市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第25講

Y 主の祈り

第六講 負債ある者を赦したように

決算の日

 「父よ、わたしたちの負債をお赦しください、
  わたしたちも、わたしたちに負債ある者を赦しましたように」。

 決算の時が迫っている。すべての人が神の前に自分の生涯の決算書を提出しなければならない時が迫っている。
 人間は自分で存在しているのではない。自分を存在させている方がある。だから、その方から「どのように生きたか」と問われるならば、それに答えなければならない立場にある。この「答えなければならない立場」のことを「責任」と言う。英語でもドイツ語でも「責任」という語はそういう意味の語である。
 「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」(詩篇一四・一)。自分が「神はない」と考えれば、神に対する責任も無くなると思うところに彼らの愚かさがある。わたしたちが日本という国に住んでいてそこで生活している以上、「日本という国はない」と心のうちに考えていても、日本の法律に違反すれば、法廷で自分の行為について答えなければならない。自分が日本という国の支配権の下にいるという事実は変わらない。同じように、人間が神についてどのように考えようと、人間が神によって存在を与えられ、自分の生き方について神に答えなければならない立場にあるという事実は、いささかも変わらない。
 人間は神に対して責任を負うものであることを、イエスは「決算」の譬で語られた。主人の財産を委ねられた者は「会計報告(決算書)」を主人に提出しなければならない(ルカ一六・二)。神の支配は王がその家臣と「決算をする」ようなものである(マタイ一八・二三)。財産を僕たちに委ねて旅に出た主人は、帰ってきて僕たちと「決算をする」(マタイ二五・一九)。神の支配が到来する時は、神がすべての人と決算をされる日である。その日、各人はその生涯における行為だけでなく、言葉や心の思いまで神の前に「決算書を提出する」ことになる(マタイ一二・三六)。
 決算の時は迫っている。それは二重の意味で「迫っている」と言える。第一は、神が全世界を裁かれる日が迫っている、という意味である。その日はいつ来るかわからない。明日かもしれない。その日は「いなずまが天の端からひかり出て天の端へひらめき渡るように」世界を一瞬のうちに照らし出すであろう。いなずまが突然ひかり渡るように、その日も思いもかけない時に突如世界に臨むであろう。第二は、わたしがいつ死ぬかもわからない、明日かもしれないという意味で、わたしが生涯の決算書を提出する日が迫っている。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが、人間に定まっている」(ヘブル九・二七)。しかし、その時がいつであるかは誰も知らない。いずれにせよ、わたしは神の前に決算をする備えをしていなければならない。
 わたしは自分の決算書が厖大な負債であることを知っている。それは返済不能である。人に対するお金の負債は死ぬまでに清算することもできる。人に対して犯した過ちは謝って赦してもらうこともできる。しかし、神への負債は自分のよい業で清算できるようなものではない。ある人たちはこう考える、「たしかに自分には神の戒めに違反する行為がある。しかし、その負債は自分が神の戒めを懸命に守り行うことによって清算することができる。神が喜ばれる供え物や断食や祈りの定めを他の人以上に厳格に守れば、かならず神に受け入れられるプラスの決算書を出すことができる」。イエスの時代のパリサイ人たちはこう考えたのである。そして世の多くの「宗教」はそう教える。
 彼らは人間の「罪」が何であるかを知らないのである。彼らは「罪」を人間の個々の行為の次元で見ている。神の戒めにかなう行為は義であり、違反する行為は罪である。罪の行為を少なくし、もしあっても義の行為を多くしてそれで清算すれば、神に受け入れられる決算書を出すことができる、と考えている。しかし、「罪」とは人間の行為で清算できるようなものではない。それは人間の在り方そのものである。人間は傲慢にも自らを神とし、自分を存在させているかたを不要とし、その方を憎んでいる。人間は本性的にこのような在り方をしているので、道徳とか宗教の規範にかなう行為も、神を不要とし他の人を蔑むという傲慢を増し加えるだけになっている。この傲慢こそ神がもっとも忌み嫌われる罪である。
 ここでイエスが、自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちについて語られた譬を聞こう(ルカ福音書一八・一〇〜一四)。

 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪びとのわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 人間が神に義とされるのは、すなわち神に受け入れられ、神との交わりを与えられ、神の栄光に与ることができるのは、神が人間の罪を赦してくださる時だけである。換言すれば、神と人間の関わりが成り立つのは、神があわれみをもって人を扱ってくださる場、恩恵の場だけである。この取税人は恩恵の場に自分を置いたのである。
 イエスがわたしたちに「わたしたちの負債をお赦しください」と祈るように教えられるのは、決算の日を目前にして、わたしたちが神に義とされる唯一の場である恩恵の場に自分を置くように教えておられるのである。わたしは自分の存在そのものが神に叛く罪であることを知っている。この負債は自分の業で返済できるようなものではない。わたしはただ、「父よ、あなたはわたしの父です。あなたのあわれみにより、返済することのできないわたしの負債を赦してください」と願うほかはない。

