市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第43講

第二節 良い木と悪い木

偽預言者を見分ける

 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」。(七・一五〜二〇)

 福音宣教の最初期には「預言者」の活動が盛んでした。新約聖書で「預言者」というのは、主の霊の働きによって、主の言葉を語り、それを霊の力による業(奇跡的な癒しや悪霊払いなど)で裏付けるカリスマ的伝道者のことです。その言葉は、かならずしも将来を語る「予言」とは限らず、広く福音を伝え、知恵を教える言葉でした。イエスを信じる民は、このような預言者たちによって指導されていたのです。

 パウロが形成したキリストの民の諸集会にも、使徒や教師と並んで「預言者」が活動したことが言及されています(コリントT一二・二八など)。小アジアやギリシアのパウロ系共同体では、預言者は、特定の集会に所属するメンバーが御霊の賜物によって預言する力を与えられて、預言者としての活動をしたようです(コリントT一二・一〇 もっとも、これは巡回する預言者の存在を否定するものではありません)。それに対して、ガリラヤやシリアに展開したユダヤ人の信仰運動(「語録資料Q」を生みだした運動ですから「Q宗団」と呼ばれることもあります)では、「預言者」たちが各地を巡回して、新しい信仰を宣べ伝え、信じる者たちの群を指導したようです。このような預言者たちは定住せず、各地の群を巡回して訪ね、主の言葉を教えて回ったのです。このような巡回伝道者(預言者)の存在は、「語録資料Q」の中にしばしば言及され(ルカ一〇・二〜一二など)、また前提されています(ルカ一二・二二〜三一など)。マタイと同じくこの信仰運動の流れにあると見られる『ディダケー』(一一〜一三)では、巡回してくる「預言者」の扱いについて、真偽の見分け方から援助の仕方や滞在日数まで、具体的に述べています。マタイの共同体もこのような巡回してくる預言者の働きを現に受けていることは、「あなたがたのところに来る」という表現が示唆しています。

 そのような「預言者」について、マタイは「偽預言者を警戒しなさい」とイエスの民に呼びかけます。霊感を受けて主の言葉を語ると主張する「預言者」が、みな本物の預言者であるとは限らないというのです。当時の一部の「預言者」たちの言動に、マタイの目から見て、信仰を間違った方向に導きかねないと思われる危険な傾向があったようです。マタイが危険と感じた「偽預言者」とはどのような型の指導者であったのか、特定することは困難です。強いて推定すると、この警告の最後(七・二三)に「不法《アノミア》を働く者ども」が断罪されていることから、何らかの意味でマタイが主張する「律法《ノモス》の完成」(五・一七〜二〇)の立場を否定するような言動をする者たちであったと考えられます。おそらくヘレニズム的な宗教思想の影響から、マタイが神聖視する律法を軽視するか無視するような言動をする者たちであったのでしょう。

 マタイが警告する「偽預言者」が反律法主義者であるとすると、ユダヤ人およびユダヤ人キリスト教徒から反律法主義者のレッテルを貼られて非難されていたパウロとその一派も含まれるのではないかという問題が出てきます。パウロは決して反律法主義ではありませんが、パウロの「律法とは別の神の義」や「キリストは律法の終わり」という主張は、現実にユダヤ人と保守的なユダヤ人キリスト教徒から激しく非難されていました。小アジアからギリシアに展開したパウロの福音活動の影響が、どの程度マタイの共同体があるシリアにまで及んでいたのかを示す直接の資料はありませんが、パウロがもともとはアンティオキアで長年指導的な活動をしたことや、マタイの少し後の時代にアンティオキアの監督であったイグナティオスにパウロの影響が見られることなどから、シリアにもパウロの影響はあったと見るべきでしょう。しかし、マタイがどの程度パウロとその影響を関知していたか分かりませんので、マタイとパウロの問題はここでは留保せざるをえません。

 マタイは偽預言者を「羊の皮を身にまとった狼」と表現します。彼らは羊の皮を身にまとって、自分も羊の群の一員である、すなわちイエスの弟子の群に属する者であると見せかけていますが、実質は羊を食い荒らす貪欲な狼であるというのです。偽預言者は狼のように貪欲で、イエスの弟子を自分の弟子にして、自分の野望を満たすための道具とし、共同体の一致を破壊し、羊を滅びへと連れ去るのです。
 羊と狼の比喩は、イエスの語録では「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」(マタイ一〇・一六)があるだけですが、初期の共同体はそれを羊の群に侵入する狼のイメージに変えて、偽教師に対する警告の譬として転用しました(ヨハネ一〇・一二、使徒二〇・二九、ディダケー一六・三)。ここのマタイのたとえもこの流れにあります。
 マタイは偽預言者を見分ける規準として木とその実のたとえを用います。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける」という句で囲み込み(一六節aと二〇節)、「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか」(一六節b)という問いで実例を挙げ、「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また悪い木が良い実を結ぶこともできない」(一七〜一八節)という原則を明示します。そして、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(三・一〇)という洗礼者ヨハネの終末審判の言葉を偽預言者に適用して、彼らの滅びに対する警告を付け加えます(一九節)。

