市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第8講

第二節 預言と知恵

ルカ版の黙示思想的傾向

ルカ版のテキストは「今」という語を加えることによって、現在の貧しさと将来の栄光の富との対照を強調しています。さらに、「今」満腹して笑っている富める人々が将来悲しみ泣くようになる、という反対側への逆転を加えて、この貧しい者の終末的な栄光への逆転を際だたせています。そこには黙示思想的な傾向が見られます。ルカは本来黙示思想家ではありません。ここでも黙示録的な用語は用いず、日常的な用語だけしか使っていません。しかし、ルカの版の「幸いの言葉」は黙示思想の枠組みの中で動いています。
黙示思想は厳しい二元的な対立の枠の中で救済を考える思想です。それは、捕囚以後のユダヤ教の中で、異教帝国の支配の下で抑圧に苦しみながら、律法に忠実に生きることによって神の救済の約束に与ることを目標にして苦闘した、「敬虔な人々」の間で発展した思想です。世界は、神に属し神の律法を守る義なる民と、この世の支配権をもち神に敵対する不義の民との二種類に峻別され、時代は今の世(アイオーン)と来るべき世という二つのアイオーンに分けられます。今の時代では不義なる民が支配して義人を苦しめているが、神が来たらせる将来の時代においては、不義なる民は神の裁きによって滅ぼされ、神に属する義人たちが苦難から救い出されて栄光を受ける、という思想です。

黙示文書における「幸いの言葉」

 黙示文書も、その主張を表現するのに、好んで「幸いの言葉」という形式を用いました。ダニエルに現れた御使いは、「待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである」(ダニエル一二・一二)と言っています。苦難の中で神の救いの約束を忍耐深く待ち望む者の幸いを説いているのです。
 終わりの日に関わる幻を見せられたエズラは、こう言っています。「主よ、前にも申しましたが、今また申します。今、あなたの定めを守って生きている人々は幸いです」(ラテン語エズラ記七・四五)。そしてさらに、神の隠された秘密を示された者の幸いを、こう述べています。「あなたは多くの人よりも幸いである。あなたはいと高き方のもとに呼ばれているが、これはごくわずかの人にしかないことである」(同一〇・五七)。エチオピヤ語エノク書は、「幸いなるかな、きみら義人たち選民よ。きみたちの分は栄光に満ちている」(五八・二)と、選ばれた義人たちを祝福し、他方、義人たちに敵対する者たちについては、「わざわいなるかな、不義を行い、いつわりのことばをほめそやすきみたちは。きみたちは滅び、救いも幸福も得られない」(九九・一)と断罪しています(エノク書の引用は村岡崇光訳から)。

新約聖書における黙示思想

ダニエル書以来、ユダヤ教世界には多くの黙示文書が生み出されました。それらの文書は細かい点では相違がありますが、基本的にはこのような二元的な対立の枠組みで救済を待ち望んでいる点では共通しています。初期のキリスト教会もユダヤ教からこのような黙示思想を受け継いで、将来の救済を宣べ伝えました。ヨハネ黙示録はユダヤ教黙示録の直系ですし、ヨハネ黙示録を除いても、新約聖書にはマルコ福音書十三章などに見られるように、黙示思想が深く染み込んでいます。
ルカの「幸いの言葉」は、本来のイエスの「幸いの言葉」が黙示思想的な方向に展開した一つの例と見ることができます。たしかに、ルカにおいてはもはや律法に忠実であるか否かが民を二分する原理にはなっていません。異教の人々にも分かりやすい「貧しい者」と「富める者」という日常的な表現で二分されています。しかし、現実のこの世で飢えて泣いている貧しい人々、窮迫して神に縋るほか道がない者たちが、来るべき世で栄光を受け、それに対して、この世で満足し笑っている「富める者」、権力を握り驕り高ぶっている者たちが破滅するという宣言は、まさしく黙示思想そのものです。
 黙示文学では普通、ダニエルとかエノク、エズラというような昔の聖徒の名を使って後代の著者が語るという偽名性と、幻や譬など象徴的な表現が多く用いられるという特徴があります。ルカのテキストにはこういう特徴はありませんから、これを黙示文学の一種と見ることは適切ではないかもしれません。正確に言えば、黙示思想の底流をなしている終末的な預言の精神の表現であると言えます。
 語録集Qは、その成立過程はともかく、現在の形を全体として見ると、こういう終末的な預言の精神に貫かれています。Qがイエスの語録集の冒頭に掲げる「幸いの言葉」は、イエスがこういう預言者的な精神から発せられたものとして載せられていると見ることができます。それをルカが、「今」という語を加え、さらに富める者の不幸を対比させて、将来の逆転を強調したと見ることができます。

