市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第14講

第八節 和を創り出す者

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(五章九節)

成立

 この「幸いの言葉」も「イエスの語録集Q」には含まれていません。前の「心の清い人々」の場合と同じように、この句もマタイ固有の資料から取られたか、マタイ自身の構成によるものと見られます。
 ここにも、マタイの「幸いの言葉」の知恵文学的な傾向が見られます。ユダヤ教知恵文学では「平和」の追求が重視されていますが、マタイもその流れを受けて、「平和」を実現するようにとの勧告を、「幸いの言葉」に組み入れたものと見られます。そのさい、どの言葉を念頭に置いているのかは特定できませんが、典型的な知恵文学的詩編の中にある次のような言葉が考えられます。

 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ。(詩編三四・一五)
 無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。平和な人には未来がある。(詩編三七・三七)

シャローム

 《シャローム》(平和)という言葉は、ユダヤ人の間では日常もっともよく用いられる言葉の一つです。ユダヤ人は会ったときも別れるときも、挨拶の言葉として相手に《シャローム》を祈ります。《シャローム》は、普通「平和」とか「平安」と訳されますが、たんに争いがないことを指すのではなく、物質的な繁栄、心身の健康、人間関係の調和など、望ましい状態の総体です。わたしたちの用語では「幸福」という言葉が近いかもしれません。
 この《シャローム》は、イスラエルでは元来きわめて宗教的な用語でした。それは、ヤハウェとイスラエルの関わりの望ましい姿であり、そこから来るヤハウェの賜物としての民の安全と繁栄でした。イスラエルがヤハウェとの契約に忠実であるかぎり、イスラエルの「《シャローム》は大河のようになり」、神に逆らうときには「《シャローム》はない」のです(イザヤ四八・一八、二二)。
 預言者たちは、《シャローム》を失った現実のイスラエルの歴史の中で、神がその真実と憐れみによって、終わりの日に《シャローム》を実現してくださることを語り続けました。イザヤは、終わりの日に神が立ててくださる救済者を「《シャローム》の君」と呼び、その方の支配によって「《シャローム》は絶えることがない」と予言しました(イザヤ九・五〜六)。ゼカリヤも、「ろばに乗ってくる」王によって「諸国の民に《シャローム》が告げられる」ことを予言しました(ゼカリヤ九・九〜一〇)。こうして、《シャローム》は、終わりの日に実現する救済と祝福を指し示す希望の標語となったのです。
 この豊かな内容をもつ《シャローム》というヘブライ語を日本語で表現するとき、わたしは「和」という一文字がよいのではないかと考えています。「平和」という語は、現代の日本語では、戦争がない状態という意味に限定される傾向がありますし、「平安」という語は、あまりに個人的・内面的な意味に限定される危険があります。神と人、人と人という人格的存在の間の調和と一致、そこから溢れる祝福と豊かさは、一語で表現することはできませんが、強いて日本語で表現するとすれば、「和」という語が近いのではないかと思います。もし、「大」という語を、「これ以上のものがない、究極の」という意味に用いてよいのであれば、聖書の《シャローム》は「大和」と訳せるかもしれません。
 聖書には《シャローム》を目に見えるような情景で美しく歌った詩句が多くあります。たとえば、詩編一三三編は、神の霊の祝福の中で結ばれる人間の交わりの美しさをこう歌います。

 見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
 かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、
 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
 ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる。
 シオンで主は布告された、祝福ととこしえの命を。(詩編 一三三編)

また、預言者イザヤは終わりの日の《シャローム》をこう歌います。

 狼は小羊と共に宿り、
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち、
 小さい子供がそれらを導く。 ・・・・・・・・・・(イザヤ 一一・六〜一〇)

 このような情景を歌う詩に、わたしたちは「和」という題名をつけることができるでしょう。日本人は、聖徳太子以来、「和」を尊ぶ国民でした。「やまと」を「大和」と書いて国名にする国でした。イスラエルの宗教性と日本人古来の宗教性には、清浄を中心に据えるなど、なにか似た雰囲気がありますが、「和」を尊ぶことも両者の親近性を感じさせます。

