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第三節 貧しい者

「貧しい者」と「霊の貧しい者」

 「霊の貧しい人々は、幸いである、
    天の国はその人たちのものである」。 

(五章三節 私訳)


 そのイエスの口から最初に発せられたのが、「霊の貧しい人々は幸いである」という驚くべきお言葉です。天の国とは「霊の貧しい人々」のものである、というのです。この言葉はイエスの「御国の福音」の全内容を一言に凝縮しています。では、「霊の貧しい人々」とはどのような人たちのことでしょうか。
 内容に入る前に、ルカのテキストと比べてみましょう。ルカはこのイエスのお言葉をこう伝えています。

 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」。(ルカ六・二〇)

 マタイとルカの間には二三の相違点があります。まず、ルカはただ「貧しい人々」と言っているのに対して、マタイは「霊の貧しい人々」としています。次に、ルカは「あなたがたのものである」と二人称を用いているのに対して、マタイは「その人たちのものである」と三人称を用いています。さらに、ルカが「神の国」という表現を用いているのに対して、マタイは「天の国」を用いている点が違っています。
 理由を詳しく説明することはできませんが、結論だけ言うと、ルカの方がマタイよりも「イエスの語録集」の文面に忠実であり、また、本来のイエスのお言葉にも近いと考えられます。「神の国」を「天の国」と言い直しているのはマタイの特色です。また、ルカが「霊の」という句を削ったと見るより、マタイが「霊の」を加えたと見る方が自然です。さらに、イエスが直接聴衆に向かって「あなたがたのものである」、「あなたがたは〜される」と言われた発言を、祝福の言葉という類型に一般的な「その人たち」という三人称に変えて、全体を統一したのもマタイの編集の結果であると見ることができます。
 イエスのもとに集まってきた群衆に向かって、イエスは「あなたがた貧しい人たちは幸いだ。神の国はあなたがたのものである」と語りかけておられるのです。さきに「聴衆」のところで見ましたように、イエスの癒しの働きに神の恩恵の圧倒的な力を体験し、またそれに身を委ねようとして集まってきた群衆こそ「貧しい人たち」なのです。彼らは神の前に誇ることができる自分の持ち物は何もなく、神の恩恵に縋る以外に拠り所がない人たちなのです。
 たしかにイエスのもとに集まった「群衆」は、イスラエル社会では貧しい階層の人たちが多かったのは事実でしょう。しかし、イエスが「貧しい人たち」と言われるのは、収入や資産が少なくて貧しい生活をしている階層の人たちのことではなくて、神との関わりにおいて「貧しい」人たちのことを言っておられるのです。イエスは社会問題を解決するために登場されたのではなく、「神の国」を宣べ伝えることを使命として働いておられるのです。すなわち、人間の神との関わりを本来の正しい姿に引き戻して完成させるために登場されたのです。イエスは一切を神との関わりで見ておられます。ですから、イエスが「貧しい人たち」と言われるときは、神との関わりで貧しい人たちという意味です。神との関わりにおいて、誇るに足る価値ある物を何も持っていない人たちのことです。
 マタイが「貧しい者」に「霊の」という句を加えたのは、この「神との関わりにおいて」という意味を明確にするためであったと理解できます。ここに用いられている《プニューマ》という語は、「霊」とも「心」とも訳せますが、本来は「霊」を意味する語です。「心」は人間の内面の精神活動を広く指しますが、「霊」はその中でとくに、神との関わりをもつ人間の内的次元を指す用語です。それで、「神との関わりにおいて」という意味を表現するには、「心」よりも「霊」の方が適切だと考えられますので、今回の講解では「霊の貧しい者」という私訳を用います。
 マタイがこの句を加えたとき、イザヤ書の「打ち砕かれた心」(六一・一)や「霊の砕かれた人」(六六・二)という表現が念頭にあったのでしょう。マタイは「霊の」を加えることによって、イエスの「貧しい者は幸いである」という端的な表現の鋭さを減少させたかもしれませんが、イエスの言葉の意味を指し示すことによって、貧しい社会階層に属することが直ちに「神の国」を保証するという誤解を避けるのに役立ったという面もあると考えられます。

旧約の伝統

 「貧しい者」という表現については、イスラエルには預言者以来の長い伝統がありました。ヤハウェとの契約共同体としてのイスラエルには、本来貧しい者はいないはずでした。ヤハウェが各人に嗣業として土地を与えられたからです。しかし、王国時代には一部の力ある者が弱い者を圧迫して富を集め、貧しい者を苦しめるという傾向が出てきました。捕囚前の預言者たちは、これをヤハウェとの契約の重大な違反として、イスラエルの罪を糾弾しました。

