市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第34講

第五節 御心が行われますように

わたしの意志ではなく

 「父よ、あなたの意志が行われますように!」。

 イエスはこの祈りによって生涯を貫かれたかたです。これはイエスの祈りです。この祈りは「語録資料Q」にはなく、マタイがここに加えたものかもしれませんが、これがイエスの祈りであることは間違いありません。イエスが生涯を決するもっとも切迫した場面で最後に祈られた祈りがこの祈りであったことを、どの福音書もみな伝えています。イエスはゲッセマネの園で、人間としてもっとも深い苦悩の中で、「この杯をわたしから取りのけてください」と切に祈りながらも、最後には「しかし、わたしが欲することではなく、あなたが欲したもうことが行われますように」と祈って、父の御意志にご自分の命を捧げられるのです。
 そもそも人間は、自分の意志でことを行うところに、その人の人格とか自己が成立します。他人の意志を行って生きているのであれば、その人の人格とか自己はどこにあるのでしょうか。もし、他人の意志を行うことが力で強制された場合は奴隷です。奴隷は主人の意志を行う以外に生きる道はありません。奴隷には自分の意志を持つことは許されていなのです。こうして、奴隷は人間としての尊厳とか人格が否定されるのです。奴隷制度はなくても、力による支配関係があるところでは、大なり小なり自分の意志が否定され他者の意志を行うように強制されます。そこには自分の意志で生きる自由を奪われた者の反発があり、人格間の分裂が生じます。
 しかし、人は自ら進んで他者の意志を行おうとする場合があります。それは、相手を尊敬し、信頼し、愛している場合です。恋人の場合もそうでしょう。自分が無となって、相手の人格の中に自分を見出すことが、真に自分を生かすことだとして、進んで相手の意志を行おうとする場合です。この場合は、一見否定されたように見える自己は、相手の人格の中に生かされているのです。そこには人格間の合一があります。
 イエスは子として父を敬い、信頼し、愛するゆえに、父の意志だけを行おうとされるのです。イエスは自己を空しくして、御自身を父に明け渡されるのです。これがイエスにおける「無」です。「無」とは、自分とか存在が無であると悟る認識の問題ではなく、もはや自分の意志を行おうとせず、父の意志だけを行おうとする意志の問題です。イエスがこのような「無」の境地に生きられたからこそ、「わたしと父とは一つである」という人格の一体性が実現するのです。

愛の実現

 「父よ、あなたの意志が行われますように!」。

 イエスはご自身が命を懸けて祈られたこの祈りを教え、弟子たちもこの祈りに生きるように求められます。では、「父の意志」とは何でしょうか。それはどうして知りうるのでしょうか。神の意志を行おうとする熱意では、ユダヤ教徒も負けてはいません。ただ、ユダヤ教では、神の意志は「律法」に啓示されているとし、律法を行うことを神と民との繋がりの土台にしようとしたこと(律法主義)に根本的な間違いがあったのです。それに対してイエスは、恩恵が神と人との関わりの土台であって、律法を行うことができない「貧しい者」も父の恩恵によって無条件に子として受け入れられているのだと宣べ伝えられたのです。
 では、恩恵によって子とされた者にとって、「父の意志」は何でしょうか。イエスはそれを一言で喝破されました。

 「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。(ルカ六・三六)

 父の無条件絶対の愛から出る恩恵の場に生きる者は、その父の愛をもって生きるように求められているのです。父の愛は、善い者にも悪い者にも太陽を昇らせ雨を降らせるという、相手の資格に絶した無条件の質のものですから、その愛に生きる者は、自分によくしてくれる相手だけでなく、自分を迫害する者、自分の敵でさえ愛するように求められるのです(マタイ五・四四、ルカ六・二七)。
 当時のユダヤ教は数百もある律法を、力を尽くして主を愛することと、自分のように隣人を愛することの二つにまとめていました。イエスもそれを認めて、その二つを一つの戒めとしてもっとも重要な戒めとされます(マルコ一二・二八〜三四)。しかし、イエスの場合、「隣人」は同じ民族や宗教の仲間という枠を超えて、すべて人間である者に及びます(ルカ一〇・二五〜三七)。それは、イエスが生きておられる父の愛が、敵をも愛する無条件絶対の愛だからです。
 父の御心がこのような愛に生きることだとしても、わたしたち人間はその愛を実現することができるのでしょうか。わたしたちは、自分を無条件に愛するときのような無条件絶対性をもって、いかなる隣人をも、敵でさえも愛するということはできません。人間の本性は自己中心、自己追求です。ここに神と人間の本性的な断絶と対立があります。もし人間がこのような絶対の愛に生きることができるとすれば、それは神の御霊を受けて、その御霊に生きるときだけです。
 父の無条件絶対の愛は御霊によってはじめて実現するという消息は、使徒パウロが繰り返し書簡で語っています。わたしのために死なれたキリストを信じることによって、わたしは十字架されたキリストに結ばれて死に、十字架の場で聖霊を受けます。その御霊によって子とされて「アッバ、父よ」と祈り、御霊に導かれて生きるとき、御霊がわたしたちの人生に結ぶ実が「愛《アガペー》」なのです。あの父の無条件絶対性をもつ愛なのです。
 この御霊の愛がわたしたちの内に始まったとしても、わたしたち自身はなお生まれながらの人間本性の中にいます。自己の意志を行うことだけを追求する本性(これをパウロは「肉」と呼んでいます)がなくなってしまったのではありません。わたしたちは御霊に導かれることによって初めて肉を克服し、父の愛に生きることができるようになり、「天の父の子となる」のです。

