市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第9講

第三節 霊の貧しい者

イエスの言葉の特徴

 先にマタイとルカの二つのテキストを比較したところで見ましたように、Q文書にはおそらく次のような形でイエスのお言葉が伝えられていたと推定されます。

 貧しい人々は幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 飢えている人々は、幸いである、
  あなたがたは満たされる。
 泣いている人々は、幸いである、
  あなたがたは笑うようになる。

 この形はイエスが語られたお言葉をかなり忠実に伝えていると見ることができます。イエスはこのような言葉で、回りに集まってきた民衆に語りかけられたのです。
「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」という宣言が、当時のユダヤ教の敬虔にとっていかに革命的なものであるかは、前章で詳しく見ました。この第一の言葉は、「幸いの言葉」全体の表題のような位置を占めています。それだけでなく、イエスが語られた「御国の福音」の根本精神を表現する標語としての意味を持っています。
それに続く「飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる」という言葉と、「泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」という言葉の二つは、第一の言葉を具体的な表現を用いて、さらに印象深く言い換えたものです。「飢えている人々」とか「泣いている人々」は「貧しい人々」の具体的な姿を描いている句ですし、それに対応して用いられている「満たされる」とか「笑うようになる」という句は、「神の国」が与えられることの幸いを感覚的な用語で表現しているわけです。このような表現は、多くの譬にもみられるように、民衆の日常の生活に即した具体的な表現を用いられたイエスの語り方にふさわしいものです。
目の前で病人を癒し悪霊を追い出して、神の救いの力を示されたイエスの口から発せられる、「飢えている者は幸いである」とか、「泣いている者は幸いである」という逆説的な言葉は、聴く者の心にどのような大きな驚きと深い印象を与えたことかと思います。なぜ、飢えている者が幸いであり、泣いている者が幸いなのか。それは、貧しい者にこそ神の国が与えられるのだからです。飢えて泣いている貧しい者、自分のものを何も持っていない貧しい者こそが神の支配の現実に入ることができるからです。

将来と現在

 イエスの「幸いの言葉」は明らかに、勧告や訓戒ではありません。飢えることや泣くことを勧めることはありません。貧しい者であれ、と訓戒しているのでもありません。これはあくまでも事実の描写です。イエスは端的に貧しい人々の事実を描いておられるのです。飢えて泣いている貧しい人々は幸いである、と事実を宣言しておられるのです。
ここで、「満たされる」とか「笑うようになる」という動詞が未来形であることに注意しなければなりません。それは、貧しい者に与えられる神の国が将来の現実であることを示しています。現在飢えて泣いている貧しい者は、やがて到来する将来の神の国において、満たされ笑うようになる、というのです。ルカはこの点を強調して、「飢えている」と「泣いている」に「今」という語を付けました。
イエスの神の国の告知に将来の面があることは否定できません。イエスの宣教においても、神の国は将来の現実、すなわち「まさに来らんとしている」現実なのです。しかしそれは、どうなるか分からない未来ではなく、現在と同じように確かな未来なのです。それは、聖霊によって現在すでにイエスの中に到来している将来なのです。そのように確かな将来であるゆえに、イエスは今飢えて泣いている貧しい者に、「神の国はあなたがたのものである」と宣言されるのです。
 その貧しい人々の幸いを描くのに、イエスは「神の国」あるいは「神の支配」という、ユダヤ教特有の終末論的な用語を用いておられます。それは、「神の支配」という表現が、聴衆である当時のユダヤ人たちにとって、救済を語る共通の言語であったからです。当時のユダヤ人はみな、「神の支配」の到来を待ち望んでいました。「神の支配」が到来するとき、神の民を苦しめる悪しき権力は裁かれ、神に忠実な民は救われて栄光に入るのです。その時が近いことを、多くの預言者たちが告げていました。その中で代表的な人物が洗礼者ヨハネです。彼は「神の支配が近づいている」と叫び、その時に備えて、悔い改めてバプテスマを受けるように迫ったのです。
 イエスご自身もヨハネを神からの預言者と認めて、同じように「神の支配は近づいている」と宣べ伝えられたのでした。イエスの「神の国」宣教に、差し迫った未来のことを語っておられるという面があることは否定できません。それで、この「幸いの言葉」においても、救済が「神の国」という用語で語られるかぎり、「満たされるであろう」とか「笑うようになるであろう」という未来形が用いられるのです。
 しかし、イエスは時代の共通言語である「神の国」あるいは「神の支配」という終末論的用語を用いながらも、たんに未来のことを語っておられるのではありません。もし、ルカのテキストを未来に起こる黙示思想的な逆転という意味だけに理解するならば、それはイエスのお言葉の真意を受け取り損なうことになります。イエスは「神の支配」という終末論的な用語の中に、まったく新しい内容を盛り込んで用いておられるのです。そのイエス独自の新しい内容を聴きとることが、「幸いの言葉」解釈の眼目です。

恩恵の支配の告知

 では、イエスが「神の支配」という時代の共通の用語に盛り込まれた新しい内容とは何でしょうか。それは、「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」というお言葉に凝縮されています。すでに前章で詳しく述べたように、このお言葉は「恩恵の支配」という新しい時代の到来を告知する、イエス独自の宣言なのです。人間の側の価値や資格を絶して、神が無条件に賜物として与えてくださる、神と人との新しい関わりの時代の到来を告げ知らせるのです。イエスにとって「神の支配」とは「恩恵の支配」に他ならないのです。
 神の「国」とか「支配」と訳されている語《バシレイア》は、「王の支配」を意味する語です。神が王として支配される現実を指す用語です。イスラエルは王国制度を体験して以来、ヤハウェを王として賛美することを始めました。詩編には、「ヤハウェは王となられた」という賛美と宣言が出てくるようになります。そして、バビロン捕囚を転機として、王としてのヤハウェは終末の時に現れる世界の支配者として待ち望まれるようになります。この時期の預言者は、終わりの日の救いを宣べ伝える者が「あなたの神は王となられた」と叫ぶ、と表現しています(イザヤ五二・七)。
 イエスの時代のユダヤ教において、「神の支配」は二重の意味をもっていました。神は現在律法によってイスラエルの民を王として支配しておられるが、終わりの日にはその律法によって世界の諸国民を裁き支配されるというのです。イエスは伝統的な神の《バシレイア》をいう表現を用いておられますが、その中身は違います。神はもはや王として律法によって支配されるのではなく、父として恩恵によって支配されるのです。イエスの「御国の福音」は、父の恩恵の支配を告げ知らせるのです。
 イエスの「幸いの言葉」は、終末的預言とか知恵文学的訓戒というような既成の類型で理解することはできません。イエスの中に聖霊によって到来している「父」の恩恵の支配の現実が、イエスの口を通して溢れ出ているのです。それは、モーセを通して与えられた契約を超えるものであり、預言者たちが終わりの日に実現すると語った事態であるという意味で、終末的な事柄を語る言葉です。しかし、もはやそれは未来のことを語っているのではなく、現在の事実を告げ知らせているのです。それは、これまでの預言とか知恵というような既成の類型で理解することはできない性質の言葉です。それは「福音」という、まったく新しい類型の言葉として理解されなければなりません。イエスは啓示の山において「御国の福音」を語り出されているのです。イエスが語り出された「幸いの言葉」こそ、「御国の福音」の核心なのです。