市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第18講

第三章 律法の完成

第一節 前置き

マタイの闘い

 マタイは「御国の福音」を破壊しようとする二つの力と闘っています。マタイにとって福音に敵対する二つの力とは、イエスを信じないで旧い律法の世界に留まっている「律法学者やファリサイ派の人々」の勢力と、イエスを告白しながら聖なる神の律法を否定して「不法を働く者ども」の影響力の二つでした。「律法学者とファリサイ派の人々」に対する批判と闘いは、この福音書のいたるところでイエスとファリサイ派の衝突として描かれていますが、とくに二三章に厳しい対決の言葉が集められています。マタイ福音書を産みだした共同体はユダヤ人の共同体であると考えられますが、当時マタイの共同体は本家のユダヤ教そのものと激しく対決せざるをえない状況にあったのです。
 マタイ福音書の成立は七十年のエルサレム神殿崩壊後であることは確かであり、八十年代のことと推定されています。この時代には、神殿を拠り所としていたサドカイ派は消滅し、ローマに対抗して戦った熱心党やエッセネ派も敗戦によって勢力を失っていましたから、ファリサイ派だけが実質的にユダヤ教の再建を担う勢力になっていました。同時に、イエスを信じるユダヤ人の集団も、もはやユダヤ教の中の一派として認められることはなくなり、ユダヤ教に対立する異端派とされて、対立は決定的な段階を迎えていました。ファリサイ派とその指導者である律法学者に対するマタイの激しい非難と対決姿勢は、このような歴史的状況を反映しています。
 外に対してファリサイ派に代表されるユダヤ教と闘ったマタイは、同時にイエスを告白する者たちの中の勢力、すなわち身内の中のある勢力とも闘わなければならなかったのです。その勢力とは、主イエスの名によって予言したり、悪霊を追い出したり、奇跡を行ったりして、自分たちの霊の力を誇示しながら、マタイの目から見れば、神の律法を軽視ないし無視して、律法に反する行為を行う者たちです。マタイはそのような身内の者たちに向かってこう宣言します。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしはたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。(七・二一〜二三)

 マタイはこのような「不法を働く者ども」を「偽預言者」として警戒するように呼びかけ(七・一五〜二〇)、天の国に入るために「天の父の御心を行う」ように促すのです。そして、「天の父の御心を行う」とはどういうことかを、この五章から七章にまとめられた「御国の福音」の全体で具体的に説きます。その中でも本体とも言うべき箇所(五・一七〜四八)で、イエスに従う弟子が行うべき父の御心がどのようなものであるかを、六つの「対立命題」の形で提示します。この箇所こそは、「山上の垂訓」という古い呼び方がもっともふさわしく感じられる箇所です。
 「対立命題」というのは、「あなたがたはこう聞いている。しかし、わたしは言っておく」という前置きをもって、モーセ以来ユダヤ教において伝承されてきた神の戒めに対立する形で、イエスが「父の御心」として提示された教えを指しています。ユダヤ人にとって、神の御心は「トーラー」(律法)と呼ばれる神の戒めに啓示されているのであって、それを守り行うことが神の民としての生き方を形成することは自明の原理でした。マタイもその原理に立っていますが、ただその「律法」がモーセを通して与えられ、ユダヤ教伝承の中で伝えられ解釈されてきた律法ではなくて、イエスによって新しく解釈され、「山の上で」与えられた新しい「トーラー」なのです。
 マタイはこの六つの「対立命題」を掲げる前に、マタイ自身の思いをこめた「総論」を序文として置きます。それが今回の主題となる次の一段です。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。(五章一七〜二〇節)

 この一段は、ほとんど全部がマタイの筆になるものです。マタイは「語録資料Q」に伝えられているイエスの言葉を核にして、この「山上の説教」(五〜七章)を構成しています。ところが、この一段には「語録資料Q」から採られた可能性のある言葉は、「天地が消えうせるまで」という一八節以外にはなく、その一八節もマタイの主張に好都合な文脈に置かれているので、この一段は「ほとんど全部」マタイの筆になるものと判断してよいと思われます。したがって、この一段はマタイが主張したいことが、マタイ自身の筆によって典型的に表現されている箇所であると見ることができます。

律法は廃止されない

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。(五・一七)

