市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第38講

第六章 ただ神の国を求めよ

はじめに
 「幸いの言葉」を中心とする導入の部分(五・一〜一六)に続いて、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義、すなわち天の国における義」という主要部分(五・一七〜六・一八)を書き終え、マタイは後半部に筆を進めます。この「御国の福音」の後半部では、イエスに従おうとする弟子にとって大切な心構えについて、様々な主題が取り上げられますが、最初にこの世での生活に対する心構え、とくに富についての心構えを説く部分が大きなブロック(六・一九〜三四)をなしていると思われます。
 この部分にはルカと共通する言葉が多くありますが、順序はルカと違っています。ということは、このブロックの大部分は「語録資料Q」の素材を、マタイが彼の意図に従って編集し配置したと見ることができます。



第一節 神と富

地上の宝と天の宝

 「あなたがたは地上に宝を集めてはならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。宝は、天に集めなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(六・一九〜二一 一部私訳)

 《セーサウロス》を新共同訳は「富」と訳しているが、この語は本来「集められた(貴重な)品物」を指しており(ここでも用いられているこの語の動詞形は「集める」の意)、土地や家屋、家畜や穀物というような資産(ルカ一二・一三〜二一)ではない。また、虫や錆や盗人の被害の対象になるのは、高価な衣類や香料、貴金属や宝石などであるので、協会訳のように「宝」と訳す方が適切と考えられる。さらに、二四節で一般的な用語として「富」を用いるのであれば、区別して訳語を用いる方がよい。

 ここで、地上に集められ蓄えられた宝と天に集められ蓄えられた宝が対照されています。高価な衣類や香料、貴金属や宝石など、地上に蓄えられた宝は、虫や錆が品物をダメにし、盗人が家に侵入して盗んでいくというように、いずれは無価値になるのに対して、天に蓄えられた宝は、そのような被害にあうことなく、いつまでも価値あるものとして残るという対照が強調されます。
 ここで「宝」というのは、わたしたちが価値あるものとして追求する対象を指す象徴と理解できます。この言葉で、何を価値あるものとして追求するのか、という人生の基本的な問いが突きつけられているのです。わたしたちが人生において追い求める目標が、富とか地位とか世間での名誉(先の「偽善者」が追い求めた人からの賞賛)とかいう地上の宝ではなく、「天において」、すなわち神との関わりにおいて、または霊の次元において、価値あるものでなければならないというのです。マタイは後に、「何よりもまず追い求める」べきものを、「神の国と神の義」と表現しています(六・三三)。マタイにとって、何よりもまず追い求めるべきものは、主要部(五・一七〜六・一八)で提示した「天の国の義」です。この義こそ、「天に集められた宝」に他なりません。

 ルカはこの「天に宝を集めなさい」という御言葉を、少し違った文脈で用いています。遺産の問題をお願いした人の言葉をきっかけに、イエスはある金持ちをたとえとして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」の愚かさを語られます(ルカ一二・一三〜二一)。続いて「空の鳥、野の花」を指して、ひたすら神の国を求めるならば、必要なものは添えて与えられるという約束が語られます(ルカ一二・二二〜三二)。その後にこう続きます。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない宝を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ一二・三三〜三四)。この文脈からしますと、ルカは地上の財産を売り払って施しをすることが「富を天に積む」ことであり、「神の前に豊かになる」ことだとしている、と言えます。地上の富の問題に関しては、ルカはマタイよりも具体的に考えているようです。

 ここで誤解してはならないことは、この言葉は決して、世間での活動を無価値として、霊的な価値だけを追求するために、この世から離れて修道院的な生活をするように勧めているものではありません。わたしたちは社会の一員として生産活動をはじめこの世の仕事に携わらなければなりません。ただ、その時、何を価値あるものとして追求するのかという心の在り方、心の姿勢が問われているのです。そのことが段落最後の言葉でこう表現されています。 

