市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第37講

第八節 目を覚まして

試練と誘惑

 「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」。

 新共同訳が「誘惑」と訳している語《ペイラスモス》は、もともと「(人を)テストする」という意味の語で、肯定的な意味ではその人の信仰が本物であるかどうかを試して鍛えるという「試練」の意味と、否定的な意味では信仰を捨てて誤った道に引き込もうとする「誘惑」という意味の両面があります。
 イエスの生涯は始めから終わりまで《ペイラスモス》にさらされていました。イエスが直面された誘惑は荒野の四十日だけではありません。王としようとする民衆の声、しるしを求めるファリサイ派の人たち、受難の道を諫める弟子の忠告など、イエスは使命からそらせようとする誘惑にたえずさらされておられました。その最後の、おそらく最大のものはゲッセマネでしょう。そこでイエスは父の御心に委ねきる祈りによって、誘惑に打ち勝ち、試練を乗り切られます。そして、眠り込んでしまっている弟子たちに、「誘惑《ペイラスモス》に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マルコ一四・三八)と励まされます。
 わたしたちの人生も《ペイラスモス》の連続です。人生に苦難は避けられません。人生の苦難はわたしたちには信仰を貫くための苦しい試練となり、人生の幸運や快楽も信仰を捨てさせる誘惑ともなります。この祈りは、そのような試練や誘惑が来ないように祈っているのではありません。信仰の生涯に《ペイラスモス》が来ることは避けられません。この祈りは《ペイラスモス》に「引き込まれないように」(直訳)祈っているのです。誘惑に負けて信仰を失うことがないように、父の助けを祈り求めているのです。「誘惑に陥らないように」祈っているのです。新共同訳の「誘惑に遭わせないで(ください)」は、「誘惑に陥らないようにして(ください)」と変えなければなりません(マルコ一四・三八と同じく)。

終末の苦難の中で

 「わたしたちが誘惑に陥らないようにしてください」という祈りは、わたしたちの日常の信仰生活において真剣な祈りです。その中には人生の様々な種類の苦難の中での祈りが含まれます。しかし、この祈りは何よりもまず終末に直面して生きるキリスト者の祈りとして重要です。イエスの「神の国」宣教が終末的な側面をもつ以上、そしてわたしたちも「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りに生きている以上、この祈りも終末的な迫りを背景として理解されなければなりません。
 昔預言者たちも、神の大いなる栄光が顕れる前には地に患難が臨むと預言し、イエスも「人の子」の来臨の前には多くの誘惑、迫害、苦難が来ることを語られました(マルコ一三章など)。それは「産みの苦しみ」です。このような終わりの日の苦難は、神の民にとって試練であり誘惑です。その試練に耐えることができず、誘惑に負けて信仰を失うことのないように、わたしたち弱い人間は父に助けを祈り求めないではおれないのです。
 イエスは終わりの日の苦難のことを語られたとき、最後に「目を覚ましていなさい」と警告されました(マルコ一三・三二〜三七)。「目を覚ましている」とは、「今の時をわきまえている」こと、すなわち、今は神の支配が迫っている終わりの時であることを自覚していることです。世界の進歩や繁栄の幻想の中で、また日常生活の安逸の中で、眠り込まないことです。霊が眠りに陥ると、人は霊の次元に無感覚になります。その無感覚の一つの現れが、終末の現実感がなくなることです。誘惑する者はわたしたちを眠りに陥らせようと働いているのです。
 ところで、この祈りの後半の句「悪い者から救ってください」はルカにはなく、マタイが加えたものと見られます。「悪い者」と訳されている名詞は、ここでは所有格で用いられているので同形となり、男性名詞か中性名詞か確定できません。男性名詞だとすると、「悪い者」すなわちサタンを指すことになり、中性名詞だとすると抽象的な「悪」または「悪い状況」という意味になります。イエスの宣教または聖書全体の背景からすると、すべての試練や誘惑の背後には悪の霊の存在が前提されているので、(新共同訳もそうしているように)「悪い者」と理解してよいでしょう。
 霊なる神との関わりが現実的になればなるほど、神に敵対する霊の働きも現実的になります。神の霊によって生きる神の子が直面する戦いは、血肉に対するものではなく、天上にいる悪の霊に対するものです。サタンの策略に対抗して立ちうるためには、神の武具を身につけ、神の力によらなければなりませんが、何よりも大切なことは、いつも目を覚ましていて御霊によって祈ることです(エフェソ六・一〇〜一八)。
 今は「邪悪な日」です。栄光の日が迫れば迫るほど、「悪い者」の働きも激しくなり、神の民は多くの試練・誘惑にさらされることになります。しかし、恐れることはありません。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントT一〇・一三)。

神の子の祈り

 こうして、「主の祈り」は本来きわめて強い終末の迫りの場での祈りです。前半三つの祈りは、父の御名が崇められ、その支配が実現し、父の意志が完全に行われる終わりの日の到来を祈り求め、その成就のために自分の身を投げ出しているのです。後半三つの祈りは、その日を目前にして、その日に自分を生かす糧を今日いただいて、今日一日をその命で生きるように祈り求めないではおられないのです。また、その日に負債を赦されて栄光にあずかることができるように、今赦しの場に身を置いて祈らないではおられないのです。そして、その日の前に臨む大きな試練の火の中で信仰を全うすることができるように、父に助けを祈り求めないではおられないのです。
 しかし、この祈りを日々祈り生涯を貫くとき、この祈りはキリストにあって生きる者の実存の告白となります。キリストにある者は、この祈りを生涯貫くことで、イエスの弟子として生きるのです。キリストにある者は、十字架の場で聖霊を受け、神の子とされています(ローマ八・一四〜一六)。御霊によって、父との親しい交わりに生きられたイエスと共に、わたしたちも「アッバ、父よ」と叫んで、この身を父に委ね、この祈りを生きるのです。これは子とされた者の祈りです。「主の祈り」は神の子の祈りです。
 この「神の子の祈り」は世に向かって、人間の魂の方向が根本的に間違っていることを示しています。人間は自分の手の業の栄光、自分の力の支配、自分の意志と願望の実現ばかりを求めていますが、それが根本的に逆転して、自分ではなく、自分を存在させている方の栄光と支配と意志の実現を求めなければならないのです。そのとき人間は人間として本来あるべき方向に向かっているのです。
 さらに、この「神の子の祈り」は人間がいる場所が根本的に間違っていることを示しています。世界は創造者の裁きという終末に直面しているのに、時《カイロス》を見分けることができず、自分たちの時がいつまでも続くかのように錯覚し、恩恵の場に来ようとしていません。人間は自分の知恵と力で自分の問題を解決することはできず、恩恵の場で賜る神の霊の知恵と力で、お互いに愛し合うことによってのみ将来を持ちうるのです。
 世界の危機的な状況において、イエスが教えられ、キリストにある小さい群が祈るこの祈りが、暗夜の燈火のように、人間の根本的な問題がどこにあるのかを示し、どの方向に解決があるのか、進むべき方向を照らし出しているのです。