市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第15講

第九節 義のために迫害される者

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(五章一〇節)

迫害についてのイエスの語録

 この「幸いの言葉」は、内容から見ると、すぐ後に続く一一節から一二節の「イエスの語録」と同じです。迫害についてのイエスの語録を、マタイが「幸いの言葉」の形式にして、一連の「幸いの言葉」の結びにしたと見られます。それで、ここではまず迫害についてのイエスの語録を見ることにします。

 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。(五章一一〜一二節)

 最初の「マタイ福音書の成立」のところで見ましたように、この福音書を生みだした共同体(便宜上「マタイの共同体」と呼びます)は、もともと「イエスの語録集Q」を自分たちの信仰の拠り所として奉じるユダヤ人信徒の群れでした。イエスの弟子であることを言い表し、イエスの教えに従って新しい生き方を目指したこのユダヤ人の宗団(Q宗団)は、周囲の正統派(おもにファリサイ派)ユダヤ教徒から白眼視され、迫害されてきました。この迫害という状況の中で、彼らの福音書である「イエスの語録集Q」も、時と共に(この語録集は数段階の編集過程を経て七〇年前後に成立したと見られます)、正統派ユダヤ教(事実上はファリサイ派ユダヤ教)に対する批判と対決姿勢を強めていきます。
 迫害される弟子たちに語られたイエスの言葉が、「イエスの語録集Q」に伝えられており、それをルカも使用していますので、ルカのテキストと比べることで、マタイの特徴を見ることにしましょう。ルカ福音書にこの語録はこのように引用されています。

 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。(ルカ 六・二二〜二三)

 「人々に憎まれる」というのは一般的な表現ですが、「人の子のために」受けるとされている「追い出され、ののしられ、汚名を着せられる」という三つの動詞は、ユダヤ教会堂で用いられた特殊な表現です。その三つは、イエスを「人の子」と告白する者に対するユダヤ人会堂の厳しい態度を示しています。「追い出される」は会堂からの追放処分(破門)を受けることです。「ののしられる」は、預言者の受ける定めとして旧約に定着した表現で、社会全体から悪罵を浴びせられることです(戦争中の日本での「国賊」呼ばわりを想像すれば理解しやすいでしょう)。さらに、「汚名を着せられる」は、直訳すると「あなたがたの名が汚れたものとして(会堂とかユダヤ人社会から)投げ出される」こと、すなわちこれも会堂からの追放処分を指す表現です。イエスを終末的救済者「人の子」と言い表す者は、所属するユダヤ人会堂から追放されたのです。これはユダヤ人にとって社会から抹殺されることを意味し、殺されるのと同じくらいの激しい迫害であったのです。ルカのテキストは、Q宗団の人々が周囲の正統派ユダヤ人たちから受けた迫害の状況の中で成立した「イエスの語録集」の用語を、かなり正確に伝えていると見られます。
 それに対して、マタイは表現を一般化しています。比較的一般的な意味で使える「ののしられる」は保存されていますが、「追い出される」とか「名が汚れたものとして投げ出される」というユダヤ教会堂の専門用語は、「迫害される」とか「偽ってさまざまな悪口を言われる」というような一般的な表現に変えられています。さらに、「人の子のために」という句が「わたしのために」になっています。これも、ユダヤ教内部での論争点を、どこででもイエスを信じることによって生じる一般的な問題にしています。
 このようにマタイが、資料として用いた「イエスの語録集Q」のユダヤ教的表現を一般化したのは、マタイが福音書を書いた時の状況に促された結果であると見られます。マタイがこの福音書を書いた時(おそらく八〇年代)には、すでにエルサレム神殿は破壊され(七〇年)、多くのユダヤ人がユダヤ戦争の戦火を逃れてパレスチナの外に移住していきました。マタイの共同体も、このようなユダヤ人を多く含む、シリアのどこかの異邦都市(おそらくアンティオキア)に成立したユダヤ人共同体だったと考えられます。彼らが受けた迫害はもはやユダヤ教会堂からのものではなく、周囲の異邦人社会からの無理解や嘲笑になっていたのでしょう。それに、「マタイ福音書の成立」のところで見ましたように、マタイは異邦人伝道に乗り出す決意でこの福音書を書いています。マタイは迫害の問題を異邦人社会での一般的な問題として取り上げなければならなかったのです。
 Q宗団のユダヤ人信徒は会堂から追放されるというような激しい迫害に直面したわけですが、Q資料のイエスはそのような弟子たちに言われるのです。「あなたがたが人の子を言い表すことによって会堂から追い出されるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天における報いは大きい」。会堂から追い出される日は、天(御国)に迎えられる日であり、天での大きな報いが確かになるのです。こんな幸いなことがあろうか。この日には、喜び踊らないではおれないではないか、と言うのです。マタイはこのイエスの言葉を一般化して、どのような形の迫害であれ、イエスのために苦しみを受けるときには大いに喜びなさいと勧めるのです。
 「迫害される者は幸いだ!」。これは逆説です。それは天(御国)の現実に生きる者だけが体験できる逆説です。マタイは「幸いの言葉」を知恵の訓戒とすることによって、本来のイエスの言葉の逆説の鋭さを鈍くする傾向がありましたが、最後にイエスの言葉の逆説を回復する形で、一連の「幸いの言葉」を締めくくります。
 なお、この逆説の範例として「預言者」のことが付け加えられていますが、ここでもマタイはルカと微妙に違っています。ルカは「この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」と書いています。「この人々の先祖」というのは、イエスを信じる者を会堂から追い出しているユダヤ人たちの先祖、すなわち旧約聖書の時代のイスラエルの民であり、「預言者」というのは民から苦しめられた旧約聖書の預言者たちを指しています。ここでもルカは、ユダヤ教内の論争を伝えるQ資料を忠実に引用していると考えられます。ところが、マタイは「彼らはあなたがたの前の預言者たちを迫害したのである」と書いています。預言者を迫害しているのは「先祖」ではなく「彼ら」、すなわち今「あなたがたを迫害している」人たちです。それに、「預言者」も「あなたがたの前の預言者たち」です。この表現は昔の預言者を指す可能性もありますが、むしろ「あなたがたの直前の(または面前の)預言者」と理解する方が自然です。Q宗団では巡回預言者がイエスの言葉を教え、信徒の指導に当たっていました。このような指導者がまず最初に迫害の目標にされるのはよくあることです。マタイはQ宗団の苦難の歴史を回顧して、指導者である「預言者たち」(その先頭にイエスがおられます)を、受ける迫害を喜びとする範例としてあげたと見ることができます。