 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」。

 もしわたしたちが社会活動において地上の富や地位や名誉を価値あるものとして追い求めているならば、わたしたちの心も地に縛り付けられて、地上の出来事に一喜一憂し、世の中の変化に従って高揚したり落胆したりします。そして、「地上の宝」が最後にはダメになるように、地に縛り付けられた心は、結局は地と共に滅びます。自分の身体も地の一部ですから、身体の死と共にすべての価値は無に帰します。それに対して、もしわたしたちが地上の人生と活動において、自分の欲望充足のために富を求めるのではなく、支配欲のために地位を求めるのでもなく、また、虚栄のために名誉を求めるのではなく、ひたすら自分の能力を隣人に仕えるために用いることで「宝を天に集める」ならば、心はいのちの源である神に結びつけられて、地上の変遷を超えて、死によっても脅かされることのない、霊の喜びと希望に生きるようになるでしょう。
 こうして、心の在り方とか心の姿勢が問題となったところで、その問題が別の譬に引き継がれます。

体のともし火

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」。(六・二二〜二三)

 先の宝と心の関係に続いて、目と体の関係をたとえとして、「内なる光」が人間存在にとって重要であることを語る段落が置かれます。目は体にとって灯火の役目を果たしています。灯火が暗い室内を照らし出して明るくするように、目は人が明るいところで行動できるようにします。目が病んで見えなければ、人は明るい室内にいても暗闇にいるようで、その体は行動できません。このような状況が「全身が暗い」と表現されます。目が健康でよく見えるときは、自分がどこにいるのか、どこに何があるのか見えますから、体は自由に行動できます。このとき暗闇は感じません。このような状況が「全身が明るい」と言われます。
 このように、「内なる光」が輝いていれば、目が健康でよく見える時に全身が明るいように、わたしたちの全存在は明るいところにいることになります。わたしたちは自分がどこにいるのか、どこに何があるのかを認識して、安心して歩むことができます。しかし、「内なる光」が消えれば、目が見えない人が全身を暗いと感じるように、わたしたちは自分がどこにいてどこに向かっているのか分からず、不安の暗闇に陥ります。それは、目が見えないときに感じる体の暗さよりも、はるかに深刻な暗闇になります。
 体にとって目が暗闇を照らすともし火であるように、人間の全存在を明るく照らし出すのは「内なる光」、すなわち霊の目です。この霊眼が濁っているならば、わたしたちの全存在は暗闇に陥り、自分がどこにいて、どこに向かっているのか分からなくなります。霊眼が澄んでいれば、わたしたちの全存在が明るく、目的地に向かって道を間違いなく歩くことができます。こうして、ここでも心の在り方が問題にされていることになります。

 「ともし火のたとえ」の扱い方は、三つの共観福音書で異なります。マルコでは「あかりが来るとき、それを升の下や寝台の下に置くことはない」という形で、「神の国のたとえ」の中に置かれ(マルコ四・二一〜二三)、「隠れているもので、あらわにならないものはない」という神の国顕現の原理を指し示すたとえとされています。マタイはこの言葉を「幸いの言葉」に続く導入部に置いて弟子の使命を語り(五・一五)、それとは別に、ここで「体のともし火」という形で「内なる光」のたとえとして弟子の心構えを説き勧めます。ルカでは、「升の下に置かれたともし火」と「体の灯火」が合わせられて、わたしたちが「内なる光」を消さないように勧めるたとえになっています(ルカ一一・三三〜三六)。

 この目のたとえで、「澄んでいる」とか「濁っている」と訳されている語は、「健全である」とか「病んでいる」という意味の語ですが、ここの文脈からすれば、「澄んでいる」とか「濁っている」という訳語は示唆的であると思われます。すなわち、追い求める対象に向かって、混じりけのない純一な心で対しているか、他のものにも心を向けて混じりけのある心で対しているかの違いを示しているからです。この目のたとえは、先行する宝のたとえと、後に続く神と富との二者択一の間にあって、選び取った対象に向かって混じりけのない純一な心、全存在を傾けた心で対すべきことを説くたとえになっています。

二人の主人

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。(六・二四)

