市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第10講

第四節 義に飢え渇く者

マタイにおける「義」

 前講において、マタイが資料として用いた「イエスの語録集Q」と比較することによって、マタイ版の「幸いの言葉」の特色を見てきました。その中でイエスの本来のお言葉にもっとも近いと考えられる三つの幸いの言葉(三、四、六節)にも、マタイ特有の編集が加えられていることを見ました。今回はその中で、「飢えている人たちは幸いである」というイエスのお言葉が、マタイでは「義に飢え渇く人々は幸いである」となっている点を取り上げてみたいと思います。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
   その人たちは満たされる。(六節)


 「義」《ディカイオシュネー》という用語は、マタイでは出てくる回数はそれほど多くはありませんが(計七回)、マタイの宣教では重要な位置を占めています。とくにマタイがまとめあげた「御国の福音」(五〜七章)では、中心に位置しており、七回の中五回までがここに出てきます。その中でも重要なのは五章二〇節でしょう。

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。(五・二〇)

マタイは、ここで宣べ伝えられている「天の国」に入る者、すなわち神の終末的な支配にあずかり、救済の約束に与る者は、その義が「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさるものでなければならないと宣言しているのです(この節は語録資料Qにはなく、マタイの編集句であることが一般に認められています)。そして、その義が律法学者やファリサイ派の義にまさるとはどういうことか、以下に続く六つのいわゆる「対立命題」(五・二一〜四八)で説明していくのです。それは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく」という形で、ファリサイ派などユダヤ教一般の律法の要求以上に、完全に神の御旨を行うことを求めています。その内容については、その箇所の講解で詳しく触れることになりますが、ここでの用法から、マタイのいう「義」とは人間の行為とか在り方に関わるものであることが分かります。
 さらに、六章一節で「自分の義《ディカイオシュネー》を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい」(協会訳)と言って、その後に具体的な例として、施しと祈りと断食という宗教的行為について述べています。ここでの「義」は明らかに人間が行う行為です。新共同訳はここの《ディカイオシュネー》を、以下の文脈を考慮してでしょう、「善行」と訳しています。このような用法からも、マタイが《ディカイオシュネー》と言うとき、それは律法の永遠の有効性を前提にして(五・一八)、その律法を内面化しファリサイ派以上に完全に実現する人間の行為とか在り方を指していることが理解できます。
 「義」という用語をマタイはこのような意味で用いているとなりますと、六章三三節の「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というときの「神の義」も、「神の前に通用する人間の正しい行為とか在り方」という意味であると理解せざるをえません。パウロが「神の義は福音の中に啓示された」という時の「神の義」という意味に理解することは、とうていできません。また、この箇所にかぎって、マタイが「天の国」と言い換えないで、「神の国」という表現を用いていることが注目されます。おそらく、「神の義」という表現と並行句にするために、資料として用いた「イエスの語録集Q」の表現をそのまま採用したのでしょう。あるいは、Qの「神の国」という表現に触発されて、「神の義」というマタイには珍しい表現を用いたのかもしれません。
 以上にあげた三箇所と「幸いの言葉」の中の二箇所(六節と一〇節)が、マタイがまとめた「御国の福音」の中で「義」が用いられている五箇所です。ところでこの五箇所は、語録集Qにはない節(五・一〇、五・二〇、六・一)であるか、マタイが「義」という表現を書き加えた節(五・六、六・三三)です。こうして見ると、「御国の福音」に出てくる「義」はみな、語録集Qにはなくて、マタイが書き加えたものであることが分かります。このことから、マタイがいかに強く「義」にこだわっていたかがうかがわれます。

律法に対する熱心

 このような「義」に対するマタイの強い希求の姿勢を見ますと、イエスの「飢えている者は幸いである」というお言葉を、マタイが「義に飢え渇いている者」と解釈したことは、当然なこととして理解できます。さらに、マタイの理解する「義」、すなわち、律法の永遠の有効性を前提にして、その律法を内面にまで尖鋭化して完全に実現することは、イエスの弟子となったユダヤ人には、全身全霊で慕い求める目標になることも理解できます。マタイは、イエスの「飢えている者は幸いである」というお言葉を、このような義を慕い求めるユダヤ人の弟子たちに、彼らの義への希求が満たされることを約束する言葉にします。
 イエスは実際に飢えている人々をイメージして「飢えている人たちは幸いである」と語られたと考えられますが、マタイはそれを義を慕い求めている人と理解するので、慕い求めることを表現する言葉も「飢え渇く」となっています。これは、詩編など旧約の敬虔においては、神を慕い求める魂の姿は「渇く」というメタファーで語られることが圧倒的に多いので、自然に「渇く」が付け加えられて、「飢え渇く」という句になったと見ることができます。
 「その人たちは満たされる(未来形)」という約束はどのような形で実現するのか、幸いの言葉は何も述べていません。義に到達することを求めて努力すれば必ず実現するという励ましなのか、努力する者には神の助けがあり、神の助けにより義が完成すると約束しているのか、終わりの時に神の賜物として義が与えられると待望しているのか、様々に理解することができます。どのように理解しても、「義」の内容が人間の行為とか在り方である以上、この幸いの言葉は全体として、義を追求することに熱心であれ、と励まし訓戒する性格の言葉となります。この解釈は、マタイ版の「幸いの言葉」が全体として知恵の訓戒・勧告の傾向を示していることと一致します。また、マタイが「御国の福音」において義の内容について多くの言葉を用いて説いている事実からも支持されます。
 ここで問題が起こります。義の実現を慕い求めなさいという勧告がストレートに、律法に従った行いと生活をすることに熱心でありなさい、という意味に理解されますと、ファリサイ派と変わらない、いやファリサイ派以上に厳格な律法主義に陥る危険があります。新約聖書の時代のユダヤ教は、律法の実行にきわめて熱心でした。「熱心」は時代の合言葉でした。各派は律法への「熱心」を競っていました。その中で、「あなたがたの義がファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入ることはできない」と説くマタイの立場は、ユダヤ教イエス派に、他のどの派よりも律法の成就に熱心であれと励ますものである、と受け取られる可能性があります。実際、ユダヤ人信徒の中には、とくにパレスチナのユダヤ人信徒には、そういう意味で律法に熱心な人たちも多くいたのです。そういうユダヤ人信徒はマタイの立場に、わが意を得たりと共鳴したことでしょう。そういうユダヤ人はガラテヤ書に出てくるパウロの批判者と同質です。そこから、「ガラテヤの異端者たちはマタイ福音書の最も近い親族である。・・・・マタイがパウロの敵対者たちの側に属したであろうことは、原則として妥当する」(U・ルツ)という判断も出てくるのです。
 では、マタイは律法の説教者なのでしょうか。ユダヤ教律法の内面化と徹底的な実行を説く律法学者なのでしょうか。そう受け取ることができる一面があることは事実です。しかし、マタイにはさらに重要な別の一面があります。それは、マタイが、イエスの宣べ伝えられた恩恵の支配の福音を理解し、保持し、伝えているという面です。それは、恩恵の支配を告知するイエスの言葉や働きを語る伝承を保存し伝えているだけでなく、福音書全体の構成において恩恵の支配の福音を説いているという事実です。