 木と実のたとえは「語録資料Q」にある言葉ですが、ルカとマタイはそれぞれ少し違う形と意義づけをして用いています。ルカ(六・四三〜四五)は「平地の説教」の結び(マタイと同じ位置)で、この木と実の関係を(偽預言者とは関係なく)「人の口は心からあふれ出ることを語る」という人間の心と行動(とくに言葉)の結びつきのたとえとして用いています。マタイもこのたとえを他の箇所(一二・三三〜三五)でルカと同じような意味で用いていますが、「山上の説教」の結びの位置では、偽預言者に対する警告として用いているのです。マタイは語録資料にある一つのたとえを二重に用いていることになります。

 マタイはこのたとえで、預言者が本物であるか偽物であるかを見分ける規準として、その教えが規準に適っているかどうかという観点ではなく、その行動や生活が正しいかどうかという観点をあげていることになります。まだ正統教理(信条)とか正典が確立していない段階では、これ以外には規準がなかったわけです。また、木と実の関係が示しているように、この規準は理にかなっています。たしかに、良い実を結ぶ木が良い木であり、悪い実を結ぶ木は悪い木です。ただ、何を「良い実」または「悪い実」とするかによって、この判定規準は誤用される危険があります。
 後の時代の正統派教会は、自分たちと意見が異なる者を「異端者」として攻撃するときに、このたとえを用い、彼らの道徳的欠陥をあげることで、彼らが偽者であると主張しました。そのさい、道徳的欠陥とされるものは、特定の社会における特定の時代の社会的規範ないし習慣に違反する行為とか生活にすぎない場合があります。イエスの場合もそうでした。イエスは当時のユダヤ教社会の規範である律法(たとえば安息日律法)に違反する者として、「偽預言者」と判断されたのです。
 神の霊が結ぶ実は愛です。ところが、御霊の実としての愛は、しばしば社会や時代の規範や常識を超えたり反したりしているように見えることがあります。霊の質を判断することは難しいことです。ある程度の時間の経過の中で、「預言者」の霊がどのような働きをなし、どのような結果を生むのかを見極めなければならないでしょう。性急な判定は慎まなければなりません。マタイも最終的な判定は終わりの日における神の裁きに委ねております(次の段落)。
 マタイは、「山上の説教」で説かれたイエスの言葉を実行する生活を「良い実」としているのでしょう。この言葉を行う者を本物の預言者とするという形で、この言葉を行うように勧告しているのです。

 マタイは「実で見分けよ」という原則をかかげるだけで、「実」の内容については何も述べていないので、この原則は誰でもが自分の反対者を非難するときに利用できる原則となりました。それに対して、パウロは「実」について具体的な内容を語っています。「御霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ五・二二〜二三)。当然、これは「良い実」です。それに対する「悪い実」は、「肉の働き」であり、それも具体的にその内容が上げられています(ガラテヤ五・一九〜二一)。しかし、パウロが語る「御霊の実」と「肉の働き」の対照は、人間の生まれながらの本性(肉)と対照して、神の霊がもたらす新しい生の在り方を述べているものであって、預言者の真偽を判定する基準ではないことに注意しなければなりません。「実」という比喩が同じだからといって、直ちにパウロの「御霊の実」の議論によって、ここのマタイの木と実の比喩を解釈することはできません。

偽預言者に対する裁き

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。(七・二一〜二三)

 マタイは先の段落(七・一五〜二〇)で偽預言者を見分けるようにと信徒の群に警告しましたが、ここで偽預言者に向かって、終わりの日に神の裁きが臨むことを警告します。その警告は、「かの日」とか「天の国に入る(未来形)」という表現が示唆しているように、終末の審判を念頭において、「戸口または門から入る」というイメージで語られます。
 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者」とは、イエスを神的な権威の座にある方として告白することを指しています。ヘレニズム世界の異邦人諸共同体がイエスを《キュリオス》と告白したのとはやや異なりますが、マタイの共同体でもイエスに向かって「主」という呼びかけの言葉で信仰が告白されていたと見られます。