 マタイはまず、イエスは「律法や預言者」を廃止するためではなく、完成するために来られた方であると宣言します。そして、その宣言を、「わたしが来たのは」という重大なキリスト論の定式で表現します。
 イエスをキリストとして宣べ伝えた初期の福音の宣教において、イエスの生涯・十字架・復活の出来事はすべて「聖書」を成就する出来事として宣べ伝えられていました(ローマ一・二〜四、コリントT一五・三〜五)。それは福音の第一項目でした。マタイ福音書の五章一七節の宣言の背後にも、この福音が鳴り響いています。しかし、マタイはこの福音の告知を、自分が当面している二つの闘いのために、重点を移し変えて使用します。すなわち、イエスの生涯の出来事が預言としての「聖書」の成就であるという面から、イエスの教えはモーセ律法を不要または無効にするものではないという面に重点が移っています(イエスの生涯が聖書の成就であるという面は、物語において「聖書が成就するためである」という成就定式を多用することでマタイは表現しています)。その重点の転移は、この言葉が一九節と二〇節を含む一段に置かれているという文脈からも明らかです。

 マタイが「律法や預言者」というとき、「律法」とはユダヤ人が「トーラー」と呼んで神の啓示として尊ぶモーセ五書を指し、「預言者」とはイスラエルの歴史の中で神の霊感を受けて民に語った預言者たちの諸書、すなわちヨシュア記から列王記までの「前の預言者」と、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、十二預言者の「後の預言者」の諸書を指しています。マタイの時代にはまだユダヤ教の「正典」は定められておらず、「律法」と「預言者」が権威ある書として信仰の拠り所とされていました。したがって、マタイが「律法や預言者」というとき、それがイスラエルの「聖書」であり、イスラエルの宗教的伝統の全体を指し、ユダヤ教という宗教全体を意味しています。当時のユダヤ人は普通それを「トーラー(律法)」という一語で呼んでいました。

 マタイは、イエスが宣べ伝えられた「御国の福音」は「律法」を「無効にする・解体する・廃止する」ものではなく、「満たす・成就する・完成する」ものだと宣言するのです。そして、「律法を成就する」とはどういうことかを、以下に続く六つの「対立命題」で示すのです。「福音は律法を廃止せず成就する」、これがマタイの主張の最大の強調点です。マタイはこの主張を、福音に敵対する二つの勢力に向けています。
 一つは「ファリサイ派と律法学者」、すなわち当時のユダヤ教に向かってです。ユダヤ教指導者はイエスを、自ら律法を破るだけでなくイスラエルを律法違反に誘惑する背教の教師として断罪し、十字架の死に追いやりました。マタイの時代においては、ファリサイ派律法学者たちによってヤブネに再建された「最高法院」は、イエスに従うユダヤ人を異端者とする決定をしたと伝えられています。そのようなユダヤ教を代表する者たちに向かって、マタイはイエスこそ律法を真に成就する方であり、イエスに従う弟子こそユダヤ教律法を完成する者であると主張するのです。
 もう一つは、イエスを信じる身内の者で律法を無視する傾向の人たちに向かってです。最初に見ましたように、マタイの共同体は「語録資料Q」を生みだした信仰運動、いわゆる「Q宗団」の流れを受け継ぐ共同体でした。「Q宗団」の信仰運動の実態はまだ十分解明されていませんが、パレスチナ・シリヤ地域のユダヤ人の間で、イエスの言葉伝承を奉じる小さい弟子の集団が進めた運動でした。その運動を指導したのは、霊感を受けて各地の集団を巡回して教えた「預言者」であったとされています。このような巡回預言者の中には、マタイの目から見て危険な傾向の者たちがいたようです。そこで「偽預言者を警戒しなさい」という警告が必要となります(七・一五〜二〇)。彼らは「御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行った」と主張しながら、律法が廃棄されたかのように教え振舞う者たちだったのでしょう。マタイは彼らについて、イエスは「あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ」と言われると宣言するのです(七・二一〜二三)。

 イエスを信じたユダヤ人たちの間に「モーセの慣習(律法)」について意見の違いがあり、それが最初期のエルサレム教団を分裂に至らせたことが使徒言行録六章に示唆されています(拙著「パウロによるキリストの福音」のガラテヤ書講解の部分を参照)。ユダヤ人の中でもヘレニスト・ユダヤ人(ギリシア語を話すユダヤ人)が、「モーセの慣習(ユダヤ教律法)」に対して自由な態度を取る傾向があったようです(その流れの中からステファノやパウロが出ます)。国際都市エルサレムで起こった対立の図式をそのまま、パレスチナ・シリヤ地域のユダヤ人の信仰運動である「Q宗団」の理解に持ち込むことはできませんが、「Q宗団」内部にもモーセ律法をめぐる態度の違いがあったことは十分推察できます。ガリラヤやシリヤのユダヤ人がみな《ヘブライオイ》(アラム語を話すユダヤ人)であったわけではありません。ギリシア語を話すユダヤ人も多くいました。それに、「語録資料Q」には、安息日を初め多くの点で、律法を超えるイエスの言動が伝えられています。このような語録と預言者としての霊感に基づいて、モーセ律法に対して自由な態度をとる「預言者」もいて、宗団に影響を及ぼしていたことが推定できます。また、マタイの共同体に知られるようになっていたマルコ福音書も、イエスがモーセ律法を無効にしておられると理解できる面を持っています。そのような理解に対して、マタイは、イエスが来られたのは「律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない」と戒めるのです。

