市川喜一著作集 > 第6巻 マタイによる御国の福音 > 第3講

第三節 マタイ福音書の成立

マタイの共同体

 マタイ福音書が、マルコ福音書とイエスの語録集の二つをおもな資料とし、それにマタイだけの特殊資料を加えて書かれたものであることは、かなり以前から広く認められていました。ところが、今回ここで見ましたように、イエスの語録集が一つの文書となって「語録福音書Q」として成立していたとなりますと、マタイは「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」という二つの「福音書」をおもな資料として用いたことになります。
 ところで、これまでに見てきたように、この二つの福音書はまったく性格が違います。別の流れの中で成立した別系統の福音書です。その二つの福音書を合わせて一つの福音書を書くということは、決断を要する仕事です。学者が書斎の机の上に二つの文書を並べて、適当に一つの著作にまとめるという性質の仕事ではありません。その仕事は、自分が責任を負う教会ないし信仰共同体に対し、その信仰の質と将来の進路に重大な影響を及ぼすことになるはずです。マタイはどのような状況に迫られて、このような試みをあえてする決断をしたのでしょうか。
 マタイ福音書の場合も、この福音書がいつ、どこで、どのような状況で成立したのかは、福音書自身の内容や構成から推定するほかはありません。研究者の間で議論は続いていますが、ここでその詳細に立ち入ることはできません。ここでは、マタイがどのような状況でこの決断をしたのかを考察するために、現在広く認められている事実を三点あげておきます。
 一 マタイ福音書を生み出した教会ないし共同体(以下、マタイの共同体と呼びます)は、ユダヤ人信徒の共同体であって、その共同体はシリアのどこかの大きな都市にあったと推定されます。やはりアンティオキアが有力な候補となります。アンティオキアの共同体はごく初期から異邦人を含む共同体でしたが、大都市では家庭集会のようなものも含めて複数の集会が活動していましたから、ユダヤ人人口が多い大都市ではユダヤ人だけの共同体がその中に存在することはありえることです。とくに、七十年の神殿崩壊以後は、パレスチナから逃れてきたユダヤ人信徒が移住してくるなど、シリアの共同体の人員構成は変化していました。
 二 著者はこのユダヤ人共同体の指導的立場にあったユダヤ人であって、もともとファリサイ派に近い立場にいた律法学者(あるいは学者的人物)であったと考えられます。著者が、七十年以後のユダヤ教の代表的指導者であるファリサイ派律法学者ヨハナン・ベン・ザッカイと驚くほどよく似ていることが指摘されています。古代教会の伝承はこの福音書の著者をイエスの直弟子である使徒マタイとしていますが、それはありえないことです。そうであれば、直接の目撃証人である使徒マタイが、そうでないマルコ福音書を資料として用いたことになるからです。しかし、使徒マタイから発する伝承の流れの中で成立した文書を「マタイによる福音書」とするのは古代の慣習ですから、ここでも本書の著者を「マタイ」と呼んで進めていきます。
 三 福音書の成立年代は、七十年前後に成立したと見られるマルコ福音書と「語録福音書Q」より後であることは確かですが、それほどの年月が経っていないと考えられます。それで成立は八十年代であると広く認められています。

