市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第19講

第二節 しかしわたしは言う

対立命題

 前置きに当たる箇所(五章一七〜二〇節)で、イエスの弟子に「ファリサイ派の人々にまさる義」を求めたマタイは、その義がどのようなものであるかを、以下の「山上の説教」全体で示そうとします。そして、まず中核部とも言うべき箇所(五章二一〜四八節)で、六つの「対立命題」という形で「ファリサイ派にまさる義」を提示します。
 「対立命題」(アンティテーゼ)というのは、まず(言葉遣いは六つの場合少しずつ違っていますが)「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・・と命じられている」という形で、ファリサイ派が代表するユダヤ教の旧い義の規準が提示され、それと対立する形で「しかし、わたしはあなたがたに言う」という言葉で導入される命題によって、イエスの弟子に求められる新しい義の規準が提示される形式のことです。「対置命題」と呼んだ方が分かりやすいかもしれません。
 「(昔の人は)・・・・と命じられている」という受動態を能動態で表現すると、「神が(昔の人にモーセを通して)・・・・と命じておられる」となります。それと対置してイエスは「しかし、わたしはあなたがたに言う」と言われるのです。これは自分の発言を、神がモーセによって語られた(とされる)戒律命令と同列に置くか、それ以上のものとすることで、ユダヤ教では前代未聞のことです。
 しかもその内容を見ますと、「対立命題」の第一と第二はモーセ律法の戒めを深化または尖鋭化していると理解できますが、第三以下のものはモーセ律法とは別の生き方を命じている、すなわちモーセ律法を無効にして別の戒めを与えているとも理解できます。このような発言をする方はいったい誰かという問いが真剣な問題になります。
 「対立命題」という形式に構成したのはマタイであると考えられますが、その背後にはイエスご自身の言葉があります。イエスは重要な発言をされるときに繰り返しこう言っておられます。
 「アーメン、わたしはあなたがたに言う」。
この発言では「わたし」が強調されています。イエスが活動されたユダヤ教世界を背景としてこの言葉を聴くとき、直接言及されてはいませんが、この発言はモーセの律法に対置して、新しい別の啓示の言葉を導入していることになります。イエスのこの発言は、モーセ律法が支配する時代に代わる新しい時代の始まりを宣言しているのです。マタイが「アーメン」を「しかし」に変えて「対立命題」という形に構成するとき、イエスの発言のこの隠された意味を明らかにしているのだとも言えます。
 では、一見モーセ律法を(少なくとも一部は)廃していると見えるイエスの教えを、なお「律法を廃するのではなく完成する」ものとするマタイの宣言はどう理解すべきか、これが「対立命題」理解の課題となります。

対立命題理解の視点

 さて、ここに挙げられている六つの「対立命題」の主題は次の通りです。
一 殺人(二一〜二六節)
二 姦淫(二七〜三〇節)
三 離婚(三一〜三二節)
四 誓い(三三〜三七節)
五 復讐(三八〜四二節)
六 愛敵(四三〜四八節)
 こうして並べて見るとすぐ分かるように、この六つの主題は人生の代表的な重要問題ですが、すべてを尽くしているのではありません。マタイはここで、人生のすべての局面にわたって適用される行動規準として、旧い律法に代わって新しい律法を公布しようとしているのではありません。マタイはここで、旧い義に対して新しい義の性質がどのようなものであるかを示そうとしているのです。それを六つの代表的な事例で示そうとするのです。その中でもとくに最後の「敵を愛しなさい」という教えは、新しい義の内容を最も直接的に示す典型的な場合であると思います。そして、敵を愛する根拠としてその段落の最後にあげられている次のイエスの言葉は、六つの「対立命題」の段落の頂点をなすとともに、それによってマタイが示そうとしている新しい義の内容そのものであり、その義が成立する根拠をも指し示しています。

 「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。(五・四八)

