市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第33講

第四節 御国が来ますように

神の支配の到来

 イエスは「父よ、あなたの支配が到来しますように」という祈りに生き抜かれました。この祈りは、先に「カデシュ」の祈りとの関連で見ましたように、本来終末の到来を待ち望む祈りであったのです。しかしイエスの場合は、「神の支配」の内容が当時のユダヤ教で待望されていた「神の支配」と異なるため、イエスの弟子がこの祈りに生きることの意味は独自のものとなります。
 当時のユダヤ教にはサドカイ派、ファリサイ派、エッセネ派、ゼーロータイ(熱心党)などさまざまな流れがありましたが、モーセ律法順守の熱意と、神の支配の実現を祈ることでは共通していました。民衆の間では、熱烈な祈りに応えて神がその支配を実現してくださるという終末待望が燃えていました。そのような時代にバプテスマのヨハネが出現して、神の支配が切迫していることを宣べ伝えたとき、イスラエル全土から人々が続々とヨルダン川に来てバプテスマを受け、神の支配の出現に備えたのでした。この事実は当時の終末待望の熱気をよく示しています。
 イエスも「神の支配」を宣べ伝えることをご自分の使命としておられました(ルカ四・四三)。イエスは権威ある言葉で「神の支配」の現実を語り、多くのたとえを用いて「神の支配」のことを解き明かして、人々を「神の支配」に入るように招かれました。当時の状況では、イエスの活動に接した人たちが、イエスも終末的な神の支配が迫っていることを宣べ伝えているのだと理解したのも自然なことでした。たしかに、イエスの宣教にはその時代に向かって神の裁きが近いことを宣言する預言者的な一面があります。マタイもイエスの宣教を、終末の切迫を叫ぶバプテスマのヨハネの宣教と同じ言葉で要約しています(マタイ四・一七)。
 しかし、イエスの「神の支配」宣教には当時の終末待望と決定的に異なる面がありました。イエスは「神の支配」が到来していることを宣言されるのです。イエスは神の御霊を受けて宣教活動を始められたとき、イザヤの「主のめぐみの年」の預言が成就したことを宣言されました(ルカ四・一六〜三〇)。批判する者たちに対して、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の支配はすでにあなたがたのところに来たのである」と言われました(マタイ一二・二八)。「貧しい者は幸いである。神の支配はあなたがたのものである」という言葉を初め、イエスの言葉は到来した神の支配を語っています。イエスのたとえは神の支配が到来していることを指し示しています。時は満ち、花婿はすでに来ているのです。畑は色づき、収穫の時が来ています。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れるときが来ているのです。
 イエスの中に来ている「神の支配」とは「恩恵の支配」です。律法の規準では「罪人(つみびと)」として排斥されるような者も、神は父の慈愛をもって無条件に受け入れてくださっているという「恩恵」を、イエスは宣べ伝え、取税人や遊女を仲間にするという行動で示されるのです。このような「恩恵の支配」を宣べ伝えるイエスを、律法順守を神の民の規準として固執するファリサイ派の人たちは憎み、ついにはローマの支配者に引き渡して処刑してしまうのです。イエスの十字架の死は、「恩恵の支配」の宣教を貫くためにイエスが命を捧げられた出来事であり、義なる神が「恩恵の支配」を貫かれるために必要な贖罪の完成であったのです。十字架はイエスが命をかけて祈られた「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りであったのです。

主イエスよ、来たりたまえ

 イエスはご自分の中に「神の支配」が聖霊によって現実に来ているからこそ、「神の支配」を拒む世界の中で、「父よ、あなたの支配がきますように」と命をかけて祈られたのです。そのように、わたしたちも聖霊によって復活者キリストと共に生きているゆえに、「主イエスよ、来たりたまえ」と祈らざるをえないのです。
 神はイエスの十字架によって罪の支配を打ち砕き、イエスを復活させることによって死の支配を打ち破ってくださいました。「主イエス」とは復活者キリストとしてのイエスのことです。その「主イエス」が来てくださるとは、復活の現実が顕現すること、すなわち、死の支配を打ち破られた神の支配が顕現することです。わたしたちは、この死に定められた体の中にあって、死者の復活にあずかり、神の栄光にあずかる希望をもって呻いています(ローマ書八章)。その呻きが「主イエスよ、来たりたまえ」という祈りになるのです。
 主イエスは言われる、「見よ、わたしはすぐに来る」。その御約束に応えてわたしたちは祈ります、「主イエスよ、来たりたまえ!」。わたしたちキリストにある者においては、この祈りが「父よ、あなたの支配が来ますように」という祈りと重なり一つとなって、死の体の中で呻いている自分の救いの顕現を、そして全世界、全宇宙の完成を祈る祈りとなるのです。こうして、この祈りはわたしたちの希望の告白となるのです。