市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第20講

第三節 殺すな

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。

(五章 二一〜二六節)


 この段落には三つの主題が集められています。
一 怒り・罵りへの裁き 二一〜二二節
二 供え物の前の和解  二三〜二四節
三 裁判の前の和解   二五〜二六節
 ここでは個々の主題を正確に理解すると共に、全体の内的関連と統一を理解するようにしなければなりません。

怒り・罵りへの裁き

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」。(二一節)

 「殺すな」という命令はモーセの「十戒」の中の一つで、もっとも基本的な神の戒めです。これは人間にとって根本律であって、どの民族の宗教でも、どの国の法律でも、この戒めを根本に据えないものはありません。この根本律を犯す者は、「裁きを受けて」その民から排除されるのです。そのことはイスラエルの律法ではこう規定されていました。

 「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」。(出エジプト記二一・一二)

 過失によって人を殺した者については、被害者の近親者による「血の復讐」から守るために、「逃れの町」の制度が定められていました(民数記三五・九〜二九)。しかし、故意の殺人者は「殺害者」として必ず処刑されなければなりませんでした(民数記三五・一六〜一九)。これがモーセ律法の定めです。
この定めはどの国の刑法とも同じ次元のものですが、イスラエルにおいて「裁きを受ける」と言うときには、神の裁きを受けて滅びに定められるという面があります。故意に人を殺す者は、神の裁きにより神の民から断たれ、滅びに定められるのです。刑法による処刑は、神の民から断たれることの目に見える形でした。

 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」。(二二節a)

 それに対して、イエスは「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言われます。故意に人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者はだれでも「裁きを受ける」のです。この場合の「裁きを受ける」は、刑法の判決処刑ではなく、神の裁きによって神の民から断たれることです。人を殺す者が神の民から断たれるのは、すでにモーセ律法も明確にしています。今イエスはモーセ律法を超える別の「神の支配」を宣言されるのです。人を殺す者だけでなく、兄弟に「腹を立てる」者も同様に、神の民から断たれると宣言されるのです。

 この箇所(二二〜二四節)には「兄弟」という用語が繰り返し使われています。この語はすでに旧約聖書とユダヤ教において、普通の肉親の兄弟より広い範囲の人間関係を指すのに用いられています。共通の先祖から出た子孫として、同じ部族の者が「兄弟」と呼ばれ、されに広くイスラエルに属する者がこの語で呼ばれています。それでこの語は、イスラエルの民の内部という限度内ではありますが、広く「隣人」の意味でも用いられるようになっていました。また、イスラエルの中に特定の信条を持つ宗団が形成されたときには、「兄弟たち」という複数形は同じ信仰の仲間を指し、「兄弟」は同じ信仰共同体の構成員を指す場合もありました。エッセネ派の死海文書も、「兄弟」という語を自分たちの共同体のメンバーを指す用語として使っています。マタイが資料として用いた「語録資料Q」も、仲間を「兄弟」と呼んでいます。