義のために迫害される者

 このように語録集に伝えられている迫害についてのイエスの言葉を、マタイは「幸いの言葉」の形式にして、一連の「幸いの言葉」の締めくくりとして最後に置きます。そのさい、イエスが弟子たちに「あなたがたは幸いである」と二人称で語られた言葉は、「その人たちは幸いである」と三人称に変えられます。これは「幸いの言葉」の形に合わせるための形式上の変更です。また、「天における報いは大きい」という句は、「天の国はその人たちのものである」という第一の「幸いの言葉」と同じ表現に変えられて、一連の「幸いの言葉」の枠を形成するようにされています。このように形式や表現は変わっても内容は同じですが、内容の上で重要な変更が加えられている点が一つあります。それは、「人の子のために」(Q資料およびルカ)とか「わたしのために」(マタイ)という句が、「義のために」という表現に変えられている点です。
 マタイがいかに「義」《ディカイオシュネー》を重視したか、また、マタイにとって「義」《ディカイオシュネー》とは何かについては、「義に飢え渇く者」の幸いを語る第四の「幸いの言葉」の講解のところでやや詳しく説明しました。そこでも、「飢えている者は幸いである」という語録資料の言葉に「義」を加えて、「義に飢え渇く者」としたのはマタイでした。こうして、前半部の最後(第四の言葉)と後半部の最後(第八の言葉)に「義」を置くことによって、マタイは前半と後半の二つの部分を「義」という観念で結びつけるのです。マタイはこの一連の「幸いの言葉」を「義」という観念で貫くのです。
 先に見ましたように、マタイにとって「義」《ディカイオシュネー》とは基本的には人間の行為とか在り方に関わるものです。神の定めにかなう行為や生き方を指す語です。第四の「幸いの言葉」では、そのような「義」《ディカイオシュネー》を実現することを熱心に追求する人たちへの約束と幸いが語られていましたが、この第八の「幸いの言葉」では、人間社会の中でこの「義」《ディカイオシュネー》を行う者の苦難と祝福が語られます。ここでは、《ディカイオシュネー》が人間の行為とか生き方を指していることが、とくに明らかです。人は内面だけのことで迫害されることはないのですから、「義のために迫害される」という時の「義」は、社会の中での具体的な行為とか生き方を指していることになります。
 迫害についてのイエスの語録においては、迫害の理由は「人の子のために」あるいは「わたしのために」でした。すなわち、イエスを「人の子」と告白する、または自分をイエスの弟子と言い表すという信仰告白が理由になっていました。マタイはそれを「義のために」という形にすることで、信仰告白の必要を無視しているのではありません。むしろ、イエスの弟子であると告白することを、実際の生き方の中でイエスの教えに従うことによって具体的に示すように求めていると理解すべきでしょう。イエスの弟子であるマタイにとって、「義」とは具体的にはイエスの教えに従うことであるからです。
 「幸いの言葉」の後半部においては、人間の振舞いが問題にされていました。人間社会においてどのように行為し、どのように生きる者が、終末の救済と栄光にあずかる幸いな者であるかが語られていました。そしてその最後に、祝福される生き方がもっとも激しい形で語られるのです。すなわち、イエスに敵対する社会の中で、イエスの弟子としてイエスの教えに従う生き方を貫く者の幸いです。そのような生き方をする者は、敵対的な周囲から迫害を受けることは避けられません。その迫害を天における報い(終末的な栄光)を確かなものにする保証として受け止めて、大いなる歓喜の中にイエスに従う生き方を貫く者の幸いが語られ、そのように生きるように励まされるのです。
 マタイはすでに、語録資料Qにある迫害についてのイエスの語録を一般化していました。すなわち、その言葉をユダヤ教の中での論争という枠組みから解放して、どのような状況においても適用される言葉に変えていました。これは、マタイの共同体がユダヤ教会堂からではなく異邦人社会から迫害されるようになっていたこと、また福音を宣べ伝えることによってこれから異邦人社会との関わりに入ろうとしていたという現実に対応するためでした。このように、すでにマタイにおいて、現実に対応するためにイエスの言葉の書き換えが行われているのです。わたしたちもイエスの言葉を、柔軟に現代社会の現実に対応して広い視野で受け止めていかなければならないでしょう。キリスト教化した諸国では、イエスの名を告白することで迫害されることはありません。しかし、真剣にイエスの言葉に従って行動しようとすると、社会から嘲笑されたりのけ者にされたりすることはあります。たとえば、無抵抗非暴力の生き方を貫くことは、現代社会においても実際にはきわめて難しいことです。現代ではむしろ、実際の行動と生きざまによって信仰を告白するという意味で、「義のために迫害される者」というマタイの定式が重要な意味をもつようになっています。どのような形での迫害も、内なる御霊の現実から溢れる喜びと希望によって担い抜いて、「義」すなわちイエスに従う生き方を貫くことが求められているのです。