福音の場で聴く

 ここで、序章で説明しました「マタイ福音書成立の意義」を思い起こしていただきたいのです。そこで見ましたように、マタイ福音書は、マタイの共同体の固有の伝承であるイエスの語録集、いわゆる「語録福音書Q」を、キリストの十字架・復活の福音を物語るマルコ福音書の枠の中に取り入れて構成されたものでした。そうして成立したマタイ福音書の最大の意義は、語録集に伝えられたイエスの言葉を「福音」の場に置いたことであることを明らかにしました。わたしたちはマタイと共に、イエスのお言葉を「福音」の場で聴かなければならないのです。
 その時代のユダヤ人信徒がどのように理解したかとは別に、ときには著者の意図を超えて、わたしたちは著者が伝えるイエスの言葉を、「福音」の場で理解し受け止めなければならないのです。「福音の場で」というのは、「キリストにあって(エン・クリストー)」ということです。わたしたちのために死に、三日目に復活されたキリストに結ばれて生きる者、このキリストにおいて到来している終末的な神の恩恵の支配に与っている者として聴くということです。
 では、福音の場で聴くとき、「義に飢え渇く者」の幸いの言葉はどういう意味になるのでしょうか。まず、福音において「義」とは、神と人とのあるべき関わりの姿のことですが、その関わりは人間が正しい行為を積み重ねて築き上げるものではなく、神が創り与えてくださるものであるという理解が、福音の「義」の理解の根底にあります。パウロが「神の義」という時の「義」は、まさにそのような神からの救いの働きとしての義なのです。「義」をそういうものと理解しますと、その「義」は自分の側にはないのですから、神からの恵みの賜物として慕い求めないではおれないわけです。「義」をこのように理解しますと、「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされるからである」という言葉は、きわめて福音的な響きを発する言葉になります。
 「義に飢え渇く者」というのは、自分の側には神に受け入れられる資格としての義がないこと、いや、ありえないことを知っているので、神からの賜物として義を慕い求めないではおれない者を指します。これは「貧しい者、霊において貧しい者」の姿に他なりません。このように義に関して、すなわち神との関わりにおいて、自分を無の場に置く者は、その義への渇望は必ず「満たされる」ことになるのです。満たしてくださるのは神です。神の終末的な救済の御業が満たしてくださるのです。
 この義への飢え渇きはどこで満たされるのでしょうか。それは十字架の場においてです。復活によって栄光の主として立てられた方が、わたしの罪のために十字架につけられて死なれたという現実を、ひれ伏して受け取る時です。十字架の前にひれ伏すとき、十字架の場に働く神の霊が、わたしたちの内に神の贖罪の奥義を啓示し、刻み込んでくださるのです。その時、わたしたちの魂はわたしたちの思いをはるかに超える神の御業、すなわち、罪人(つみびと)を義とする神の終末的な救済の働きを体験するのです。こうして、わたしたちの義への飢え渇きは、十字架の場において、御霊の現実により、「満たされる」のです。
 わたしたちは地上で肉体をもって生きている限り、主から離れていることも知っています(コリントU五・六)。そのため、主と完全に一つになることを待望し、神を慕い求める渇きは絶えることはありません。しかし、キリストにあって義の賜物を受けていることにより、その渇望が満たされるという確かな希望をもって生きることができます。その幸いを感謝しないではおれません。
 「義に飢え渇く者」について、このような理解はマタイの意図を超えているかもしれません。しかし、イエスの語録をマルコ福音書の枠の中に組み入れたマタイの構想の延長線上にあると考えられます。新約聖書全体が提示する福音の場では、この幸いの言葉はこのように理解せざるをえません。逆にもし、わたしたちがこの言葉を、著者マタイの意図の範囲内で、当時のユダヤ人信徒たちが受け取ったように、律法への熱心を勧める言葉として受け取るならば、折角マタイが伝えようとした一面である恩恵の福音を覆い隠してしまう危険があります。そして、この福音書のこのような文字どおりの受け取り方が、教会の歴史の中で新しい形の律法主義を生み出していったのも事実なのです。