 このように旧約聖書やユダヤ教の「兄弟」という用語に親しんできたユダヤ人信徒たちは、イエスが自分の言葉を聴いて従う者を自分の「兄弟」と呼ばれた(マルコ三・三一〜三五)こともあって、イエスを信じる仲間を自然に「兄弟」と呼び合ったと考えられます。そして、多くの異邦人がイエスを信じる交わりに入ってきたとき、この語はユダヤ人という民族の枠を超えて、同じ信仰に生きる仲間、すなわちキリスト教共同体の構成員を広く指す用語になっていったのでした。パウロはその手紙の中で、信仰の仲間に呼びかける時もっぱらこの「兄弟」という語を用いています。
 マタイがこの箇所で「兄弟」という語を用いるとき、どのレベルの意味で用いているのかは議論の余地があるかもしれません。たとえば、マタイは自分の共同体の中での交わりの在り方を念頭において「兄弟」という語を用いている可能性も否定できません。しかし、「対立命題」を今われわれの問題として理解しようとする視点からは、もっとも広い「隣人」という意味、すなわち今何らかの関わりにある相手という意味で理解しておけばよいのではないかと思います。
 「腹を立てる」と訳されている動詞《オルギゾマイ》は、《オルゲー》(怒り)から出た動詞です。兄弟に向かって怒りの心をもって対することです。実際に人を殺すとか傷を負わせる行為に出なくても、心の内に怒りをもつときは、イエスが宣べ伝えられる「神の支配」では「裁きを受ける」のです。この場合の「怒り」は、憎悪や嫉妬なども含め、相手に対する敵意全般を意味すると理解すべきでしょう。この「対立命題」においては、実際の行動だけでなく、その行動の源になる人間の内面の姿が問題にされていることは明らかです。
 では、イエスのお言葉は、行動を問題にするモーセ律法に対して、心という人間の内面の在り方を問題にする倫理を対置しているのでしょうか。もしイエスの言葉が倫理の内面化の提唱というだけであれば、それは様々な国の多くの賢者も主張していることであって、とくに新しいものではありません。イスラエルにおいても、知恵文学やラビの訓戒の中に、よく似た言葉が多く伝えられています。二つだけ例をあげますと、ラビのエリエゼル・ベン・ヒュルカノスの言葉として、「自分の隣人を憎む者は、見よ、その者は血を流す者に属する」という文が伝えられており、また、スラブ語エノク書(四四・二)には、「だれにであれ、害は及ぼさないものの、怒りを加える者は、その者を主の怒りが刈り取るであろう」と書かれています。
 たしかに、この「対立命題」のお言葉を全体から切り離して観察しますと、倫理の内面化を提唱しているだけで、イスラエルの賢者や他国の知者と同じように見えます。しかし、先に見ましたように、個々の「対立命題」は愛敵の教えに具体化する「恩恵の支配」の視点から理解されなければなりません。この「兄弟に対して怒る者は裁きを受ける」というお言葉も、「恩恵の支配」の一つの具体例として見ますと、その意味を正しく位置づけることができると思います。
 自らは神の前に立つ資格も功績も何もない者として、ひたすら神の無条件絶対の恩恵に身を投げ入れて生きるしかない者が、もし同じ神の恩恵によって生きている隣人に向かって怒りの心を燃やすならば、それは自分を価値の規準にして、自分を裁く者の立場に置いていることになります。それは、仲間を赦さない家臣のたとえ(マタイ一八章)が語っているように、自分自身を神の無条件絶対の恩恵の支配から追い出すことです。そのように恩恵の支配から追い出される事態を、イエスは対立を際だたせるためにモーセ律法と同じ用語を用いて、「裁きを受ける」と表現されるのです。

 「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」。(二二節b)

 「ばか」と「愚か者」という罵りの言葉を、原語に遡って違いを詮索し、罪深さの程度の違いを考えることは意味がないでしょう。両方とも相手に対する侮蔑の心から出る言葉であって、それを発する者の心の傲慢を暴露しています。このような罵りの言葉は、相手の価値と存在を認めない独りよがりの高慢に他なりません。このような傲慢は、事情によっては相手を抹殺する非人間的な行動にもなるのです。このような傲慢は恩恵の支配とは両立しません。厳しく排除されざるをえません。その排除の厳しさが「最高法院に引き渡される」とか「火の地獄に投げ込まれる」という表現になります。
 「裁きを受ける」の「裁き《クリシス》」を地方の法院(裁判所)と解釈し(これは不可能ではありませんが無理があります)、地方法院、地上の最高裁判所である最高法院、神の審判である地獄、というように裁きのレベルがだんだんと上がっていくと解釈することは、怒りと二つの罵りの言葉には罪深さの程度に質的な違いがあるとは認められませんから無理でしょう。むしろ、「最高法院」とか「火の地獄」という表現は、「裁きを受ける」ということを具体的に強烈に印象づけるために、ユダヤ人読者に馴染み深い表現を使用したものと見られます。
 怒り、憎悪、嫉妬、軽蔑、傲慢などは、人間が自己を価値の規準として相手の価値と存在を否定する在り方から出る心の姿です。このような在り方は恩恵の支配の場ではありえないものとして厳しく排除されるのです。この第一の「対立命題」は、たんなる倫理の内面化ではなく、「恩恵の支配」の告知の一つの形です。

恩恵の場での和解

 「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。(二三〜二四節)