マタイ福音書執筆の状況

 では、どのような状況に迫られて、著者は「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」を一つにしようという決断をしたのでしょうか。その状況を知る手がかりは、この福音書自身の中にあります。
 第一に、ファリサイ派ユダヤ教との厳しい対決の姿勢です。七十年の神殿崩壊によって祭儀はなくなり、祭司階級のサドカイ派は没落しました。その後のユダヤ教は、聖書解釈の専門家であるファリサイ派律法学者たちによって再建されることになります。彼らはヤムニアに学院を設立して、世界のユダヤ教徒の指導に当たります。彼らは自分たちの律法解釈に反する非主流派各派や黙示思想運動を異端として断罪し、厳しく追求するようになります。ナザレのイエスをメシアとし、黙示思想的傾向が強く、異教徒をもその中に含むようになったキリスト教団は、ユダヤ教の中に置いておくことができない異端者として弾圧されるようになります。それまではユダヤ教の中にいることを当然とし、ユダヤ人たちに働きかけてきたイエスの信奉者のユダヤ人たちは、厳しい状況に立たされることになります。マタイ福音書はこの段階の厳しいユダヤ教との断絶を反映しています。マタイ福音書には、もはやユダヤ人にイエスを信じるように呼びかける姿勢はなく、「彼らの」会堂や学者たち、と突き放した表現や態度が貫かれるようになります。この福音書のイエスはファリサイ派の学者たちに対して厳しい断罪の言葉を放たれます(二三章)。
 第二に、異邦人伝道に対する矛盾した態度です。この福音書は、異邦人伝道を禁じる地上のイエスの言葉(一〇・五〜六)を残したまま、「すべての民をわたしの弟子としなさい」(二八・一九)という復活のイエスの命令を福音書の締めくくりとしています。この事実は、マタイの共同体が本来異邦人伝道になじまない体質をもっているにもかかわらず、異邦人伝道に乗り出さざるをえない状況を示唆しています。
 このことは、ユダヤ教との対決姿勢と合わせて、マタイの共同体の危機的状況を示しています。エルサレム神殿の崩壊は、キリスト共同体側では、イエスが予言された通り不信のユダヤ人に対する神の最終的な裁きと解釈され、ユダヤ教側からの弾圧姿勢と相まって、両者の間には対話の余地のない状況が生まれていました。もはやユダヤ教社会の中に留まることができなくなったユダヤ人キリスト共同体は、もし異邦人伝道に乗り出さなければ、不信のユダヤ人社会と異邦人社会に進展している一般のキリスト共同体の間で、孤立せざるをえません。実際に、そのような道を歩んで孤立し、歴史の舞台から消えていったユダヤ人キリスト共同体もあるのです。そのような状況で、マタイ福音書の著者は自分の共同体の体質的な反対を押し切って、異邦人伝道に乗り出す決意をしたと見られます。そして、そのような状況に促されて、マルコ福音書と「語録福音書Q」を一つに合わせる決断をしたようです。

マタイ共同体固有の伝承としての「語録福音書Q」

 マタイ福音書は文学的な形態から見ますと、マルコ福音書の枠組みの中に「語録福音書Q」が素材として組み込まれた形をとっています。その逆ではありません。しかし、マタイの共同体が立っていた伝承という観点から見ますと、「語録福音書Q」が先にあって、マルコ福音書は後になって外から入ってきたものであると見られます。
 この点について、最近のドイツのカトリックとプロテスタント共同の学術的注解である「EKK新約聖書註解」でマタイ福音書を執筆しているU・ルツは、この福音書の綿密な分析検討の結果、次のように言っています。
 「マルコ福音書はシリアにあったマタイ教会の固有の福音書ではなく、外部からユダヤ人キリスト教会に入り込んできたものである。この教会自身の伝承は、主として語録資料に代表されるものであった」。
 マタイの共同体がもともとは「語録福音書Q」の伝承の流れにある共同体であることは、この福音書のいたるところに示されています。その点については、個々の内容を取り扱うさいに触れることになると思います。ここで一例だけあげておきますと、復活されたイエスが弟子たちを派遣されるさいに与えられたとされる命令は、「すべての民に福音を宣べ伝えよ」ではなくて、「すべての民をわたしの弟子とせよ」であり、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」です。この福音書全体を締めくくる言葉は、生前のイエスの言葉を守ることを基本的な主張とする語録福音書の精神にふさわしい表現です。
 マタイの共同体が本来は「語録福音書Q」の共同体であったことを示すもう一つの実例は、さきに見た異邦人伝道に対する態度です。マタイは状況に迫られて異邦人伝道を決意していますが、それに反対する言葉が地上のイエスの語録として保存されているわけです(一〇・五〜六)。この事実は、この共同体に、もともとユダヤ人の間だけの運動として異邦人伝道に無関心な語録福音書の体質があったことを示しています。もしマルコ福音書がこの共同体の本来の福音書であれば、このような現象は起こりえないはずです。
 さらに、マタイがマルコ福音書を取り扱う仕方にも、マタイの「語録福音書Q」の体質が出ています。ここでも一例だけあげますと、マルコがユダヤ教の清めの律法そのものを批判している箇所(マルコ七・一〜二三)を、マタイも取り入れていますが(マタイ一五・一〜二〇)、マタイはそれに一二〜一四節を挿入することによって、それをファリサイ派への裁きの言葉に限定しています。このような取扱い方は、「語録福音書Q」がユダヤ教律法の有効性については疑問を感じていないところからくると見られます。

