市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第46講

終章 「山上の説教」理解の視点

イエスの言葉かマタイの筆か

 以上の「山上の説教」の講解において、わたしは「マタイはこう言っている」とか、「マタイはこう主張している」というような表現を多く使いました。それに対して、「山上の説教」の言葉はすべてイエスの言葉ではないのか、すべて「イエスはこう言っておられる」とか「イエスはこう主張しておられる」と言うべきではないのか、という疑問を持たれる方があると思います。最後に、その疑問に簡潔にお答えしておきたいと思います。
 この講解では、ルカ福音書との比較によって、マタイが「語録資料Q」を彼独自の視点で編集して用いていることを見てきました。また、「語録資料Q」そのものも、イエスの言葉を完全な忠実さで伝えているものではなく、四十年前後に及ぶ歴史の中で編集の手が加えられて成立したものです。それで、マタイが書いた「山上の説教」は、イエスの本来のお言葉を核としながらも、マタイの神学(福音理解)によって構成された作品になっています(序章の「イエスの語録と福音」を参照)。
 マタイはイエスの「恩恵の支配」の告知をよく理解し、それを彼の作品の中でよく保持しています。しかし同時に、この「恩恵の支配」の福音を、ユダヤ教会堂と対抗して、ユダヤ人同胞の間に確立しようと努力するユダヤ人聖書学者としての特殊な立場があります。マタイの作品を、最初期の様々な福音宣教の潮流の中に置いて比較しますと、マタイの特殊性がよく見えてきます。これはあくまでも「マタイによる」福音書なのです。
 この講解でマタイの編集の手を明らかにして、マタイの特殊性を認識することを努めたのは、この特殊性をもつ容器の中に盛られて告知されているイエスの「恩恵の支配」の福音を、できるだけその本来の姿で受け取りたかったからです。マタイの特殊性を特殊性と認識しなければ、マタイの特殊性をイエスの福音そのものであると誤解する危険があるわけです。
 どの部分がイエスの本来の言葉で、どの部分が以後に加えられた編集の手であるかを、正確に確定することはきわめて困難です。しかし、どこに編集の手が加えられており、それがどの方向に向かっているかを認識することにより、イエスの福音がどの方向にあるのかを知ることは可能です。この手法によって、わたし自身は、この講解の過程でイエスの「恩恵の支配」の福音がますます確実になったと感じています。

ルカの「平地の説教」との比較

 このような視点から、この講解では個々の段落や表現でマタイの編集の手がどのように加えられているかを、かなり詳しく見てきました。最後にもう一度、マタイが構成した「山上の説教」の特色を理解するために、その全体をルカの「平地の説教」と比較しておきましょう。
 ルカ福音書にも、マタイの「山上の説教」に相当するイエスの説教集がありますが、それが「山から下りて、平らな所にお立ちになった」(ルカ六・一七)ときに行われたことになっているので、「平地の説教」と呼ばれています。その内容(ルカ六・二〇〜四九)は、マタイの「山上の説教」とほぼ並行しています。最初に「幸いの言葉」があり、それにイエス独自の愛敵の教えが続き、その後に人を裁くなという警告、木と実のたとえが来て、家と土台のたとえで締めくくられます。
 構成上の大きな違いは、マタイがユダヤ教の宗教的実践と比較するために、施しと祈りと断食について書いた部分がルカにはないことです。したがって、「主の祈り」も別の文脈に置かれることになります。また、マタイが「山上の説教」に入れた数編の語録が、ルカでは別の所に置かれていることがあります。
 しかし、マタイの「山上の説教」を理解する上で最大の比較点となるのは、マタイの「対立命題」に相当するルカの箇所です。ルカは、「幸いの言葉」にすぐに愛敵の教えを続けています。おそらくこれが「語録資料Q」の本来の形であったと、多くの研究者は見ています(9頁の「語録資料Q」についての参考文献を参照)。たとえば、バートン・マックはその著『失われた福音書』において、「語録福音書Q」を復元するにさいして、そのオリジナル版と編集増補版の二つを掲げましたが、その両方において、簡潔な「幸いの言葉」の元の形(56頁参照)に、ルカ六・二七〜三六の愛敵の教えをすぐに続けています。そうすると、マタイの「山上の説教」の核心部を形成する「対立命題」の箇所(五・一七〜四八)は、資料として用いた「語録資料Q」の愛敵についてのイエスの言葉を、マタイが前置きと六つの対立命題に敷衍拡大して再構成したものであることが見えてきます。マタイがこのような形に再構成しなければならなかった動機とか状況、またその意義については、その箇所の講解で詳しく述べました。この終章では、それがマタイによる再構成であることの意義を再確認しておきたいと思います。