 このような身内の勢力に対して、マタイは「イエスは律法を廃棄するのではなく成就する方である」と宣言するのです。マタイがこの福音書をイエスの弟子の群れである共同体に向かって書いているという状況からしますと、この宣言は、結果としては外のファリサイ派ユダヤ教に対する弁証にもなっていますが、おもに身内の反律法主義者に向けられていると見ることができます。マタイは、福音信仰のゆえに律法をないがしろにする者たちに向かって、「福音は律法を破棄せず完成する」と主張するのです。

律法の一点一画まで

 「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。(五・一八)

 この段落の中でこの一八節だけが、ルカ福音書(一六・一七)に並行箇所があって、「語録資料Q」利用の可能性をうかがわせます。しかし、この言葉は、マルコ福音書の終末預言の結び(一三・三〇〜三一)に用いられているように、本来は終末の出来事の確かさを語る言葉でした。だいたい、「アーメン、あなたがたに言う。・・・・までは・・・・しないであろう」という形は終末時に関する発言に典型的であって、福音書にしばしば出てきます。予言された終末の出来事の確かさを表現するために、もともとは「アーメン、あなたがたに言う。このすべてのことが起こるまでは、律法(聖書)の一点一画も消え去ることはない」と表現が用いられていたと推測されています。
 このように本来は終末預言の成就の確かさを語る言葉を、マタイはモーセ律法が永遠に有効であることを宣言するために用います。このような使用法はマタイが初めてではないかもしれません。ルカ(一六・一七)も同じような意味でこの句を用いていることからすると、すでに「語録資料Q」でこのような用法がなされていた可能性があります。いずれにせよこの句は、モーセ律法を細部に至るまで厳格に順守することを求めた一部のユダヤ人キリスト教徒のスローガンでした。彼らは、ステファノやパウロに代表される「律法から自由な信仰」に対して、この標語を掲げて対抗したのです。マタイは、「福音は律法を廃棄せず成就する」という主張を強化するために、このユダヤ人キリスト教の標語を取り入れるのです。(しかし、だからと言ってマタイを単純にユダヤ人キリスト教の代弁者とすることはできません。この点については後で詳しく扱うことになります。)

 「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」。(五・一九)

 モーセ律法を細部に至るまで厳格に守るようにという一部ユダヤ人キリスト教の要求が、さらに具体的に表現されます。モーセ律法を種類に分けて、祭儀律法とか倫理的律法というような区別をして、この種類の律法は守らなければならないが、あの種類のものは守らなくてもよいとしたり、個々の戒めの重要性に段階をつけて、重要で中心的な律法は守らなければならないが、細部のあまり重要でない戒めは守らなくてもよいと教えるような立場に反対して、マタイは律法を「最も小さな掟」まで厳格に守るように要求します。
 ここで、最も小さい掟を破り、そうするように教える者は「天の国で最も小さい者と呼ばれる」と言われています。一見この表現は、最も小さい掟を破りそう教える者も、末席ながら天の国で席が与えられているように聞こえますが、これは天の国から締め出されていると理解すべきです。
 その理由はまず、すぐに続く二〇節で、その義が「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていない」者が天の国から締め出されているのですから、小さい掟ながら律法を公然と破る者が天の国に入ることを許されると理解することは、二〇節の主張と矛盾します。「小さい者と呼ばれる」というのは、「小さい」掟を破るという表現と並行関係から用いられた表現で、次の「大きい者と呼ばれる」と対照されています。セム語的表現法では、この対照は、天の国に入る資格の小さく乏しい者と、その資格が大いにある者の対照を示しています。このようなセム語的表現法の一例としては、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(マタイ二一・三二)という表現があります。「あなたたちより先に神の国に入る」というのは、「あなたたち」も後から入るであろうというのではなく、「徴税人や娼婦たち」だけが入り、「あなたがた」は入ることができないことを意味しています(J・エレミアス)。それと同じように、ここでも「天の国で小さい者と呼ばれる」のは、天の国に入ることができない者と理解しなければなりません。
 この言葉によってマタイは、イエスを告白する共同体の中に見られる律法を軽視する傾向に対して、厳しい警告を発しているのです。