 この語録はマルコにも「語録資料Q」にもなく、マタイだけが持っていた特殊資料から採られたものです。神殿祭儀が前提されていることから、これは七十年より前に遡る古い伝承であることがうかがわれます。さらに、意表を突くような具体的な語り方は、イエスの口から出た言葉であることを感じさせます。

 この文は「だから」という語で先行する「対立命題」と結び付けられています。兄弟に対して怒りの心をもって対することが裁きをうけるのですから、兄弟といつもよい関係を維持していなくてはなりません。関係が悪化して、兄弟に対して怒り立腹するような状況では、神に受け入れられることはできないからです。
 ところで、自分が兄弟に対して怒りの心で対するだけでなく、相手が自分に「反感を持っている」場合も、よい関係を維持することはできません。その反感の原因が何であれ、兄弟との関係が敵対関係にあるままでは、祭壇に供え物を献げても神に受け入れていただくことはできない、というのです。その時には祭壇の前から立ち去って、まず敵対関係になった原因を取り除く努力をして兄弟と仲直りし、それから帰って来て供え物を献げなさい、というのです。
 このお言葉は、隣人との関わりが神との関わりと不可分の関係にあることを示しています。隣人と敵対関係にあるままでは、神への賛美とか祈りの献げ物は成り立ちません。それは、献げ物をする者、祈る者が、祈りが成り立つ場である恩恵の場にいないからです。
 そもそも祈りは人間が、これだけの献げ物をしましたとか、これだけの善行をしましたというような自分の功績とか資格に基づいて神に要求することではありません。要求する資格は何もない者が、神の無条件の恩恵に自分を委ねる行為が祈りです。祈りは恩恵の場において初めて成り立つのです。ところが、わたしたちが隣人と敵対関係にある場合には、その原因がどちらにあるにせよ、自分の価値に基づいて相手と対立し否定しているのですから、恩恵の場とは違います。恩恵の場に生きる者は、自分をゼロとする立場で相手を無条件に受け入れるのです。それが受動的には「赦し」となり、能動的には「愛敵」となって現れるのです。ですから、イエスは祈るときに人を赦すことを求められるのです(マルコ一一・二五、マタイ六・一四〜一五)。それは恩恵の場で祈ることを教えておられるのです。
 そうすると、ここで献げ物よりも「まず」先に兄弟と仲直りをするようにと求められるのも、自分の価値や功績に立つ場ではなく、恩恵の場で祈るように教えておられるのであることが分かります。

 「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」。(二五〜二六節)

 兄弟と「仲直り」をするようにとのお言葉に引き寄せられて、マタイは訴える者と「和解」するようにとのお言葉を続けます。しかし、このお言葉は本来終末的な最後の審判を前にして、それまでに神との和解をするように呼びかける宣教の言葉であったと考えられます。「クァドランス」というのはローマの青銅貨で、現在の日本の通貨でいえば百円玉くらいの価値の少額硬貨です。「最後の一クァドランスを返すまで」獄から出ることができないというのは、人間が罪の責任を自分でとらなければならない時の、神の裁きの厳しさを表現しています。
 もし和解しないままで神の終末審判の場に引き出されるならば、わたしたちは誰ひとり負債をすべて払いきることができる者はいないのですから、永遠の滅びに定められます(マタイ一八・二五、三四参照)。だから「途中で」、すなわち最後の裁きの時が来るまでに、提供されている神の和解を受けるようにとの呼びかけです。それは、用語や形式は違いますが、パウロが次のように呼びかけているのと同じです。

 「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧められておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。(コリントU五・一八〜二〇)

 この二五〜二六節の言葉は「語録資料Q」に含まれており、ルカはそれを時代の徴を見分け、時をわきまえるようにとのお言葉の直後に置いて、明らかに終末的な審判の告知と和解の勧めの言葉としています(ルカ一二・五四〜五九)。これが「語録資料Q」での本来の文脈であったと見られます。マタイはこの和解の勧めの言葉をこの位置に置くことによって、供え物よりも先に兄弟と仲直りをする必要性を根拠づけ、さらに強調する言葉とするのです。
こうして見てきますと、三つの主題を含むこの段落は、恩恵の場における和解によって敵意そのものを滅ぼし、そうすることで「殺すな」という律法の下に成り立つ義よりもはるかに勝る義を提示しているわけです。