市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第41講

第二節 恵みの座

求めなさい

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるからである」。(七・七〜八 一部私訳)

 マタイ福音書の五章から七章は、一般に「山上の説教」と呼ばれ、キリスト教道徳の教本のように扱われています。しかし、これは道徳の教本ではなく、恩恵の支配の告知であること、すなわち、これがイエスの「神の支配」の告知、「御国の福音」であることは、繰り返し述べてきました。その本体と見られる部分(五・一七〜七・一二)の最後で、マタイは人を裁かないことで恩恵の場に留まるように勧め(七・一〜五)、その後にさらに、恩恵の場で大胆に父に祈り求めるように招くイエスの語録を置きます(七・七〜一一)。

 イエスの語録伝承で、人を赦すことと祈りとが一対として語られていたことは、マルコが祈りについてのイエスの教えを要約している記事(マルコ一一・二五)からもうかがえます。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(七節)というイエスの言葉は有名で、キリスト教の外の世界でもよく引用されます。その時この聖書の言葉は、どのような困難に直面しても、状況がどのように難しくても、断念することなく熱心に追求するならば、必ず目標に達することができるという激励の意味で用いられています。しかし、そのような意味であれば、イエスでなくても誰でも言えることであって、これが「福音」であるとは言えません。イエスの言葉の凄いところは、八節にあります。八節は《ガル》という理由とか根拠を示す小辞で七節に続いています。この結びつきは重要ですので、八節には「からである」という理由を示す語をつけて訳しておきました。
 イエスが「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と断言されるのは、イエスが「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」という世界に生きておられるからです。この「だれでも」求める者は受け、捜す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは凄い宣言です。いったいどうして、このようなことが断言できるのでしょうか。
 わたしたちの体験はこれと反対です。この世では何を求めても、それを受けるには資格とか条件が厳しく要求されます。この世で地位を求めても資格や学歴が求められ、よい大学の門に入るためには厳しい入学試験に合格しなければなりません。ある分野で成功を求めても生まれつきの才能とか健康が条件となります。努力したからといって、「だれでも」求めるものを得るというわけにはいきません。
 ところが、イエスは「だれでも」、すなわち、何の資格がない者でも、求める者は受けるという世界に生き、そのような世界を告知されるのです。それは神の恩恵の世界です。恩恵が支配する場では、人は神から、何の資格がなくても、無条件に受けることができるのです。神が人間に与えてくださるものは、資格を問うことなく、求める者には誰でも無条件で与えられるのです。神と人とは本来そのような無条件・絶対(相手の価値に絶した関係という意味)の関係でつながっているのだというのが、イエスの告知です。イエスは人とこのような関わりにある神を「父」と呼ばれるのです。父は子を無条件に愛して、良いものを与えるからです。

恩恵の父

 「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。(七・九〜一一)

 イエスはこの無条件・絶対の神の恩恵を、人間の親をモデルにして語られます。親は子に無条件で与えることは、すでに語られました。ここでは何を与えるのかが話題になっています。
 イエスは「あなたがたは悪い者でありながら」と前置きした上で、「自分の子供には良い物を与えることを知っている」と語られます。イエスは人間が本性的に自己中心であり、自分のために求めるばかりで、自分を犠牲にして他者に与えるようなことはしない者であることをよく知っておられ、そのような本性の人間を「悪い者」と呼んでおられるのです。そのような自己中心の人間も、自分の子供に対しては、自分を犠牲にしてでも良い物を与えようとします。親の立場に立つとき、人間は本性的な自己中心性を克服しているのです。
 親は自分の子供に少しでも良い物を与えようとします。「パンを欲しがる自分の子供に、石を与える」親はありません。「魚を欲しがるのに、蛇を与える」親はありません。本性的に悪い者である人間の親でもそうであるならば、「まして」寸分の悪もその中に留めない天の父が、その子に「良い物」をくださらないことがあろうか、とイエスは断言されるのです。親としての人間の体験をモデルにして、イエスは父の無条件・絶対の恩恵を指し示されるのです。

