市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第23講

第六節 悪人に手向かうな

 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」。

(五・三八〜四二)

マタイの編集

 イエスの教えの言葉の中でもっとも強烈な印象を与える言葉は、「敵を愛せよ」という言葉です。弟子たちもこの言葉をイエスの教えの核心であると理解していたことは、この言葉がイエスの「語録資料」の最初に置かれていることからも分かります。愛敵の言葉が「語録資料」の最初に置かれていたことは、ルカ福音書で貧しい者への「幸いの言葉」の直後に「敵を愛しなさい」の段落(ルカ六・二七〜三六)が来ていることからも、十分推察できます。

 B・マックも『失われた福音書』において「Qの教本(オリジナル版)」を復元するさい、最初に貧しい者、飢えている者、泣いている者への三つの幸いの言葉を置き、その直後に敵を愛しなさいというルカの段落を続けています(邦訳一〇四頁)。

 ルカは「幸いの言葉」に続く段落を、「敵を愛しなさい」という言葉で始め(六・二七)、同じ「敵を愛しなさい」という言葉で結んでいます(六・三五)。そしてその間に、頬を打つ者にもう一つの頬を向けよとか、上着を奪う者に下着を与えよとか、何も当てにしないで貸しなさいというような言葉を置いています。ルカにとっては、このような具体的な教えはみな「敵を愛せよ」という教えの中に含まれているのです。おそらく「語録資料Q」においてもそのような形で伝えられていたのでしょう。ところがマタイは、その愛敵の言葉を二つの「対立命題」に仕上げます。まず敵を愛する行為の消極面として、悪に対して悪をもって対抗することを禁じ(三八〜四二節)、次に敵を愛する行為の積極面として、悪に対して善をもって報いるように促します(四三〜四八節)。そして、それぞれの命令にユダヤ教徒にとって当然とされている言葉を対立させて対立命題の形に整え、イエスの教えの独自性を際だたせます。こうして、ルカにおいて(そしておそらくQ資料において)一つである愛敵の言葉は、マタイにおいては二つの対立命題の形をとり、ユダヤ教に対立するイエスの教えのクライマックスとして、対立命題集の最後に置かれることになります。
 マタイは、「語録資料Q」にある「頬を打つ者に他の頬をも向けよ」とか「上着を奪う者に下着をも与えよ」というきわめて印象的な具体的表現を、「悪人に手向かうな」という原理的な表現にまとめ、それに対立する古い戒めとして「目には目を、歯には歯を」というイスラエルの民に周知の法を置きます。
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている」というのは、旧約聖書の次のような箇所が考えられているのでしょう。

 「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。(レビ記二四・一九〜二〇、他に申命記一九・二一) 

 人に傷害を与えた者は、与えた傷害と同じ傷害をもって罰せられるという法は、「同害報復法(レックス・タリオーニス)」と呼ばれ、古代社会に広く認められ行われていた法でした。イスラエルにおいても、ここに見たように、神の正義の要求として神の律法の中に取り入れられていたのでした。この法は本来、傷害を受けた者が相手に限度を超えた復讐をすることを制限するための法であったと言われています。傷害を受けた者は、レメクの場合に見られるように(創世記四・二三〜二四)、自尊の感情から、受けた傷害の何倍もの害を与えて復讐しがちです。原始社会において際限のない復讐の悲劇を避けるために行われた「同害報復」(タリオ)の慣行が、公の刑罰においても適用されたものが上記の法文です。
 この法の背後には、悪を受けた者は、その悪の範囲内という量的制限はありますが、相手に悪を報い返しても当然であるという考えがあります。それに対してイエスは、「しかし、わたしは言う。悪人に手向かってはならない」と言って、悪に対抗して相手に悪を行うことを全面的に禁じられます。「悪人に手向かってはならない」という言葉が、イエスから出た言葉か、あるいはマタイがイエスの言おうとされたことをまとめた言葉かは議論がありますが(ルカにはこの言葉はなく、語録資料にもなかったと考えられます)、以下の頬や下着についてのイエスの言葉から、イエスが言おうとされたことに間違いないと十分推論されます。

マタイの状況

 頬を打つ者や上着を奪う者についての言葉は、「悪人に手向かってはならない」という一般的原理的表現よりもはるかに劇的具体的で印象深く、イエスの語り方の独自性をよく示しています。マタイとルカとは同じイエスの言葉を伝えていますが、よく見ると微妙な違いがありますので、両者を比較してマタイの特色を見ておきましょう。ルカは次のように書いています。