マタイ福音書の影響

 このように、本来「語録福音書Q」を奉じてきたマタイの共同体が、後になって外から入ってきたマルコ福音書を受け入れ、この福音書の物語の枠の中に、自分たちが受け継いできたイエスの語録を組み入れてマタイ福音書を成立させたことは、福音の展開の歴史にとってきわめて重大な意味をもつ出来事でした。その重大さは、この福音書が新約聖書正典の中で占めている位置にすでに示されています。
 古代教会は多くの文書の中から、自分たちの信仰の拠り所として権威ある書を選び出し、配列し、新約聖書正典を結集したとき、このマタイ福音書を第一の書として最初に置いたのです。それは、古代教会がこの福音書がもつ重要な意義を直感していたからであると言えます。そのため、人々はキリスト教といえばマタイ福音書を思い起こすというほどになりました。そして事実、マタイ福音書はその後のキリスト教の歴史に重大な影響を与え、キリスト教の性格を決定してきたのです。しかし、その影響にはプラスの影響と共に、この福音書の受けとめ方によってはマイナスの影響もあったことが認められます。一つの福音書がキリスト教の歴史に及ぼした影響というのは、あまりにも主題が大きくてここでは扱えません。ここでは、マタイ福音書が「物語福音書マルコ」と「語録福音書Q」を一つにした福音書であることから生じる影響の、プラスの面とマイナスの面のごく概略をスケッチしておきたいと思います。
 まず、マルコの物語にイエスの語録が組み入れられたことの意味の重要性は、組み入れられた部分に「主の祈り」や、「貧しい者は幸いである」とか「敵を愛しなさい」というイエスの言葉が含まれていることからも、すぐに分かります。そのような言葉をもたないキリスト教は考えられません。
 しかし、物語福音書にイエスの語録が組み込まれたことの意義は、マルコ福音書に欠けている内容が補われたというだけではありません。イエスの言葉は、語録福音書の中では新しい生き方を掲げてそれに従うように呼びかける教師の呼び声に過ぎませんが、物語福音書の枠の中に入れられることによって、すなわち「福音」の場に置かれることによって、神の恩恵の言葉としての響きを発するようになるのです。「山上の説教」は、もはや倫理的要求とか知恵の教師が与える格言とかではなくて、絶対無条件の恩恵によって人間を自分の子として受け入れてくださる父の、子への溢れる恩恵の言葉となるのです。
 この点が、語録福音書がマルコ福音書に組み込まれたことの最大の意義だと思います。語録福音書だけの姿では、当時のユダヤ教の中での新しい知恵の運動とか黙示思想的運動として、ユダヤ教の歴史の中に埋もれて、結局は消え去っていたでしょう。裸の「語録福音書Q」は「失われた福音書」にならざるをえないのです。それは福音に組み込まれることによって初めて、人類にとって永遠の光となるのです。
 このように、物語福音書に語録福音書を組み入れたマタイ福音書は、以後のキリスト教の歴史に計り知れない富をもたらしましたが、一方、受けとめ方によっては福音を覆い隠すというマイナスの影響を与えたことも認められます。マタイは、十字架・復活の福音を土台とするマルコ福音書を受け入れ、その物語を枠として新しい物語福音書を形成したわけですが、マタイ福音書の中になお色濃く残っている「語録福音書Q」の体質が、土台として受け入れたはずの「福音」を覆い隠す危険をはらんでいるのです。とくに、「語録福音書Q」を奉じるユダヤ人信徒に見られる律法に対する態度が問題です。
 「語録福音書Q」に保存されているイエスの言葉は、ユダヤ教律法の枠を超えた自由な生き方の境地を示しています。しかし、それが新しい生き方を追求する運動である以上、当然のことながら、その言葉を実行することが重要であるとの警告を含みます。マタイはその警告を、「山上の説教」の結びのところで、岩の上に家を建てた人の譬を用いて語っています(七・二四〜二七)。
 こうした実践重視の傾向が、語録福音書を奉じるユダヤ人たちの運動の中で、律法の実践を重視する体質を強化することになります。ユダヤ人にとっては律法の有効性は疑問の余地の無い事柄だからです。律法が永遠に有効であることについて、マタイはこのように書いています。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」。(五・一七〜一八)

