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第七節 心の清い者

 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(五章八節)

伝承史的系譜

 この「幸いの言葉」は、「イエスの語録集Q」には含まれていません。マタイがこの言葉をどのような資料または伝承から受け継いだのかは不明です。おそらく、マタイがイエスの教えの精神であると理解したところを、旧約聖書の用語で、マタイ固有の「幸いの言葉」の形式に構成したものでしょう。そのさい、モデルとなった旧約聖書の言葉は、詩編二四編の三〜五節であろうと見られます。その詩編では「清い心をもつ人」の幸いがこう歌われています。

 どのような人が、主の山に上り、
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく、
欺くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し、
救いの神は恵みをお与えになる。 (詩編 二四編三〜五節)

 この詩編の「清い心をもつ人」のギリシア語訳とマタイ福音書の「心の清い人々」は、同じ表現が使われています。「柔和な人々」の場合のように、マタイは日頃親しんでいるギリシア語(旧約)聖書の詩編の句を用いて、全身全霊をもって主に従い、約束された終末の救いにあずかるように勧める、マタイ特有の勧告的な「幸いの言葉」を構成したと考えられます。

清い者は幸いである

 「清い者は幸いである」はユダヤ教の公理であり、「清くあること」はユダヤ教の目標である、と言えます。ユダヤ教の全体系はこの一点の目標に向かって構成されています。「清くあること」は神の民としてもっとも基本的な資格です。これがなければ、他に何があっても神の民に所属することはできません。
 聖書では、主はアロンの子孫である祭司たちにこう命じたとされています。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである」(レビ記一〇・一〇〜一一)。この命令を受けて、ユダヤ教の担い手である祭司たちは、神に受け入れられる清いものと、神に憎まれる汚れたものを厳密に区別し、イスラエルの民に汚れたものに接して汚れた者にならないように、いつも清い者であるように教えたのです。
 民が犯す律法違反の行為、すなわち罪はすべて神が忌み嫌う汚れです。罪に汚れた民を清めるために、また民の罪によって汚された聖所を清めて、清い神の住まいにふさわしくするために、ユダヤ教は犠牲の動物の血による「贖いの儀式」の膨大な体系を発達させてきました。その集大成がレビ記です。レビ記に従って執り行われる神殿祭儀は、ユダヤ教の中心に置かれた清めのための精密な装置であるといえます。
 日常生活のなかでも、清いものと汚れたものの区別は厳密に貫かれています。たとえば、食物の中で牛や羊の肉は清いものですが、豚や猪は食べてはならない汚れた動物です。汚れた獣の肉を食べる者は汚れます。普段からこういう肉を食べている異教徒は汚れた人間です。ある種の病人、たとえばらい病人は汚れた者です。汚れた人間に接触すると汚れを受けます。街や市場で、知らず知らずのうちに汚れたものや異教徒に接触して、汚れを受けているかもしれません。それで、ユダヤ人は汚れを清めるための沐浴や手洗いなどの儀式を固く守ったのです(マルコ七・三〜四)。
 ある時、イエスの弟子の中に、洗わないで汚れたままの手で食事をする者がいるのを見たファリサイ派の律法学者が、それを自分を汚す行為として非難しました。そのとき、イエスはこう答えておられます。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ七・一五)。そして、この「マーシャール(謎、たとえ)」について尋ねた弟子にこう語られます。

 「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。更に、次のように言われます。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」。(マルコ七・一八〜二三)

 ユダヤ教徒にとって、これは大変な宣言です。モーセ律法に定められている「清いものと汚れたものの区別」が廃棄されているのです。そして、神に憎まれる汚れとは、心の中から出て来るものとされるのです。「清いものと汚れたものの区別」は、もはや律法に定められた清めの儀式をどれだけ完全に行うかとは関係なく、心の中の問題とされているのです。マタイも、イエスのこの言葉をよく知っています(マタイ一五・一〜二〇)。そして、ファリサイ派に代表されるユダヤ教の「清さ」を、外側だけを清めて、内側は汚れで満ちている墓にたとえて、厳しく批判しています。