 「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ」。(アモス二・六)
 「何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と、主なる万軍の神は言われる。(イザヤ三・一五)
 ここでは「わたしの民」と「貧しい者」が同格に置かれています。イスラエルの中で真に神に属する民が「貧しい者」と呼ばれるようになっているのです。
 ところが、バビロン捕囚の体験はイスラエル全体を捕らわれ人として、「貧しい者」の立場に突き落としました。捕囚期とそれ以後の預言者は、捕らわれのイスラエルに対して「貧しい者」を救われる主の恵みを告げ知らせました。その中でもっとも重要な預言がイザヤ書にあります。

 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」。(イザヤ六一・一)

 このような預言者の伝統を受けて、イスラエルの祈りの書である「詩編」では、敵対する力によって圧迫され、神の救いを叫び求める魂が「貧しい者」と呼ばれています。

 「主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ。速やかに来てください」。(詩編四〇・一八)
 「主は流された血に心を留めてそれに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」。(詩編九・一三)

 詩編では「貧しい者」とはイスラエルの中の敬虔な者であり、義なる神の救いの対象です。「貧しい者」は自分の救いだけでなく、神の義の顕現を叫び求める民でもあるのです。
 イエスの時代のユダヤ教では、とくにクムラン宗団の人たちが「貧しい者」という表現をよく用いました。彼らは自分たちを「貧しい者」と呼び、自分たちこそ終わりの時に召し集められた神の民であると自覚していました。死海文書の中の「感謝の詩編」では、繰り返し主が「貧しい者の生命を贖いたもうた」ことが感謝され、「戦いの書」では、主は「砕けた魂」「貧しい者」によって悪しき者を滅ぼされることが賛美されます。この書の中には「霊の貧しい者」という表現さえ出てきます(戦いの書一四・七)。
 イエスが自分のもとに集まってきた群衆を「貧しい者」と呼ばれるとき、それはこのようなイスラエルの敬虔の伝統を受け継いでおられることは明かです。イエスご自身も生涯を通して詩編の祈りに親しんでこられた方ですから、神に救いを叫び求める民を「貧しい者」と呼ばれるのは自然の流れです。
 しかし、イエスの場合にはそれを超える面があります。パリサイ派の人たちが「罪人(つみびと)」と呼んだ人々を、イエスは「貧しい者」と呼んでおられる点に、イエスの場合の独自性があります。当時パリサイ派は律法学者の多数を占め、ユダヤ教の主流派となっていました。彼らは主の律法を厳格に行うことこそ主の民として救いと祝福にあずかるために欠かせない条件であるとしていました。そのために、聖書に書き記されているモーセの律法を、具体的な状況において行うにはどうすればよいかを熱心に研究し、律法を時代に合わせて解釈した学者たちの教えを「父祖たちの言い伝え」として語り伝え、それを聖書に書かれた律法と同じように権威あるものとしていました。このように神の律法を熱心に学び行う自分たちこそ「義人」であるとし、職業や生活の必要に追われて、律法を学び行うことができない階層の人々を「地の民」と呼んで軽蔑し、「罪人(つみびと)」として交わりから排除していました。
 イエスは、このように「罪人(つみびと)」と呼ばれていた人々を、「貧しい者」と呼び、「神の国はあなたがたのものである」と言われたのです。イエスの回りには、このような「罪人(つみびと)」と呼ばれる人々が集まってきていました(九・一〇〜一三)。イエスはそのような人々と食卓の交わりをもち、彼らにこの「御国の福音」を語られたのです。この点において、イエスが言われる「貧しい者」は、イスラエルの敬虔の伝統にとって革命的な面が出てきています。
 クムラン宗団に代表されるエッセネ派も、自分たちを「貧しい者」と呼んでいましたが、彼らの方がイスラエルの伝統に忠実です。それは、彼らはあくまで「律法を守る者として」、律法を無視する不義の民から苦しみを受け、神の救いに縋る「貧しい者」だからです(死海文書ハバクク書注解一二・二以下、詩編注解二・五以下)。クムラン宗団がパリサイ派以上に律法順守に熱心であったことは、彼らが残した死海文書の全体から十分に伝わってきます。彼らが自分たちを「貧しい者」という言うとき、それはあくまでも純粋に律法を守る者であるゆえに、不敬虔な者たちから苦しめられている者であるという自覚を表現しているのです。
 それに対してイエスは、救いを求める者にいかなる資格も求めず、癒しを与えるのに何の条件もつけられませんでした。どれだけ律法を守っているかには全く無関係に救いを与えていかれました(「律法に無関係の救い」を最初に宣べ伝えたのはパウロではなくイエスです)。それで、イエスの回りには「罪人(つみびと)」が大勢集まってきたのです。このような人々を「貧しい者」と呼び、彼らに神の国の祝福と栄光を約束されたイエスの「御国の福音」は、イスラエルの伝統的敬虔をくつがえすものであり、パリサイ派の律法学者には(そしてクムランの敬虔な人々にも)赦しがたい冒?になるのです。イエスもこのことをよく自覚しておられて、ご自分の働きを「貧しい人は福音を告げ知らされている」と要約された後、すぐに「わたしにつまずかない人は幸いである」と続けておられます(一一・六)。