和を創り出す者

 このように、《シャローム》は神との正しい交わりを土台として成り立つ人と人との調和ですから、これは人間関係の基本、すなわち倫理の基本となります。最初にあげた知恵文学的詩編(三四・一五)においても、《シャローム》を追い求めることは、悪を避け善を行うことと等置されています。ユダヤ教のラビたちも、人々の間に「《シャローム》を造りだす」ことを、イスラエルの民のもっとも重要な務めであると説いています。ユダヤ教において「《シャローム》を造りだす」ように求める戒めは、新約聖書において愛の戒めが占めているのと同じ位置を占めています。
 マタイがこの第七の「幸いの言葉」で用いています《エイレーノポイオイ》(平和を造る人々)というギリシア語は、新約聖書の中でここだけに用いられている単語です。これは《エイレーネー》(平和)と《ポイエイン》(造る)の合成語です。これは、ラビたちの「《シャローム》を造りだす」という表現を、そのままギリシア語にしたものです。わたしはこれを「和を創り出す者たち」と訳したいと思います。和のないところに和を創り出す創造的な働きをする人々です。
 この表現の背景となっているラビの教説の内容からして、またこの「幸いの言葉」が後半の倫理的勧告の中に置かれているという位置からして、この「和を創り出す」というのは、人と人との争いの場に和を創り出すことであることは明らかです。イエスの弟子たちも、「神の子と呼ばれる」ために、人と人との争いと敵意の場に「和を創り出す」ことを求められているのです。
 これは難しいことです。第三者として争いを仲裁することも難しいことですが、自分が当事者となると、至難のことになります。大抵の場合、「足して二で割る」式の妥協で済ませていますが、不満とか怨みが残るだけで、真の「和」が創り出されたとは言えません。人の世は自己主張がぶつかりあう世界であり、争いの絶えることがありません。力ある者が弱い者を力づくで抑圧搾取するようなことが放置されれば、世界は平和どころか、憎悪と戦いの地獄になってしまいます。法律をはじめ社会の諸制度は、内面の和合までは無理としても、せめて社会の平穏と秩序を維持するために考え出された装置だと言えます。法律に違反せず、社会の秩序を守り、紛争なしに平穏に暮らしているからと言って、それで「和を創り出す者」だとは、とうてい言えません。
 和のないところ、すなわち敵意と争いしかないところに、和を創り出すことは至難の事業です。どうすれば和を創り出すことができるのでしょうか。まず、争いの場に、人間の本性である自己主張をもって立つかぎり、自分も争いの当事者になるだけで、和を創り出すことは不可能です。自分が無になって、相手を無条件で受け入れる姿勢が必要です。これは、相手の要求は何でも聞き入れることではありません。相手の要求が正義に反するときには拒絶し、正義と理法にかなった解決の方法を忍耐強く求めなければなりません。正義のないところに平和はありえないからです。そのさい、自分を義とする立場から、相手を怨み、軽蔑し、憎悪するようなことはなく、自分を無とする立場で、たとえ相手が敵意をもって対してこようとも、悪意をもって応えることなく、善意をもって相手に向かうことが求められるのです。相手が暴力をもって対してきても、暴力をもって対抗するのではなく、愛をもって対抗することが求められるのです。
 こうして、「和を創り出す」という行為は、ときには命がけの激しい行為なのです。イエスはこう言っておられます。

 「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。(マタイ五・三九)
「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。(マタイ五・四四)