 「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」。(マタイ二三・二七)

 これはまさに、「心の清い人々は幸いである」という「幸いの言葉」の裏側に当たる言葉です。

心の清い者

 このように、マタイがユダヤ教の最高価値である「清い」に、「心の」(ここでは、三節の霊《プニューマ》ではなく、広く人間の内面一般をさす心《カルディア》が用いられています)という句をつけるとき、儀式的な外面の清さに対して、内面的・全人的な清さを求めていることが理解できます。それは、ユダヤ教の公理に対する挑戦です。しかし、それだけであれば、すでにユダヤ教の内部でも気づかれていました。そのことは、マタイがモデルにしたと見られる詩編二四編が示しています。そこでもすでに、聖所に入ることを許されて主に祝福される者は、「潔白な手と清い心をもつ人」とされています。マタイが求める「清い心」は、この詩編の「清い心」とどう違うのでしょうか。それはどのような姿の心でしょうか。
 その答は語義の詮索からは出てきません。その言葉が置かれている場から理解しなければなりません。まず、この「幸いの言葉」が、マタイが構成した八つの「幸いの言葉」の後半部の一つであるという位置です。前半の四つは、神の国に招かれている人々の姿を、神との関わりにおいて描いていました。すなわち、神に依り縋るほかない貧しい者であることが描かれていました。それに対して、後半の四つの言葉は、神の国に召された人々の実際の在り方、すなわち対人関係における実際の姿を描いていると言えます。「憐れみ深い」とか、「平和を造り出す」とか、「義のために迫害される」というのは、隣人との関わりの中で成り立つことです。その中の一つとして理解しますと、「心の清い者」とは、隣人に対して悪意がなく、純粋に善意だけで対する者という意味になるのでしょう。「清い」という語は、「混じりけのない、純粋な」という意味もありますので、「清い心」とは、悪意や下心という不純物がぜんぜん混じっていない、純粋な善意だけに満たされた心という意味に理解することができます。その極致は、敵に対しても悪をもって報復せず、善意だけで応える心です。
 問題は、誰がこのような「心の清い者」であるのか、どうすればこのような「清い心」を持つことができるのか、です。人間は誰ひとり内面の奥底まで混じりけのない善意で生きることはできません。この問の前で、この「幸いの言葉」を理解するためには、改めてこの御言葉を福音の場において見なければなりません。最初に見ましたように、この福音書は「イエスの語録集」を十字架の福音の場に置くことによって成立したものですから、この「幸いの言葉」も福音の場に置くときに初めて正しく理解できるはずです。
 福音は本来、イエス・キリストの十字架と復活の出来事における神の救いの恵みを告知するものですが、地上のイエスの宣教においては、父の無条件の恩恵の支配の告知という形を取っています。イエスが宣べ伝えられた「御国の福音」とは、父の恩恵の支配の告知に他ならないことは、この「幸いの言葉」の講解の最初からずっと明らかにしてきました。今この「心の清い者は幸いである」という御言葉を、父の恩恵の支配の場に置くとき、それはどのような響きを発するのでしょうか。
 無条件・絶対の恩恵が圧倒的に支配するところでは、「混じりけのない、純粋な心」とは、その父の恩恵を、分裂のない姿で、全身全霊をもって受け取ることを意味します。そこでは自分の価値や資格は完全に消え失せます。ただ、背く者を赦し、無条件で受け入れてくださっている父の愛だけがわたしを圧倒しています。このように、父の恩恵の前に全存在をもってひれ伏している姿が、恩恵の場における「心の清い者」の姿です。その時、わたしたちの心は、神の「混じりけのない、純粋な」愛、すなわち相手の在り方に絶した、奥底まで善意だけの父の清い御心を知るようになります。もし、このような父の愛を知ることを「神を見る」ことと表現してよいのであれば、「神を見るであろう」というこの「幸いの言葉」の約束は、わたしたちが十字架の恩恵にひれ伏すときに、その場で実現する、と言えます。

