市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第26講

第二節 施しについて

 「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」。

(六・二〜四)


 施しとか喜捨はどの宗教でも、たんに貧者や困窮者に対する親切な援助の行為としてではなく、その宗教の信心とか敬虔の表現として重視されています。「施し」というのは、教団への制度的献金(ユダヤ教では収入の十分の一を献げました)ではなく、金品や資産を貧しい人たちに自発的に与える行為です。この「施し」は、仏教用語の「喜捨」が示しているように、喜んで(自発的に)自分を捨てて他者に仕える心の表現として、ユダヤ教でも神に喜ばれる敬虔の業とされ、神から祝福を受け、自分の救になる根拠とさえされていました(イザヤ五八・六〜一二、箴言一一・四〜六、一八〜一九、その他タルムード「サバト」一五一などラビ文献)。

 箴言(一一・四〜六、一八〜一九)で「慈善」と訳されている語は、ヘブライ語聖書では《ツェデカー》で、ふつう「義」と訳される語です。ギリシア語訳旧約聖書では、この「義」《ツェデカー》が、しばしば「憐れみ」を意味するギリシア語で訳され、「憐れみを行う」という表現が慈善とか施しの意味で用いられました。このような用語法から、マタイが「施し」を「義を行う」こととして扱うユダヤ教的背景が理解できます。

 律法学者やファリサイ派の人々が施しをするときに、「会堂や街角で自分の前でラッパを吹き鳴らす」というようなことは、実際にはなかったようです。しかし、会堂などで公に約束されたり、高額の場合はラビの横に座ることが許されるなどの栄誉を受けることはあったようです。「ラッパを吹き鳴らす」というのは、何かを公に告知するために人々を集める行動です。ここでは、施しを人目につくようにしようとする彼らの意図を、劇的に表現するために用いられています。
 自分の施しを人に見られるように行う者は、人からの誉れという「報いを既に受けている」のです。「あの人は信心深い立派な人だ」という評判を得るという形で、社会で報いを既に受けているのです。ということは、神から受ける報いはないことを意味しています。
 それに対して、イエスの弟子は施しをするときに、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」のです。この格言的な表現は、すぐ後に続く「あなたの施しを人目につかせないためである」という言葉が説明しているように、自分の体の一部のように身近な人にも知らせるな、という意味に理解してよいでしょう。ここの文脈では、自分が憐れみを行っているのだという意識すら持たないで行え、という心情にまで立ち入って解釈する必要はないでしょう。しかし、わたしたちが無条件の恩恵の場に生きる者であるという姿を徹底していけば、特に「施しをしているのだ」とか「義を行っているのだ」という意識なく、自分を捨てて他者に奉仕することが、自然に流れ出ることになります。そのとき、「右の手のすることを左の手に知らせない」という言葉は、自分が自分の価値や功績を知ろうとしない自己否定の姿とか「無」の立場を表現する句になるでしょう。こうして、恩恵の場に徹することによって、マタイが報償思想を前提にして語る勧告以上に深く、イエスのお心に近い生き方をすることになると思います。
 このように、人に見られないで隠れた形で施しをすれば、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のです。神が「隠れたことを見ておられる神」であることは、ダビデに油を注いだときサムエルが「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上一六・七)と言ったとき以来、代々の預言者に教えられてイスラエルはよく知っていました。それにもかかわらず当時のユダヤ教が、とくにその代表者ともいうべき律法学者やファリサイ派の人々が、人目につくような形で敬虔の業(具体的には律法順守の行為)の熱心さを競うようになっていたことを、イエスは厳しく批判されるのです。
 隠れてなされる施しは、「隠れたことを見ておられる父が報いてくださる」のです。その報いは、人から受ける報いのように、目に見える形で来るのではなく、わたしたちの存在の見えない次元、すなわち霊の次元に与えられます。それは「隠れたところにおられる父」が「隠れたわたし」に与えてくださる報いです。そして、この報いこそ、わたしたちの内にあって生きる喜び、存在する喜びとなって、根底から生を支え、豊かにする力となるのです。
 最近、「ボランティア」ということがよく言われるようになりました。ボランティア活動に携わる人たちが、「人を助ける活動を通して、自分が生きる喜びを見出すことができた。本当に助けられたのは自分の方です」と言われるのをよく聞きます。「ボランティア」というのは報酬なしで自発的になされる(金品ではなく自分の能力を捧げて行われる)奉仕活動のことですから、ボランティア精神に徹して行われる奉仕は、社会的な報酬は伴わない分、「隠れたところにおられる父」から報いを受けているのです。どの宗教に属する者であれ、そのような人はイエスの精神に近く生きている人だと言えます。