 アラム語を語るユダヤ人共同体でもイエスに「主」という称号が用いられていたことは、《マラナ・タ》(主よ、来たりたまえ)というアラム語の祈りが、コリントの共同体にも知られていた(コリントT一六・二二)ことからもうかがわれます。

 「かの日」、すなわち神が栄光の御国を完成される日に、神の裁きを通って御国に入ることができるのは、イエスを主と言い表す者全員ではなく、イエスが父として啓示された神の御心を行う者だけであるというのです。ユダヤ教では来るべき神の支配に与り、栄光とか命に入ることができるのは、律法を守り行う者とされていました。それに対して、イエスは律法を守ることができない者たちを招き、自分の仲間として食事を共にして、彼らに向かって、「あなたがた貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と宣言されました。神の国とか永遠の命に入る者は、律法を守り行う者ではなく、神の絶対無条件の恩恵を砕かれた心で無条件に受ける者であるという告知、すなわち恩恵の支配の告知こそイエスの福音です。マタイはそれを十分理解しており、この幸いの言葉を冒頭に置くことで、自分の福音書を恩恵の支配の告知としております。
 ところが、自分の全存在を恩恵の中に投げ入れ、恩恵の場に生きることをしないで、ただイエスの名を口にし、イエスの仲間であることを言い表しておれば、それで神の国に入れると考える人たちが出てきました。これは恩恵の支配の誤解です。恩恵の支配に入るとは、自分が父の恩恵、すなわち無条件絶対の慈愛によって生かされているのであるから、自分の隣人を同じ無条件の慈愛をもって受け入れ愛するという場に生きることです。イエスが「あなたがたの天の父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者でありなさい」(ルカ六・三六)と言われた通りです。マタイはこのお言葉を「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(五・四八)と言い換えて、それを本論の部分(五・一七〜七・一二)で「ファリサイ派にまさる義」として具体的に展開するのです。ですから、マタイが「わたしの天の父の御心を行う者」というとき、それは本論の部分で提示された義を行う者のことであり、その本質は「父が慈愛深いように、慈愛深く生きる」ことです。そして、まさにこれが現実に恩恵の支配の場に生きることです。
 このように理解しますと、マタイが「父の御心を行う者だけが天の国に入る」と主張するのは、決してユダヤ教の律法主義に逆戻りしているのではなく、あくまで恩恵の支配を具体的・現実的に貫徹しようとしていることが分かります。マタイとユダヤ教との決裂は決定的です(二三章)。マタイはユダヤ教と対決するために、恩恵の場に生きる者の義はユダヤ教の義にまさることを強調しなければならなかったのです。
 マタイは「主よ、主よ」と言う者を、「わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と具体的に特定しています。これはイエスの名によって奇跡を行い、イエスの言葉を教え伝えるカリスマ的な「預言者」を指していることは明らかです。このような「預言者」でも、ここで見たような意味で「父の御心を行う者」でなければ、「不法を働く者」として、「かの日」にはその名を呼んでいたイエスご自身から「あなたたちのことは全然知らない。わたしから離れ去れ」と拒否されるのです。

 ルカ(一三・二四〜二七)にもほぼ同じ内容の語録が伝えられています。「語録資料Q」にはどうあったのか確定することはできませんが、おそらくルカが伝えるように、「狭い戸口」と「閉じられた戸」のたとえが並んでいたのでしょう。このルカの記事と比較しますと、マタイがかなり独自の編集の手を加えていることが分かります。「狭い戸口」のたとえは、「狭い門と細い道」の二重のたとえとなり、「閉じられた戸」は「賢いおとめとと愚かなおとめ」のたとえで用いられ(二五・一〇〜一二)、戸口で「立ち去れ」と言われる者たちの記述が偽預言者を指すように変えられています。ルカでは「わたしたちはあなたと一緒に食べ、また飲み、あなたはわたしたちの広場で教えてくださいました」と言っていますが、マタイでは「あなたの名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行いました」となっています。すなわち、ルカでは(そしておそらく語録資料では)イエスの食卓の交わりにあずかった者が全員終末の御国に入るのではないという主張ですが、マタイはそれを偽預言者への裁きの警告に変えているのです。ルカの記事から、イエスの名による食卓の交わりにあずかっていることだけを救いの根拠にするような信仰に警告を発することは、すでに「語録資料Q」の段階で始まっていたということが分かります。