倫理の内面化か

 この「対立命題」の箇所こそ、「山上の説教」の核心部であり、キリスト教の歴史で最大の論争点であり続けました。最大の問題点は、ここでイエスが求めておられることは人間には不可能なことではないか、という問題です。いっさい腹を立てないとか、決して情欲をもって女性を見ないとか、離婚はいっさい認めないとか、全然嘘をつくことはないとか、悪に対していっさい抵抗しないというようなことは、実際にはできないことです。そうであれば、それを求めておられるイエスの言葉はどう理解すればよいのかが問題になってきます。とくに、実際の行為だけではなく、心の中にまで完全さを求められているので、その要求は生身の人間には不可能を求めていることになるのではないか、という問題があります。誰が心の奥底まで「天の父が完全であるように、完全な者になる」ことができるでしょうか。
 この不可能事を求めていると見えるイエスの言葉を前にして、教会はこのお言葉と格闘し、様々な理解の仕方を示してきました。たとえば、これは特に選ばれた弟子(具体的には聖職者や修道僧)に求められている倫理であって、一般の信徒に向けられたものではないとする理解です。この理解は、一般的に言えば、カトリックに見られる傾向です。しかし、このような二重倫理はイエスの真意ではないはずです。自分に耳を傾けるすべての人に語っておられるのです。あるいは、人間ができないことを要求することによって、人間に罪の現実を認識させ、悔い改めに導くためであるとする解釈があります。これは、プロテスタント側によく見られる解釈です。しかし、結果としてはそのようなこともありえますが、いつも「神の国」の現実を率直に語り出されたイエスが、そのような方便を用いられたとは考えられません。また最近、イエスは終末が切迫していることを宣べ伝えられたのであるから、終末までの僅かの期間であれば、このような特殊な生き方は可能であり、また求められているのであるとする解釈です。これは「中間倫理」と呼ばれています。この倫理は、歴史の中を歩まなければならないと覚悟しているキリスト者には無効になります。
 このような無理な解釈はみな、イエスの言葉を高度な倫理、それも心情にまで徹底して完全を求める内面倫理と受け取るところから出ています。しかし、イエスがこのような「内面倫理」を求めておられるとするのは、マタイの構成によります。並行するルカの「平地の説教」には、このような「内面倫理化」はありません。ルカ(六・二七〜三六)では「敵を愛しなさい」という言葉が、具体的な行為で敷衍説明され、最後に「あなたがたの父が慈愛深いのだから」と根拠づけられています。ルカの「平地の説教」では、愛敵の教えの部分が「恩恵の支配」の展開であることがよく分かります。このようなイエスの愛敵に至らざるをえない恩恵の支配の告知を、内面倫理の箇条に再構成したのはマタイです。そうしたのは、モーセ律法に立つユダヤ教会堂と対抗するためです。イエスが説かれる御国の福音における義は、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさるものであることを主張するためのマタイの再構成です。イエスの言葉をこのように内面倫理とする箇所は他にはありません。わたしたちは、マタイの再構成になる内面倫理を突き抜けて、イエスの恩恵の支配の告知を聴き取るべきであって、その視点から「山上の説教」を理解しなければなりません。そうすれば、ここに上げたような無理な解釈をしなくても済みます。
 個々の対立命題について、それを恩恵の支配の視点から理解するとどうなるかは、それぞれの箇所で詳しく講解しました。最後にもう一度、「山上の説教」全体を理解する視点として、「恩恵の支配」の視点が重要であることを指摘しておきたいと思います。「山上の説教」は、恩恵の場で聴くとき、その本来の意味を露わにすることになります。この視点を外すと、際限のない問題提起と議論の種になるばかりです。

恩恵の支配の告知としての「山上の説教」

 ところで、この「恩恵の支配」という表現は、一つの矛盾を含んでいます。「支配」というのは、ふつう相手の意志に反して力づくで相手を自分に従わせることです。ところが、父の恩恵はこのような意味の支配ではありません。父の無条件絶対の愛が、反抗する罪人の心を打ち砕き、砕かれた心で父を慕う魂との間に成立する自発的な関係です。そこには力ずくの支配関係はありません。それでもなお、「恩恵の支配」と呼ぶのは、イエスご自身がその告知を「神の支配(バシレイア)」と呼ばれたからです。この言葉は普通「神の国」と訳されていますが、《バシレイア》とは本来領土ではなく、神が王として支配される事態を指す表現ですので、「神の支配」の方が適切です。
 ユダヤ教では、「神の支配」とは「律法の支配」のことでした。すなわち、モーセ律法を順守することによって成立する「神の支配(バシレイア)」でした。それに対して、イエスはまったく別の原理による「神の支配(バシレイア)」を告知されたのです。すなわち、父の恩恵によって成立する「神の支配(バシレイア)」です。イエスも当時のユダヤ人が親しんでいた「神の支配(バシレイア)」という表現を用いられましたが、その内容は力ずくの支配ではなく、父の恩恵が反抗する人間の罪を覆い尽し、みなぎり溢れて、神と人との交わりを作り上げている事実を告げ知らせておられるのです。わたしたちは、その恩恵が圧倒的にみなぎり溢れている様を「恩恵の支配」と呼んでいるのです。「恩恵の支配」とは、人間の側の資格とか状況を吹き飛ばして、父の恩恵だけが原理として働いている場を指しています。それが、イエスの「御国(バシレイア)の福音」の内容です。わたしたちは「山上の説教」に、このイエスの「御国(バシレイア)の福音」を聴くのです。