の秘義を民衆の日常生活の体験を比喩として語るものですが、まとめてこの位置に置かれることによって、ユダヤ教の側からする批判に対して、イエスの働きの意義を弁証するものとなり、ユダヤ教との論争物語の結尾を構成することになります。たしかに、イエスのたとえにはもともとファリサイ派からの批判に対して、イエスの「恩恵の支配」を弁証するという性質のものがあることは、ルカが彼の「たとえ集」につけている前置き(ルカ一五・一〜三)からも分かります。

第四ブロック メシアの民の出現(一四〜一七章)と集会での振舞いについて(一八章)
 第三ブロック(一一〜一三章)で、自分の民であるはずのイスラエルから拒否されるメシア・イエスの姿が描かれましたが、続く第四ブロック(一四〜一八章)では、拒否するイスラエルの中にメシアに属する民が形成されることが物語られます。この民は後に《エクレーシア》と呼ばれることになるのですが、マタイはこの第四ブロックで、イエスをメシア・キリストと告白する弟子たちの共同体を《エクレーシア》と呼び始めます(一六・一八、一八・一七)。四福音書の中で《エクレーシア》という語が用いられるのはマタイ福音書だけであり、それもこの第四ブロックに限られます。
 この第四ブロックの物語部分(厳密には一三・五三から始まり一七・二七にいたる部分)は、基本的にマルコに従っています。故郷ナザレでの拒否、バプテスマのヨハネの処刑、五千人への供食、湖上での顕現、ゲネサレトでのいやし、父祖の伝承についての論争、カナンの女、四千人への供食、しるしの要求、パン種の警告と、ほぼマルコの順序通りに物語は進み、ペトロの告白というクライマックスに至ります。それまでの物語にもマタイの特色は出ていますが、ペトロの告白の段落には、この告白こそ《エクレーシア》の土台であるという重要なマタイの神学的意義づけが出てきます。続いて山上の変容、山麓での子供のいやしとマルコの内容が踏襲されていますが、最後に神殿税というマタイだけの記事が置かれます。
 物語部分に続く説話部分(一八章)は、イエスの語録を《エクレーシア》の在り方についての訓戒というマタイ独自の形にまとめています。その中に、イエスの福音告知の核心である恩恵の支配を理解する上できわめて重要な、マタイだけの「王と家臣のたとえ」(一八・二一〜三五)が出てきます。

   第五ブロック エルサレムに現れるメシア(一九〜二三章)と終末についての教え(二四〜二五章)
 第四ブロック(一四〜一八章)では、イスラエルから立ち去り、少数の弟子たちを連れて異邦の地方を旅するイエスが描かれました。その旅を終えて、いよいよイスラエルの地に再び入ろうとするときに、フィリポ・カイサリアの地でペトロのメシア告白があり、その告白の上に建てられる「エクレーシア」について語られるようになりました。このブロックは、「エクレーシア」についてのイエスの訓戒をまとめた語録集(一八章)で締め括られました。この訓戒を弟子たちに与えたとき、イエスはまだガリラヤのカファルナウムにおられます(一七・二四)。ところが、「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた」(一九・一〜二)と続き、ここから第五ブロックが始まります。
 第五ブロックの物語部分(一九〜二三章)はユダヤの地でのイエスの働きを物語りますが、この部分はエルサレム入城までの部分(一九〜二〇章)とエルサレムに入ってからの部分(二一〜二三章)に分かれます。しかし、この旅の目的地は(ユダヤ地方での活動が目的ではなく)エルサレムであり、イエスは受難を覚悟して、神の都エルサレムで最後の働きを成し遂げるために来られたのですから、この第五ブロックの標題は「エルサレムに現れるメシア」としてよいと思われます。この部分には「ぶどう園の労働者」(二〇・一〜一六)のようなマタイ独自のたとえもありますが、基本的にはマルコの順序に従っています。
 第五ブロックの物語部分「エルサレムに現れるメシア」の後半、すなわちエルサレムに入城してからのメシア・イエスの物語(二一〜二三章)は、ほぼマルコの順序に従っていますが、マタイ特有の緻密な構成を見せています。この部分は、三つの象徴行為(子ろばに乗っての入城、神殿で商人らを追い出す、いちじくの木を枯らす)と権威についての問答、三つのたとえ(二人の息子のたとえ、ぶどう園の悪い農夫のたとえ、王の婚宴のたとえ)、四つの論争物語(税金問答、復活問答、最大の掟の問答、ダビデの子問答)、そして律法学者たちへの非難(二三章)、という四つの部分から構成されると見られます。
 聖都エルサレムでの働きを物語った後、マタイは人の子の顕現を主題とする、きわめて終末的な色彩の濃い語録集(二四〜二五章)を置きます。それは、神殿崩壊の予言をきっかけとして語られた、「人の子の来臨」を主題とするイエスの終末預言の集成です。前半(二四章)は「マルコの小黙示録」と呼ばれるマルコ福音書一三章とほぼ同じ内容ですが、後半(二五章)にはマタイ独自の(あるいはマタイ流に編集した)三つのたとえによる終末的講話を置いています。この第五の語録集も「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると」(二六・一)という句で締め括られて、いよいよメシア・イエスの物語は彼の十字架の死と復活というクライマックス(二六〜二八章)に入っていきます。

終局 受難物語(二六〜二八章)
 誕生物語(一〜二章)で始まったマタイのメシア・イエスの物語は、メシアの地上での働きを語る長大な部分(三〜二五章)を終えて、ついにその方の死と復活を物語るクライマックスに達します。このイエスの十字架の死と復活の事実があるからこそ、それまでに語られたイエスの物語がメシア・イエスの物語としての意義をもつことになるのです。その意味で、このイエスの受難・復活の物語(二六〜二八章)は、これまでの物語の終幕をなすだけでなく、物語全体に神の福音としての質を与える根底となっているのであり、実は物語の出発点であるのです。
 イエスの生涯の最終局面を物語るにさいして、マタイは基本的にマルコの受難物語を引き継いでいます。しかし、マルコがその受難物語を空の墓の報告で終えているのを不十分として、マタイは復活されたイエスが弟子たちに顕現された物語を加えています(二八章)。マルコでは「受難物語」でしたが、マタイでは「受難・復活物語」となっています。この点が最大の相違点ですが、詳細に比べると、受難の部分でもマタイはマルコの受難物語にかなりの改変を加えています。この違いは、マタイが置かれていた状況によるものであり、またマタイの固有の思想(神学)の現れでもあります。

壮麗な大建築

 このように、多彩で膨大なイエス伝承を、明確な構成を見せる一つの壮大な物語にまとめるマタイの構想力には驚くべきものがあります。マタイ福音書は、その内容の豊富さと構成の明確さで、壮麗な大建築物にたとえることができます。わたしたちはこの大建造物を前にして、ただ驚嘆するのではなく、しっかりとその内容を受け止め、それぞれの部分が取っている形がどういう意味を担っているのか、正確に理解する努力をしなければならないと思います。
 以下、各ブロックごとに順を追って、メシア・イエスの物語とその説話を聞いていくことになります。ただ、そのさい第一ブロックの説話部分になる「御国の福音」(山上の説教)は、前著『マタイによる御国の福音―「山上の説教」講解』で詳しく講じていますので、本書では標題名を掲げるだけで省略しています。また、物語部分では、マルコ福音書と同じ内容である場合には、詳しい講解はすでに前著『マルコ福音書講解』でしていますので、重複を避けるために省略するか簡単にして、マタイ福音書の特色と見られる点に絞って講解していくことになります。