 ルカの並行記事(ルカ一一・九〜一三)では、「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」となっています。パンの代わりの石がなく、卵の代わりのさそりが用いられています。両方とも、パンの形に似た石があること、また、身体を丸めたさそりが卵に似ていることを知っている当時の人たちへのたとえです。マタイの表現は、有益な物と無益な物の対照、ルカの表現は有益な物と危険な物との対照となりますが、この違いは文意にとってあまり差がないと思われます。むしろ、マタイとルカの文脈の違いが問題になります。
 ルカはこの並行記事を「主の祈り」(一一・一〜四)に続く「夜中にパンを求める友人」のたとえ(一一・五〜八)の後に置くことで、「求めなさい」の語録(一一・九〜一三)をとくに「主の祈り」の中のパンを求める祈りの説明としています。そして、全体の結論として「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」としています。

 マタイは(そしておそらくイエス御自身も)詩編の伝統(詩編三四・一一など多数)を受け継いで、神が祈り求める民に与えてくださるものを、「良い物」という一般的な用語で表現しました。それに対して、ルカは「良い物」を「聖霊」と解釈して、その内容を特定しています。これは、ルカの聖霊重視の姿勢の代表的な箇所の一つですが、ルカの解釈は、福音宣教開始後すでに半世紀以上を経て、自分たちの存立と歩みの源泉が聖霊であることを十分自覚してきた主の民の体験を反映していると見ることができます。
 父は祈り求める子に様々な形で「良い物」を与えてくださいます。健康や必要な物、家族や友人などよき隣人、心豊かに生きるための才能や技能など、わたしたちの祈りに応えて与えてくださいます。わたしたちは今享受しているそれらの「良い物」を父からの恵みの賜物として感謝して受けています。ところが、人生の現実では、わたしたちが「良い物」としているものが取り去られ、懸命に祈っても与えられないときがあります。いわゆる「聴かれざる祈り」の問題に、わたしたちはしばしば直面します。その時、わたしたちは「だれでも求める者は与えられる」という恩恵の支配について動揺します。しかし、恩恵の支配は揺るがないのです。父の約束は変わることがありません。このような場合、わたしたちは、自分が求める「良い物」が、父がわたしたちにとって「良い」とされるものと違っているのではないかと考えるべきです。
 子供がケーキを欲しがるときにはいつでもケーキを与える親はいません。時には、子供がいやがる苦い薬を与えなければならない場合もあります。子にとって真に「良い物」が何であるかを知っているのは、子ではなく親です。わたしたちが人生の苦難において父に祈り求めるとき、父は「良い物」を与えて助けてくださいます。しかし、その「良い物」がしばしばわたしたちが欲する「良い物」と違うのです。では、父が与えてくださる「良い物」とは何でしょうか。それは個々の状況によって異なります。しかし、どのような状況でも必ず与えられる「良い物」、究極の「良い物」は聖霊です。神ご自身の霊です。神の命であり愛である神の霊です。この霊によって、わたしたちはいかなる状況においても見えざる父に信頼し、敵対する人をも愛し、希望をもって苦難に耐える力を与えられ、父との交わりにある至高の喜びを得るのです。
 このように、マタイによって伝えられた「良い物」という(語録資料の)イエスの言葉の内容が、ルカによって「聖霊」を指すと明示され、イエスを信じる者に聖霊が与えられることが「父の約束」とされるに至ります(ルカ二四・四九、使徒一・四)。こうして、マタイ(七・七〜一一)の「求めなさい。そうすれば、与えられる」の語録は、ルカの解釈によって福音の基本的内容を告げる言葉となります。すなわち、イエス・キリストを信じて神に求める者はだれでも、まったく資格を問われず、無条件・無代価で神の御霊を与えられ、その御霊によって信仰と愛と希望という形に発現する新しい命、永遠の生命に生きるようになるのです。