これが「和を創り出す者」の実際の姿なのです。

十字架の場で

 「御国の福音」の場に置かれた「和を創り出す」ようにという勧告は、ユダヤ教のラビたちが説いた「《シャローム》を造りだす」ようにとの戒めとは、用語は同じでも、それが成立するための土台が違います。ユダヤ教においては、あくまで神が民に要求される倫理的な戒めの要約として語られています。それに対して福音においては、イエス・キリストにおいて実現された終末的な《シャローム》を受け取り、その《シャローム》を生きるようにとの勧告なのです。
 まず、イエスご自身が「和を創り出す者」でした。当時のユダヤ教社会では、ユダヤ教律法が高い垣根となって、神と人、人と人とを隔てていました。律法を学び実行できない庶民は、「罪人(つみびと)」として神との交わりから追放され、自ら律法を順守する「義人」をもって任じる人々からは、汚れた者として接触すら避けられました。そのような状況の中で、イエスは無条件の恩恵による神の支配を宣べ伝え、律法を守ることのできない「貧しい人々」を受け入れ、食卓の交わりを共にされました。その交わりでは、律法の上ではどれだけ清いかとか、どのような社会的身分であるかとか、人を差別する規準は消え失せ、父の絶対無条件の恩恵の下で、兄弟としての和合が実現していたのです。
 さらに、イエスはその十字架によって、終末的な《シャローム》を地上にもたらされたのです。神はイエスを復活させてキリストとされました。イエスの十字架は「わたしたちの罪のための御子キリストの死」となり、わたしたちの贖いとなったのです。わたしたちはこのイエス・キリストを信じることによって義とされて、キリストにあって「神との間に平和を得ている」のです(ローマ五・一)。
 この神との間の《シャローム》の内実は、聖霊による父との交わりです。そして、この内に働く聖霊が、人と人との間の愛の交わりを実現します。聖霊こそ終末的な《シャローム》の実質です。イエスの弟子たちは、十字架の場で聖霊によって実現されたこの終末的な《シャローム》を、隣人たちとの実際的な歩みの中で生きることによって、争い、対立、嫉妬、敵意、暴力が渦巻くこの世界のただ中に「和を創り出す」ように求められているのです。

神の子

 このような「和を創り出す人々」に対しては、「神の子と呼ばれるであろう」という約束が与えられています。「呼ばれるであろう」という未来形は、他の「祝福の言葉」の約束と同じく、本来は終わりの時における救いを指しています。終わりの日に、神の子として扱われ、神の栄光の交わりに入れられるという意味に理解できます。
 しかしさらに、ここで「神の子」という表現が選ばれていることの意味を考えてみましょう。ヘブライ語表現の世界では、「子」という語はしばしば生命の同質性を示すのに使われます。子は親と同じ質の命を引き継ぐ者だという理解からです。たとえば、「悪魔の子」という表現は、悪魔の生命と性質を受け継いで、悪魔の業をする者を意味します(ヨハネ八・四四)。ここで用いられている「神の子」という表現も、神の命との同質性を指す、すなわち、神と同じ質の生命に生きる者という意味が含まれていると理解できます。
 神は本性から「和を創造する方」です。神の働きはつねに「和を創造する」働きです。神が天と地を創造されたとき、それは秩序と調和のある宇宙として創造されました。神はイスラエルの歴史の中で、繰り返し民の背きを癒し、交わりを回復するための創造的な働きを進めてこられました。そして、イエス・キリストにおいて決定的な「和解」を世界に与えて(コリントU五・一九)、終末的な《シャローム》の実現を開始されたのです。
 それで、地上で「和を創り出す人々」は、神と同じ質の命を受け継ぐ者として、神と同じ質の働きをしていることになります。その意味で、ここで見たような「和を創り出す人々」は、この地上ですでに「神の子と呼ばれる」にふさわしい者たちです。身近な隣人関係において、痛みを引き受けながら和解の働きをしている人々から、世界から戦争の悲惨をなくすために献身的に、生涯をかけて平和運動を進めている人々まで、この地上で「和を創り出す」働きをしている人々はすべて、どの宗教に属する人であれ、「神の子と呼ばれる」にふさわしい人々です。終わりの日に「神の子らが栄光の中に現れるとき」、キリスト教会に所属したかどうかではなく、地上でイエスのように「和を創り出す人々」であったかどうかで、「神の子と呼ばれる」かどうかが決まるのを見て、わたしたちは驚くことになるでしょう。