 「主人に仕える」というのは、当時の奴隷制社会において、奴隷が主人に仕える生活をたとえとして用いている表現です。奴隷は一人の主人に仕えて、全面的にその主人の意志に従わなければなりません。ある面では(または、ある時は)主人に従い、他の面では(または、他の時には)他の主人の命令に従うというような、「二人の主人に仕える」ことは奴隷には許されません。ここで、「愛する」とか「憎む」、また「親しむ」とか「軽んじる」というような感情を示す語が用いられています。本来、主人と奴隷の間に感情が入ることは許されません(憎んでいても従わなければならないのです)が、よい主人に恵まれれば、奴隷が心から主人を愛し親しみ、主人と対立する他の奴隷所有者を憎み軽んじることもありえます。その時、「主人に仕える」ことは完全になります。
 このように、奴隷が「主人に仕える」ことをたとえとして、人が「神とマモンに兼ね仕えることはできない」という命題が提示されます。これは「兼ね仕えるべきでない」という命令とか勧告ではなく、「それはできないことだ」という事実の提示です。それは、神とマモンは完全に対立し、相容れない原理だからです。

 「マモン」と表記した原文の《マモーナス》というのは、アラム語の《マモーン(またはマモーナ)》を音写したギリシア語です。アラム語の《マモーン》の由来はよく分かりませんが、ヘブライ語の《アーマーン》(確かな)と関連があるのではないかと見られています。アラム語では(「頼れるもの」という意味からでしょうか)「富」を指す語として用いられていました。ユダヤ教文献では、「不義のマモーン」という用例が多く、不正な手段で得られた富として断罪されています(ルカ一六・九、一一参照)。

 この言葉は「語録資料Q」から取られていると見られます(ルカ一六・一三が並行)。ここで「富」を意味する「マモン」は擬人化されて用いられ、人に仕えられることを要求する主人として、神と対抗しています。イエスは「富」を絶対的な価値として追求する生き方を、「マモンという偽りの神に仕える」こと、まことの神に仕えることと両立しないこととして、断固退けられるのです。
 では、「マモンに仕える」ことと対立する「神に仕える」とはどういう生き方でしょうか。経済活動を軽視したり放棄して、宗教活動に熱心に励むことでしょうか。そうではないと思います。「神に仕える」とは、具体的には、神が求めておられることを追求すること、すなわち隣人を愛すること、隣人に仕えることであると考えます。人間を人間として尊び、人間の尊厳に仕えることであると思います。「マモンに仕える」ことと「神に仕える」ことの対立は、具体的には、経済的価値を絶対的なものとして追求する生き方と、隣人を愛することによって人間の尊厳に仕える生き方の対立です。
 現代文明は経済的価値を神として拝み、その神マモンを拝むために人間の尊厳を犠牲として捧げてきました。イエスの言葉は、このような現代文明に対する痛烈な批判であり、これからの進路を指し示す指針です。経済的価値にかぎらず、人間の尊厳以外のものを絶対化し、究極の価値として追求する社会は厳しい審判を招くでしょう。政治も経済も、人間の尊厳、人格と人権の尊重に仕えることが、神の祝福を受ける道です。

 トマス福音書の語録四七(一〜二節)に並行する言葉が伝えられています。
 イエスが言った、「 一人の人が二頭の馬に乗り、二つの弓を引くことはできない。 一人の奴隷が二人の主人に兼ね仕えることはできない。あるいは、彼は一方を尊び、他方を侮辱するであろう」。(荒井献訳)
 トマスでは「二人の主人」が誰であるかは特定されていません。トマス福音書のグノーシス主義的な傾向からすれば、おそらく「至高者(父)」と「創造神《デーミウールゴス》」が含意されているのでしょう。トマス伝承と比較しますと、イエスの初期の語録伝承では「二人の主人」を特定しない形であったのが、「語録資料Q」の段階で「神とマモン」と特定されるようになった可能性が推定されます。
 ルカは並行箇所で「召使い」《オイケテース》という語を用いています(ルカ一六・一三)。これは、「不正な管理人《オイコノモス》」のたとえの結びとしてこの語録を用いている結果でしょう。マタイでもルカでも「仕える」という動詞は、「奴隷《ドゥーロス》」の動詞形ですから、トマス伝承も考慮に入れますと、アラム語の伝承では「奴隷」という語であったと推定されます。