十字架の場で

 イエスはご自分の使命と働きを「貧しい者に福音を告げ知らせる」こととしておられました(一一・五)。この表現は明らかにイザヤ書六一章一節から来ています(ルカ四・一八)。イエスは、ここで見たような意味で「貧しい者に福音を告げ知らせる」ご自分の働きを、イザヤ書によって予言され、イスラエルにおいて待ち望まれていた終末時の救済を成就するものとしておられるのです。
 「貧しい者に福音を告げ知らせる」というイエスの宣教の働きにおいて、神の終末的な支配、すなわち「神の国」とか「天の国」と呼ばれる事態が到来しているのです。それは、(マルコ福音書講解ですでに見ましたように、そして、このマタイ福音書講解でこれから見ていくことになりますように)神の絶対的な恩恵の支配の実現です。
 それはイエスご自身の中に到来して実現していたのです。「霊の貧しい者」として、すなわち、神の前に自己を無として明け渡しておられたイエスに、神の霊の力が満ち溢れ、父の恩恵が圧倒的に支配しているのです。「霊の貧しい人は幸いである。天の国はそのような人たちのものである」という言葉は、何よりもまず、イエスご自身の告白なのです。イエスはご自分の中に到来している「神の国」の現実を宣べ伝えておられるのです。

 「霊の貧しい者」がイエス御自身の告白であることについては、小池辰雄著作集第一巻『無者キリスト』(小池辰雄著作刊行会)を参照してください。

 ところが、わたしたちは「霊の貧しい者」になることができない点が問題です。古来、「霊の貧しい者」というイエスのお言葉を、謙遜な心とかへりくだった生き方と理解して、なんとか謙遜な心で生活して、それによって神の国に入ろうと必死の努力をする人たちが絶えませんでした。ところが、人間には自己を主張してやまない本性があり、このような努力はどこかで行き詰まらざるをえませんでした。
 イエスが言われる「霊の貧しい者」というのは、そのような倫理的な次元のものではありません。自己の存在そのものが無になるという霊の次元の問題です。高度に霊的な宗教(たとえば禅)は、自己を無にすることが人間の真の完成の道であることを予感して、無を実現するために厳しい修行に励みました。しかし、それは常人にはできないことです。もし、この言葉を「霊の貧しい者になれ」という要求として受け取りますと、これは自己の存在と価値を主張してやまない人間本性とは逆の方向の要求ですから、自分で実現することは不可能です。
 この地点で、序章の「マタイ福音書の成立」について述べましたこと、すなわち、「福音書」は、「語録集」のようにイエスのお言葉を裸のままでわたしたちに伝えるのではなく、あくまで十字架と復活という神の救済の出来事の場に置いて伝えるものであるということが、重要な意味をもって立ち現れてきます。わたしたちは、このイエスのお言葉を十字架の場で聴かなければならないのです。
 福音とは「十字架の言葉」です。死者からの復活によって主(キュリオス)キリストとして立てられたイエスが十字架につけられて死なれたのは、実に「わたしのため」であったのです。わたしが死ななければならない死を、十字架の上でイエスが死んでくださっているのです。イエス・キリストを信じるとは、復活されたキリストに自己の存在を全面的に委ねることによって、キリストの十字架上の死に合わせられ自己が死に、あらためて復活されたキリストの命に生きるようになることです。
このキリストの十字架に合わせられて自己が死ぬとき、「霊の貧しい者は幸いである」と言われたときの「霊の貧しい者」が実現するのです。神の前に価値を主張する自己が徹底的に打ち砕かれて、自己がゼロであることを知るのです。その時、聖霊が与えられることによって、「神の国はあなたのものである」という現実が始まるのです。神の霊は、自己を空しくされたイエスに降り、満ち溢れました。それが、イエスが生きられた神の国の現実でした。わたしたちの場合は、十字架に合わせられることによって初めて聖霊が降るのです。聖霊は十字架の場においてのみ体験できるのです。そして、聖霊がわたしたちの生にもたらしてくださる現実こそ、地上に到来している終末の事態、「神の国」、「天の国」なのです。