ファリサイ派にまさる義

 では、マタイはモーセ律法の規定を細部に至るまで、たとえばレビ記の献げ物の小さい規定まで全部文字通りに順守するように、彼の共同体の信徒に求めているのでしょうか。そのようなことを求めていないことは、マタイ福音書を一読すれば明らかです。すでにファリサイ派もそのようなことは求めていませんでした。そもそもファリサイ派というのは、神殿礼拝における民の聖性の実現の要求であるモーセ律法を「解釈」して、神殿のない時代とか神殿から離れた地域の日常生活の中で聖性を実現しようとする運動でした。その「解釈」をしたのが「律法学者」であり、彼らの解釈が口頭で伝えられ蓄積されたものが「口伝律法」であり、それは書かれた律法である「モーセ五書」と同じ権威を与えられたのでした。マタイもおそらくファリサイ派の背景をもったユダヤ人学者であると見られます。マタイにとっても、「律法を守る」とはモーセ律法の正しい解釈と、生活の中での実行であったはずです。では、ファリサイ派律法学者とマタイとでは、「律法を守る」ことについては同じ立場に立っているのでしょうか。決してそうではありません。マタイは次のように宣言します。

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。(五・二〇)

 律法学者やファリサイ派が主張しているような仕方で律法を守り、彼らの規準で「義」と認められただけでは、イエスが宣べ伝えられた天の国に入ることはできない。天の国に入る者は「義」でなければならないが、その「義」は律法学者やファリサイ派の義にまさるものでなければならない、とマタイは宣言するのです。
 先に「幸いの言葉」の講解で見ましたように、マタイにおいては、天の国(神の国、神の支配)の現実に生きる者にとって「義」が中心にありました。そして、マタイにとって「義」とは、たんに内面における神との正しい関わり方だけではなく、実際に神の御心にかなった正しい行為と生活を意味していました。そのような義を生涯の唯一の目標として慕い求め、そのような義のために迫害を受ける者こそ、天の国の祝福を受けるにふさわしい者でした。マタイにとって、天の国の現実に入るには義なる者でなければならないのは、当然のことでした。
 では、天の国に入る者、神の支配の現実に生きる者の義が、律法学者やファリサイ派の義に「まさる」とはどういう意味でしょうか。二つの義はどのように違うのでしょうか。このことをマタイは以下に続く「対立命題」と、施し・祈り・断食についての教えの中で明らかにするのです。いわゆる「山上の説教」(五〜七章)全体が、この違いを教えるためであると言ってもよいでしょう。その意味でこの二〇節は以下の論述の標題をなすと言えます。この宣言はもっともよくマタイの主張を表現する節であると見ることができます。
 マタイが「よりまさっている義」でどのような内容を意味しているのかは、以下に続く論述、とくに「対立命題」を詳しく見た後で、その結論として語ることになりますが、ここではその論述に入る前に、標題としてこの宣言が掲げられているという事実を指摘するに止めます。