 「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」。(ルカ六・二九〜三〇)

 ルカはただ「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」と書いていますが、マタイは右と左の区別を加えて、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」としています。人を平手打ちする場合、普通は利き腕の右手で打ちます。その時、相手の右の頬を打つには手の甲で打たなければなりません。ユダヤ人社会では手の甲で打たれることはひどい侮辱を意味していました。ユダヤ人読者には、「右の頬を打たれる」とは痛みよりも侮辱を受けることが問題でした。それに対して「左の頬をも向けなさい」というのは、その侮辱に対して侮辱をもって報いることなく、侮辱を甘受せよということです。
 また、ルカは「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」と書いています。これは強盗が衣服を強奪する状況です。その場合、まず上着から剥ぎ取ります。上着を力づくで奪う者に、力づくで対抗してはならない、抵抗せず下着をも取らせなさいというのです。それに対してマタイの表現は訴訟の場面です。法廷で下着を差し押さえられた者は、「上着を質にとってはならない」という法を根拠に抵抗することなく、上着をも差し出しなさいというのです。
 イスラエルの貧しい人々にとって上着は唯一の夜具でもありました。それでモーセ律法は次のように規定しています。

 「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」。(出エジプト記二二・二五〜二六)

 さらにマタイは、「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」という、ルカにない一文を加えています(一ミリオンは約一・五キロの距離)。「強いる」というのはローマの支配下にあるユダヤ人の状況を背景にしています。ローマの軍隊や官憲はユダヤ人に随時に物資の運送などの強制労働を課することができました。もし権力者が物を運ぶなど一ミリオンの道のりを行くことを強制したら、強いる者と一緒に進んで二ミリオン行きなさいというのです。

 こうして比較してみると、ルカがいつどこでも起こりうる一般的な状況を描いているのに対して、マタイはマタイの時代のユダヤ人社会の状況を背景にして書いていることが分かります。この一段の言葉を、イエスが語られた三〇年代からマタイがその福音書に書き記した八〇年代までの約五〇年間のユダヤ人の歴史の中に置いてみますと、その重要性がさらに明らかになります。この五〇年間はユダヤ人のローマに対する抵抗運動が燃え上がった動乱の時期でした。その動乱は七〇年のエルサレム陥落によって破滅的な結末を迎えますが、その後も混乱は続き、二世紀始めの第二次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)に至ります。この時期にはユダヤ人社会はだんだんと、ローマの支配を武力をもって覆すことが律法に忠実なユダヤ人の使命であるとする「ゼーロータイ(熱心党)」のイデオロギーに傾いて行きます。もっとも敬虔な一派とされていたエッセネ派もローマに対する武装蜂起に巻き込まれて行きます。そのような流れの中で、イエスの弟子たちの群れは、この一段に伝えられている言葉を担って、まったく異なった非暴力の道を歩むことになります。その結果、イエスの弟子たちはユダヤ人社会で孤立し、「ゼーロータイ」の一派が実権を握った時期(エルサレム陥落直前の時期)には厳しく弾圧されることになります。この時期のユダヤ人にとって、イエスの言葉に従い非暴力・無抵抗の道を歩むことは、イエスの弟子の確かなしるしであり、命がけの道であったのです。

求める者には与えよ

 最後にルカもマタイもこの一段を「求める者には与えなさい」という言葉でまとめています。ただルカは、それを「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」という表現で、強奪する者に対する状況で描き、マタイは「あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」と、貸借という法律関係で表現しています。これは、ルカとマタイにそれぞれ先に出てきた強盗の場面と訴訟の場面が続いているからでしょう。
 「求める者には与えなさい」という言葉で、イエスが無条件・無制約に与えることを求められるのは、イエスが「だれでも、求める者は与えられる」(マタイ七・八)という無条件の恩恵の世界に生きておられるからです。イエスの父は、だれでも求める者には資格や価値を問わないで、無条件・無制約に良いものを与えてくださる方です。そのような無条件の恩恵の世界に生きる者は、求める者には無条件で与えることが当然である場にいるのです。
 マタイは、「悪人に手向かうな」という言葉で始めたこの段落を、「求める者には与えよ」という積極的な命令で結びます。この結びは、「左の頬をも向けよ」とか「上着をも取らせよ」とか「二ミリオン行け」という、一見消極的な無抵抗の姿勢の背後に、だれに対しても溢れるように与えてやまない積極的な恩恵の世界の生き方があることを指し示しているのです。こうして、この結びの言葉は自然に次の「敵を愛せよ」の段落に導いて行きます。