天におけるように地にも

 「父よ、あなたの名があがめられますように。
  あなたの支配が来ますように。
  あなたの意志が行われますように」。

 わたしたちが聖霊によって「アッバ、父よ」と叫ぶとき、その中にこの三つの祈りが一体となって含まれています。この三つの祈りは、実は一つの祈りの三つの側面なのです。それは、聖霊がもたらす信仰と希望と愛が祈りの形で発現した姿です。
 先に見たように、「あなたの名があがめられますように」という祈りにおいて、祈る者は自分の誠実とか立派さは投げ捨てて、ひたすらキリストにおいて啓示された父の名、すなわち父の無条件絶対の慈愛と信実に自分を委ねているのです。この祈りは「絶信の信」の現れです。
 「あなたの支配が来ますように」という祈りは、聖霊によって神の支配をこの身に体験している者が、その神の支配の終局的な顕現を待ち望む祈りです。それはキリストの来臨を待ち望む祈りと重なり、死者の復活の希望に生きる者の祈りです。これはキリストにある者の「希望」の表現です。
 「あなたの意志がおこなわれますように」という祈りは、父の究極の意志としての愛の実現を祈り求め、そのために自分を捧げていく者の祈りです。聖霊によって父の愛を注がれている者は、そう祈らないではおれないのです。
 この一体としての三つの祈りに、「天におけるように地においても」という句が続きます。これは三つの祈り全体にかかる句です。「天におけるように地においても、あなたの名があがめられ、あなたの支配が到来し、あなたの意志が行われますように」という意味です。

 協会訳(口語訳)はこの句を最後の祈りだけにかかるものとして、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と訳しています。これは文語訳以来の伝統で、日本の教会にすっかり定着しています。しかし、ギリシア語原文では、この句は三つの祈りの最後に置かれていますので、三つの祈り全体にかかるとも、直前の「あなたの意志が行われますように」との祈りだけにかかるとも理解できます。英語などではギリシア語の順序通りに三つの祈りの最後において、どちらにとるかは読者の理解に委ねることができますが、日本語ではどちらかに決めて訳さなければなりません。わたしは三つの祈りが一体であることからして、この句は三つの祈り全体にかかるものと理解すべきであると思います。
 日本語聖書の訳者は、このような場合、最後の文だけにかけて理解する傾向があります。たとえば、ローマ書一四章一七節の「聖霊による」は直前の「喜び」だけにかけて訳されています(文語訳、口語訳、岩波版青野訳)。しかし、この場合、「聖霊による」は先行する「義と平和と喜び」全体にかけて理解すべきです。新共同訳はそう訳しています。
 「主の祈り」の場合、新共同訳は「天におけるように地の上にも」という句を、三つの祈りの最後におくことで、この句が三つの祈り全体にかかるという理解を可能にしています(とくに声を出して唱えるときには)。しかし、句読点の使い方を見ると、訳者はやはりこの句を最後の祈りだけにかけていることを示しています(この事情は岩波版佐藤訳も同じ)。「語録資料Q」にない第三の祈りはマタイが加えたものとされていますので、同じくマタイの付加であるこの句が第三の祈りだけにかかるものとされたのだと思われます。そうであるとしても、「カデシュ」の祈りにおいて、第一と第二の祈りについて「地の上にも」という意味は十分強調されていますから、マタイが三つの祈りにしてその後にこの句を加えたとき、この句が三つの祈り全体を意識して加えられたと推察することは十分可能です。
 マタイがどう意識していたかとか、テキストの伝承がどうであったかは、最後には問題ではありません。わたしたちがどういう内容をこめて「主の祈り」を祈るかが問題です。わたしはこの「天におけるように地にも」という句を、三つの祈り全体にかけて祈っています。

 聖書で「天」というとき、それは「空(そら)」のことではなく、地上の自然界・人間界に対して、霊的諸存在の世界を指しています。万物は「天にあるものと地にあるもの」に分けられます。このような天と地の理解においては、神や聖なる諸霊が住む「天」において神の名があがめられ、神の支配が確立し、神の意志が実現しているように、地の上の人間界でもそうなりますようにという祈りになります。
 このような天と地の理解は空間的であって、ギリシア的世界観の枠組みの中にあります。しかし、ヘブライの世界は本来歴史的であって、つねに時の中で神の啓示が与えられ、神の救済の業が進められます(救済史)。聖書の世界では時間軸を欠くことはできません。それで、この「天におけるように地にも」という句も、時間軸上で理解されなければなりません。この句を時間軸上で理解して祈るとはどういうことか、ここでも以前発表しました『天におけるように地にもー「主の祈り」七講』から引用しておきます。

 人間は地上にいる。すなわち時間の中にいる。「地」とは時間の中の世界である。それに対して「天」とは時間を超えた世界、時間が果てる彼方である。そこでは時間の中で為されたすべての神の業が完成し、時間の中で与えられた啓示がすべて現実となって顕れている。神の名はあがめられ、神の支配は確立し、神の意志は完全に実現している。それは「終末」の事態である。そう理解すると、「天におけるように地においても」という祈りは、終末的現実が時間の中にいるわれわれの中に、今ここで実現しますように、という祈りになる。・・・・「主の祈り」はその全体がきわめて強い終末論的な構造を持っている。すなわち、「神の国」と呼ばれる終末の現実を聖霊によって今自分の内に宿している故に、それが地上の歴史を支え、ついには完全な栄光のうちに顕れることを祈り求めないではおれないのである。「主の祈り」はこのように、イエスと共に、終末を宿す故に終末に向かって身を乗り出して生きている者たちの祈りである。
 終わりの日には、すなわち天においては、父への賛美だけになる。「父よ、あなたの名はあがめられました、あなたの支配は確立しました、あたたの意志は実現しました!」。われわれは地上にあって、終わりの日の栄光が今この身に、そして世界の歴史に実現するように祈るのである、「天におけるように地においても!」と。