黄金律

 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。(七・一二)

 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という原則は、人間の倫理的規範のすべてを要約する原理として、「黄金律」と呼ばれています。「黄金律」は古代インド思想にも、中国の儒教にも、古代ギリシア文学にも出てきており、人類の知恵と言ってもよい世界的な広がりをもっています。ただ、新約聖書以外では圧倒的に、「人からされたくないことを、人にするな」という否定の形で述べたものが多いようです。

 新約聖書の直接の源流となったユダヤ教では、ヘレニズム時代のユダヤ教文献にはじめて黄金律が出てきます(七十人訳シラ書三一・一五、トビト書四・一五、アリステアスの手紙二〇七など)。これは、「自分自身のように」隣人を愛することを求めたモーセ律法(レビ一九・一八)がギリシアの知恵と合流して形成された結果でしょう。イエスの少し前の律法学者ヒレルは、一人の異邦人が片足で立っている間に全トーラーを教えるように頼んだとき、「お前にとって痛みとなるようなことは他人にしてはならない。これが律法の全体である。他はみなその解説である」と答えたという有名な言い伝えがあります。このように否定形で語られている黄金律をイエスが肯定形で語られたのは、父の慈愛に促されて愛を実践するように求めた文脈の中で用いられたからであり(ルカ六・三一)、意味深いことです。

 ここで問題になるのは、マタイ福音書において黄金律がこの位置に、このような形で置かれていることの意味です。黄金律はもともと「語録資料Q」では愛敵の教えの中に組み込まれていたと見られます(ルカ六・三一)。それをマタイがこの位置にもってきて、「これこそ律法と預言者である」という言葉を付け加えて、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(五・一七)という前置きと対応させて、主要部の締めくくりの言葉としたのです。
 まず、黄金律は「だから」という言葉で導入されていますが、この「だから」は先行するどの箇所、あるいはどの内容を指して用いられているのでしょうか。直前の「人を裁くな。求めるなら与えられる」という箇所には、意味がうまくつながりません。そうすると、締め括ろうとしている部分全体を指していると理解しなければならなくなります。五章二一節以下で説かれてきたことは、すべて律法を完成する生き方であるから、それを行うことが律法と預言者の要約である黄金律を満たすことになる、という意味で「だから」という語で黄金律が導入されていると理解することになります。
 そうすると、さらに難しい問題に直面することになります。イエスは敵をも愛する質の愛を説いておられます。ところが、黄金律は、イエスでなくても世界のいたるところで説かれたきわめて形式的・抽象的な行動原理です。そのような形式的原理は、イエスの説かれる恩恵の場における愛の生き方の要約としてふさわしいものであろうか、という疑問です。黄金律を実行すれば、それでイエスの求めておられる生き方になるのでしょうか。それはユダヤ教のレヴェル、あるいは一般的な倫理の次元に留まるのではないでしょうか。黄金律はむしろ「自分によくしてくれる者によくする」という相対の原理に基づくものではないでしょうか。黄金律を形式的原理とする限り、この疑問を解決することは困難です。
 マタイは「律法と預言者」を要約し成就するという思想を三箇所で述べています。すでに触れた五章一七節とここの七章一二節、それに二二章四〇節です。三番目の箇所では、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と並んで、「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めをあげ、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と要約しています。このような並行関係からすると、マタイにおいては黄金律は無内容な形式原理ではなく、第一の戒め(シェマ)と一体となっている「隣人を自分のように愛する」という律法の変形として扱われていることが分かります。このように理解するとき、黄金律を実行することは律法と預言者を完成することだとするマタイの主張は正当なものになります。そして、(先に本講解で触れたように)「自分のように」を「自分に対するときのように無条件で」と理解すれば、「隣人を自分のように愛する」ことは、父の無条件・絶対の慈愛をもって隣人を愛することになり、マタイが主要部、とくに対立命題(五・二一〜四八)で求めたことの成就となるのです。