パウロとマタイ

 こうして見てきますと、マタイ福音書のこの一段(五・一七〜二〇)は、モーセ律法に対するマタイの態度を示す典型的な箇所であり、マタイが宣べ伝える「御国の福音」の性質とか内容を理解するのにきわめて重要な箇所であることが分かります。
 ところで、このようにモーセ律法の永遠の有効性を主張することは、ユダヤ人キリスト信徒の群れである「Q宗団」やマタイの共同体にとっては、律法を廃止されたかのように振舞う「自由派」に対抗する意味がありますが、もともとモーセ律法の外にいる異邦人に向かっては何を意味することになるのでしょうか。異邦人にもモーセ律法を順守するように要求することを意味するのでしょうか。
 最初に見ましたように、マタイ福音書はユダヤ人の共同体で成立したのですが、その時代のユダヤ教と決定的に断絶したので、ユダヤ人に福音を宣べ伝えることは断念し、異邦人に福音を宣べ伝えることを決意した状況で書かれたのでした。そのことは、この福音書の最後の締めくくりの箇所(二八・一六〜二〇)で、復活されたイエスが「すべての民」(異邦の諸民族)を弟子とするように命じておられるとされていることからも明らかです。そのさい、復活されたイエスは、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じておられます。「あなたがたに命じておいたこと」の中では五章から七章のイエスの教えが中心にあることも容易に理解できます。「山上の説教」は異邦人にも向けられているのです。
 そうすると、異邦人に向かってもモーセ律法の永遠の有効性を主張するマタイと、「律法の外に神の義が現れた」とし、キリストを「律法の終わり」とし、異邦人は律法の行い(ユダヤ教律法の順守)とは無関係に信仰によって義とされる(神の民として受け入れられる)と宣べ伝えるパウロの福音との関係はどうなるのでしょうか。パウロはこの福音を神からの直接の啓示によって与えられたものであり、自分はこの福音をもって異邦の諸民族を呼び集めるために派遣された使徒であるとしています。すると、マタイが律法の一点一画も廃ることはないと主張し、もっとも小さい掟も実行するように求めるのは、パウロの宣教に反対して、異邦人信徒に割礼を受けてユダヤ教律法を守るように要求した「ユダヤ主義者」と同じことをしているのでしょうか。
 この問いに答えるには、パウロが用いる「律法の行いによって」という表現の意味を正確に理解しておく必要があります。パウロが「人は律法の行いによっては義とされない」と語るとき、人間が自分の功績や価値を誇る自己主張が徹底的に打ち砕かれたパウロの恩恵体験がいつも背後に響いているのは事実ですが、少なくともガラテヤ書などにおいてユダヤ主義者と戦うさいには、この表現はそのような個人的・内面的な消息を語るものではなく、神の民として受け入れられる規準について語っていると理解すべきでしょう。すなわち、「律法の行い」とは割礼を受けてユダヤ教律法を順守することを指しています。パウロの主張は、割礼を受けてユダヤ教律法を順守するユダヤ教徒になることで神の契約(約束)にあずかる神の民となるのではない、むしろ、異邦人は割礼とユダヤ教律法の順守のないままで、イエス・キリストを信じることによって神の民に加えられるのである、ということです。
 当時、ユダヤ人を異邦人から区別する最も重要な標識は、割礼と安息日と食物規定の順守であるとされていました。この三つが聖性の標識、すなわち聖なる神の民と汚れた異教徒を区別する垣根であったのです。「ユダヤ主義者」が異邦人信徒に要求したのは、何よりもこの三つの規定の順守であったのです。割礼の強要や食物規定順守の要求がどのように深刻な事態を招いたかは、ガラテヤ書二章のエルサレム会議やアンティオキアの衝突事件の報告に見られるとおりです(拙著「パウロによるキリストの福音」のガラテヤ書講解の部分を参照)。ところが、マタイ福音書全体を読んでみてすぐ分かることですが、マタイはこの三点について何も要求していません。
 マタイ福音書において、異邦諸国民を弟子とするように命じる復活のイエスは、「彼らにバプテスマを授けよ」と命じておられますが、「割礼を施せ」とは命じておられません(二八・一九)。安息日についてマタイは、ユダヤ教の安息日順守の仕方を批判し乗り越えておられるイエスを描くマルコの記事をほぼそのまま受け入れています(一二・一〜一四)。食物規定についても、それを根本的に否定するようなイエスの語録を(マルコに比べるとやや緩和された形ですが)そのまま伝えています(一五・一〜二〇)。
 こうして見ると、マタイは、アンティオキアやガラテヤでパウロに反対した「ユダヤ主義者」とは違うことが分かります。マタイも基本的にはパウロと同じく、異邦人が「律法の外で」イエスの弟子として従い、天の国の現実に生きることができると認めているのです。それにもかかわらず、モーセ律法の細則に至るまでの順守を求めるユダヤ人キリスト教のスローガンのような言葉(一八節と一九節)を掲げたのは、イエスは律法を廃止するのではないという一七節と、イエスの弟子の義はファリサイ派の義にまさるものでなくてはならないという二〇節の自分の主張を強調するためであると理解できます。マタイは、ユダヤ教律法の枠の外でイエスの弟子でありうることを認めた上で、ユダヤ教律法の成就・完成を主張するのです。それは当然、律法学者・ファリサイ派やユダヤ人キリスト教内の「ユダヤ主義者」が主張する律法順守とは違った意味と形をとることになります。その違いがどのようなものかを、マタイはこの福音書全体で、とくに以下に続く「対立命題」で示すのです。

 パウロとマタイの関係については、他にも触れなければならない重要な問題がありますが、後で適当な箇所で扱うことにします。