この御言葉については先に「幸いの言葉」の講解で触れましたが、「対立命題」の理解のために重要ですので、繰り返しになりますがここでもう一度取り上げます。
 マタイの「山上の説教」に相当するルカ福音書の「平地の説教」では、「幸いの言葉」のすぐ後に、複数の「対立命題」ではなく、「敵を愛しなさい」という一つの段落だけが来ます(ルカ六・二七〜三六)。その段落は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」という主題提示で始まり、奪う者から取り返すなとか、返してもらうことを当てにしないで貸しなさいという具体的な教えが続き、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」という結びの言葉で終わります。
 マタイと比べて、「幸いの言葉」のすぐ後に「敵を愛しなさい」という御言葉だけを置くルカの構成の方が、元の「語録資料Q」の形に近いと考えられます。この段落の御言葉は、その内容も表現もイエスの宣教の独自性をもっとも強く示しており、聴く者に圧倒的な印象を刻み込む性質のものです。それで、イエスの御言葉が語り伝えられ「語録資料」としてまとめられるとき、イエスの強烈な福音宣言である「幸いの言葉」の直後に、これがイエスの教えだとして、まず最初に置かれたと推定されます。ルカは比較的忠実にこの「語録資料」の構成に従って自分の福音書を書いたと考えられます。
 それに対してマタイは、この愛敵の御言葉に圧倒されながらも、それによってイエスが示される新しい義を六つの「対立命題」という形に再構成して提示します。マタイがこのように新しい義をユダヤ教の旧い義と対比する形で示さなければならなかったのは、自らファリサイ派的な背景をもつ律法学者として、敵対するユダヤ教陣営と戦い、同時にイエスの宣教を律法の完成として身内のユダヤ人信徒に示そうとするマタイの執筆事情からして十分理解できます。「対立命題」という形がマタイから出たものであるという理解は、個々の「対立命題」の解釈は、あくまで「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」というイエスの根本精神によってなされなければならないこと、すなわち後に詳しく見るように「恩恵の支配」の場で解釈されなければならないことをわたしたちに指し示しています。
 さて、問題の「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というマタイの言葉を、同じ文脈に置かれているルカの言葉、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と比べますと、文章の形は同じですが、ルカの「憐れみ深い」という形容詞がマタイでは「完全な」になっていることが目立ちます。この言葉に先行する部分の結びの言葉として読むとき、「憐れみ深い者であれ」というルカの表現の方が自然に続きます。それに、マタイが「完全な者になれ」と言い換えたことは、以下に述べるようにマタイが「対立命題」という形でイエスの教えを再構成したことの結果として十分説明ができますので、ルカの形が元の「語録資料Q」の用語に忠実であり、イエスの本来の言葉に近いと判断できます。
 マタイはイエスの愛敵の精神を六つの「対立命題」に敷衍展開しました。その結果、その頂点として最後に置いた愛敵の教えのまとめの言葉が、同時に六つの「対立命題」全体の結論となります。それで、「憐れみ深い」という人間の心の一面だけを指すと理解される可能性のある表現よりも、律法の完成を表現する言葉として、またファリサイ派にまさる義を指し示す言葉として、「完全な」という言葉を選んだと考えられます。しかし、「憐れみ深い者であれ」というきわめて特色のあるイエスの言葉を放棄することはできません。それで、マタイはそれを「幸いの言葉」の一つとして取り入れ、「憐れみ深い者は幸いである」という形で、憐れみ深くあることを説き勧めるイエスの言葉を保存するのです。

完全な者

 さて、イエスがわたしたちに「憐れみ深い者であれ」と求められるとき、「あなたがたの父が憐れみ深いように」という事実が先行します。そして、父が憐れみ深い方であることは、先行するきわめて印象深い言葉で語られています。

 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」。(五・四五)

 ルカはこれに相当する箇所で、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」(ルカ六・三五)と書いていますが、これは意味内容は同じですが、表現がやや一般化されており、抽象的になっています。この語録に関しては、ルカよりマタイの方がイエスの具体的な語り口をよく伝えていると考えられます。
 太陽が昇り雨が降るという自然現象は誰もが日常見ています。ところが、イエスはそれを父の完全さを指し示すしるしとされるのです。同じ現象を見ていながら、わたしたちはそれを単なる自然現象として見ていますが、イエスはそれを霊の次元の現実を指し示すしるしとされるのです。それは、イエスがその現象が指し示す霊の現実、すなわち父の絶対無条件の恩恵の中に生きておられるからです。
 このようなつながりからして、マタイが用いている「完全」という用語の意味は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエスの言葉が指し示している内容、すなわち「絶対」の意味に理解しなければならないことが分かります。ここで「絶対」というのは「相手に絶する」という意味です。相手が自分に対して善人であるか悪人であるか、自分の仲間であるかないか、正しい者か正しくない者か、恩を知る者か知らない者か、好意を持つ者か悪意を持つ者か、そのような相手の在り方とか出方に絶して(無関係に)、こちらからは善だけをもって対することです。「絶対の善」という意味で「完善」と言った方が分かりやすいかもしれません。
 「絶対」は「相対」の反対です。ふつうわたしたちは相手の在り方とか出方に相応した態度で、相手に対します。善いことをしてくれる相手には善いことをし、悪いことをする相手には悪を報いるという「相対」の原理で対しています(五・四六〜四七)。そのようなわたしたちに、イエスは父が「絶対」であるように、「絶対」の善ないし愛を求められるのです。その絶対の善とか愛の究極の形、もっとも具体的な形が「敵を愛する」ことです。敵とは明白な悪意をもって対してくる相手です。その敵を愛し善をもって対するのです。
 敵を愛するというようなことは、人間にできることでしょうか。そうです、それは人間にはできないことです。人間にできないことを、イエスは父の絶対性の中に、すなわち絶対無条件の恩恵の支配の中に包み込んでしまわれるのです。父は敵対するわたしたちを愛し、いかなる資格もないわたしたちを無条件に受け入れ、子としてくださっているのです。この父の愛から出る無条件絶対の恩恵によってわたしたちは生きているのです。そのような恩恵が支配する場では、そこに生きる者、いやそこにしか生きられない者は、同じ無条件絶対の愛に生きるほかはないのです。絶対の恩恵が圧倒している場では、敵を愛することはできるかできないかという問題は吹き飛んでしまっています。
 イエスがそこに生き、宣べ伝えられるのは、このような恩恵の支配です。敵を愛しなさいという言葉は、その恩恵の支配の一つの表現に他なりません。他の「対立命題」も同じように、イエスが宣べ伝えられる恩恵の支配の表現として理解しなければならないのです。