神を見る

 さて、「心の清い人々」に約束されている「神を見る」という祝福は、本来何を意味しているのでしょうか。それを理解するためには、まずこの言葉の担い手たちが生きているユダヤ教環境を考慮しなければなりません。
 ユダヤ教においては、地上の人間が神を見ることはありえません。たしかに聖書にも、ごく古い伝承の中には、人間が「神を見る」体験をしたことが、素朴に描かれている箇所があります(たとえば、創世記三二・三一、出エジプト記二四・一〇〜一一、士師記一三・二二)。しかし、ユダヤ教は基本的に、神を人間には見えない方として示しています。イスラエルの神ヤハウェは、民に語りかけて、その言葉によって契約を結ばれる神です。そのさい人間は神の姿を見ることは許されていません。しかし、自分たちの神を目に見える形で拝みたいという人間の本性的な欲求から、イスラエルは黄金の牛などの像を造って拝むことを繰り返しました。捕囚前の預言者たちの戦いは、神を見える形で拝みたいという民の偶像礼拝との戦いでした。その戦いの結果として生み出された申命記は、預言者の精神を要約して、こう述べています。
 「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない」。(申命記四・一五〜一六)
 バビロン捕囚を自分たちの罪に対する厳しい裁きとして体験したイスラエルは、捕囚から帰って神殿を再建し、「モーセ五書」という形で律法《トーラー》を確立してからは、もはや神を目に見える形で拝もうとはしませんでした。捕囚以後のユダヤ教においては、神は見えない方として天の高みにいまし、民の中に内住されるとしても、それは贖罪の祭儀が行われる神殿の中の、誰も見ることを許されない至聖所だけに臨在される神となります。神は人間のあらゆる知覚を超えた方であるという、神の超越性は時と共に強調されるようになります。民の一人一人が「神を見る」ということは地上ではありえないことであり、もし人が神を見ることがあるとすれば、それは神が救済の業を完成し、その栄光を現される終わりの日のことになります。その日には、神と人との交わりを妨げたり限界づけたりするものはなく、人は「顔と顔とを合わせて神を見る」ことになります。ユダヤ教においては、「神を見る」とは終末的希望の一つの表現であり、終わりの日の救済と同じ意味であると言えます。
 使徒たちはユダヤ人ですから、終末的な希望を語るのにこの「神を見るにいたるであろう」という表現を用いるのは理解できます。パウロはこう言っています。

 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。(コリントT一三・一二)

また、ヨハネはこう言っています。

 「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。(ヨハネT三・二)

 マタイ福音書のユダヤ人キリスト教的な地盤を考慮に入れると、マタイが未来形を用いて「神を見るであろう」と言うとき、それはこのような終末的な出来事を意味していると理解すべきでしょう。その理解は、「地を受け継ぐであろう」という句にも表現されていた、「幸いの言葉」全体の終末的な祝福の約束の基本線にも一致します。
 もし、ユダヤ教的な基盤から来る限界を超えて、「神を見る」という句を、何らかの形の現在の人間の霊的体験を指すと広く理解しますと、「心の清い」者という句も、限りなく多様な解釈を許すことになります。事実、この「幸いの言葉」はあらゆる種類のキリスト教神秘主義の源流となった感があります。しかし、「第三の天にまで引き上げられた」という神秘的体験をしているパウロが、「神を見る」ことを終末の時にまで保留していることを考えますと、マタイ福音書の「神を見るであろう」も、終末的な約束としての理解に止めるべきでしょう。地上では、いかに祝福された聖霊による神体験も、人間の霊性という「鏡におぼろに映っている」神の栄光にすぎないという間接性を自覚すべきです。
 こうして、このマタイの「幸いの言葉」は、父の無条件の恩恵を一点の自我主張も混じらない純粋な心で受け取ることによって、隣人に対して悪意の混じらない純粋な善意だけの心で対する者になるように勧告し、そうなることによって、「神を見る」という形で表現されている終わりの日の救済に与るように励ます言葉になっています。