 この言葉は、イエスは律法を否定する者ではないかというファリサイ派の学者たちの非難に応え、イエスに従う自分たちの運動が、律法の永遠の有効性を認めるだけでなく、律法の完全な実現を目指すものであることを主張しているわけです。さらに、ファリサイ派に対抗するために、このように言います。

 「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。(五・二〇)
 そして、続く箇所で、イエスに従う者の義がどのような意味でファリサイ派の人々の義に勝るのかを、「あなたがたはこう聞いている。しかし、わたしは言っておく」という形式の六つの「対立命題」で示していくのです(五・二一〜四八)。こうして、高度に霊的なイエスの言葉は、律法の高度な実行を求める言葉に組み込まれていくのです。「対立命題」は「山上の説教」の本体と見られますが、その部分に付けられた前置き(五・一七〜二〇)は、「語録福音書Q」の言葉ではなく(一八節はQに含まれる可能性がありますが)、マタイが書いたものです。それは、「語録福音書Q」を奉じるユダヤ人の運動がどのような方向に進んでいったのか、その行き先をよく示しています。
 そこで問題になっている「義」は、律法を実行し実現することを意味しています。この「義」は、パウロがガラテヤ書やローマ書で明らかにしている福音の場における「神の義」とは違います。マタイ福音書が教会で第一の書として重視された結果、律法の実現という意味の義が、神の救いの働きとしての義を覆い隠すようなことがしばしば起こりました。その覆い隠された「神の義」を再発見する努力から宗教改革が起こりました。ルッターがローマ書やガラテヤ書によって「神の義」を再発見したことが、あの宗教改革を引き起こしたのは、その代表的な事例です。
 内村鑑三がどこかで次のような意味のことを書いているのを、若いころに読んだ記憶があります。「キリスト教というと人々はマタイ福音書の五章から七章を思い浮かべるが、キリスト教の本質はそこにではなく、マタイ福音書の二六章から二八章にある」。
 マタイ福音書の五章から七章は「山上の説教」と呼ばれるイエスの教訓集で、「語録福音書Q」の代表的な箇所です。マタイ福音書の二六章から二八章は受難物語であって、「物語福音書」の代表的な箇所です。内村鑑三は、ここで見たような共観福音書の史的批判研究以前の人ですが、その鋭い直感によって二つの箇所の性格の違いを見抜き、どちらに福音の本質があるかを見定めていたと言えます。
 長々とマタイ福音書の成立について書きましたが、それは、この福音書成立の歴史的状況を認識することによって、マイナスの影響を避け、マタイ福音書全体をしっかりと福音の場に置いて、この福音書が提供する豊かな富を正しく受け取ることができるようになるためです。
 それでは、次章からこの福音書のもっとも特色のある箇所である「山上の説教」に入って行きたいと思います。