マタイの知恵文学的傾向

それに対して、マタイの「幸いの言葉」は、やや異なる視点からまとめられているようです。たしかに、マタイにも来るべき世での救済を待ち望むという終末的な側面があります。それは、「慰められる」とか「満たされる」という動詞が未来形であることや、「地を受け継ぐ」という終末的な救済を指す表現(これについては後述)が用いられていることからも分かります。しかしマタイは、ルカのように黙示思想的な逆転を強調することはありません。むしろ、「幸いである」と語りかけられている「貧しい者」は、この世でどのような在り方をすべきであるか、を教えようとする姿勢が前面に出てきます。
もともとユダヤ教における「幸いの言葉」という類型は、そのような訓戒または勧告の意味で用いられることが多かったのです。たとえば詩編は冒頭に次のような「幸いの言葉」を置いています。

 「いかに幸いなことか、
   神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
   罪ある者の道にとどまらず、
   傲慢な者と共に座らず、
   主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」。 (詩篇 一編一〜二節)。

 これはイスラエルの民に、このような歩みをするように訓戒し勧告している言葉であることは明らかです。この他にも知恵文学には勧告し訓戒するための「幸いの言葉」が多く見られます。
 旧約聖書に現れる「幸いの言葉」は、大部分知恵文学の中に出てきます。それは、「いかに幸いなことか、知恵に到達した人、英知を獲得した人は」(箴言三・一三)と、知恵を賛美する形で、知恵を追求することを勧め、「子らよ、わたしに聞き従え。わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」(箴言八・三二)と、「諭しに従う」ように訓戒します。
  イエスが語られた「幸いの言葉」は、たしかにユダヤ教の知恵文学の勧告・訓戒のための「幸いの言葉」の形式を取っています。しかし、本来のイエスの「幸いの言葉」は勧告・訓戒の言葉ではありません。「泣いている者は幸いである」という言葉は勧告にはなりえません。「飢えている者は幸いである」は訓戒ではありえません。
 ところが、マタイは「義に飢え渇いている者」というように「義に」を加えることによって、これを勧告ないし訓戒の言葉にしている、あるいは、そう受け取ることができるようにしているのです。マタイが語りかけているユダヤ人にとって、義といえば律法の順守を指すと受け取る可能性があります。その場合、「義に飢え渇く者」とは、律法を完全に順守実行することを、飢え渇いている者のように熱心に追い求める者という意味に理解されます。そうするならば、その熱意は神の助けにより、あるいは終末の完成の時に、「満たされるであろう」と約束されることになります。こうして、この「幸いの言葉」は、律法を順守して神に義と認められることを熱心に追求するようにという勧告の言葉になるのです。(この句の別の理解の仕方については後で触れることになります。)
 ルカと共通していないマタイ独自の「幸いの言葉」には、勧告の意味合いの強いものが見られます。「柔和な者」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を実現する人々」というような表現は、こういう在り方をすれば、これこれの祝福を受けるであろうという約束を伴う、勧告ないし訓戒としての意味合いで用いられていると理解することができます。
 こうして、マタイがまとめた「幸いの言葉」は、イエスの本来の「幸いの言葉」が、信徒の現在の在り方についての勧告ないし訓戒の方向に展開した例であると見ることができます。そして事実、キリスト教会の歴史においては、マタイが一歩踏み出した方向に進み、このような勧告としての解釈が主流を占めるようになるのです。
 では、イエスが語られた「幸いの言葉」は、もともとどういう意味なのでしょうか。それは終末的な預言でしょうか。知恵の訓戒でしょうか。もう一度、イエスの元のお言葉と見ることができるテキストに戻って、考察しましょう。