恩恵の場での祈り

 「父よ、わたしたちの負債をお赦しください、
  わたしたちも、わたしたちに負債ある者を赦しましたように」。

 ところでこの祈りの第二句は、一見、わたしたちが人を赦すことが、自分の赦しを受ける条件になっているように見える。その点がこの祈りの問題点とされている。しかし、この第二句こそ、イエスの福音の特質をよく示しているのである。
 イエスが宣べ伝えられた「神の支配」とは「恩恵の支配」である。イエスの中に終わりの日に実現すると約束されていた「恩恵の支配」が来ているのである。囚人が解放され、罪が赦される「恵みの年」が告げ知らされているのである。神が恩恵により無条件で人の罪を赦し、あるがまま罪びとを受け入れ、神の子として扱われる時が来ているのである。取税人や遊女のように自分がまったく無価値・無資格の者であることを知っている者たちは、感涙をもってこの福音を受け入れ、恩恵の場に入って行った。ところが宗教的・道徳的に立派な人たちほど、自分の価値を否定することができず、イエスの福音を退け、「恩恵の支配」に入ることを拒んだのであった。
 イエスの「神の支配」の宣教においては、最終的な「神の支配」顕現の日が迫っているという将来の面を保持しながら、同時に終わりの日の祝福がすでに到来し、その現実がすでに与えられていることが特色であった。現在すでに与えられているから、未来が喜ばしい生き生きとした未来として待望されるのである。罪の赦しもまたイエスの宣教のこの終末論的な枠組みの中にある。現在すでに恩恵の場にいて罪の赦しを受けているからこそ、未来の最終的な決算において「負債が赦される」ことに、喜ばしい確かさをもって自分を委ねていくことができるのである。そして、この祈りの第二句こそ自分が現在すでに恩恵の場にいることを告白しているのである。
 この間の消息をイエス御自身が説明しておられる所がある。それは「家臣たちと決算をする王の譬」(マタイ福音書一八・二三〜三五)である。決算が始まった時、自分と妻子と全資産を売っても返済できないような厖大な負債のある家臣が来て哀願したので、王はあわれに思って、彼を赦し、その負債を免じてやった。ところがその家臣は僅かの金額を貸している仲間に出会い、彼に借金を返すように要求し、その仲間が哀願するのを聞き入れず、彼を訴え獄に入れた。これを聞いた王はこの家臣を呼びつけ、「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と言って、負債全部を返すまで彼を獄に入れた、というのである。
 この譬において、この家臣は先に王のあわれみにより自分の厖大な負債を赦してもらっている。だから、自分が受けたあわれみを仲間にも分かち合うべきであった。彼は「あわれみの場」においてしか生きられない者であることがわかったのであるから、その「あわれみの場」にしっかりと止まり、仲間をもあわれみによって扱うべきであった。この家臣が仲間を赦さなかったことにより、彼は「あわれみによって扱われる場」から自分を自分の手で追い出したのである。
 イエスは弟子たちに「わたしたちも、わたしたちに負債のある者を赦しましたように」と祈るように教えられる。イエスの弟子というのは、イエスの中に来ている「罪の赦し」に与っている者たちである。終わりの日に地上に到来する「恩恵の支配」に入っている者たちである。自分が無条件の赦しという恩恵の場でしか生きられない者であることを知っている。そうであればどうして、自分に負債のある者を赦さないでおれようか。もし赦さないとしたら、それは自ら「恩恵の支配」を否定し、自分を「あわれみの場」から追い出すことである。自分に負債のある者を赦すという「恩恵の場」にしっかりと止まっていることによって、最終的な決算において赦されることに自分のすべてを委ねていくことができるのである。
 イエスの「神の支配」の宣教においては、最終的な決算の日が迫っているという面は保持されている。その日を目前にして、「わたしたちの負債をお赦しください」と祈らないではおれない。しかしこの祈りだけであれば、イエスの弟子でなくても多くの人たちが祈っている。イエスの弟子の祈りが違うのは、「わたしたちも、わたしたちに負債のある者を赦しましたように」が加わる点である。すなわち、わたしたちは現在すでに神のあわれみを受け、恩恵が支配する場にいる。お互いに負債を赦さないではおれない恩恵の場にいる。現在すでに恩恵の場にいて、将来の赦しを祈り求めているのである。現在体験している恩恵が将来の最終決算に顕れることに自己を委ねているのである。ここにこの祈りの確かさがある。この第二句にこの祈りの現実性がある。もしこの第二句を加えることができない祈りであれば、将来の赦しはいかなる現実的な根拠をもたない単なる願望となってしまうであろう。
 この将来と現在との関係に、これまでにしばしば見たように、イエスの「神の支配」宣教の独自性がある。「神の支配」という終末的な事態がイエスの中にすでに到来している。その現実が「神の支配」の将来の完成をますます確かで差し迫ったものにしている。この将来と現在との緊迫した関わりの中で、「罪の赦し」という終末的な祝福はこの祈りの形をとるのである。

十字架のもとで

 「父よ、わたしたちの負債をお赦しください、
  わたしたちも、わたしたちに負債ある者を赦しましたように」。

 わたしたちキリストにある者は十字架のもとでこの祈りを祈る。十字架は神からの「罪の赦し」の言葉である。罪なき神の子イエス・キリストが、神の小羊として世界の罪を負って十字架上に死なれた。これは終わりの日に神御自身がされると約束されていた罪の贖いの業であった。キリストを信じ、キリストに結ばれている者(キリストにある者)は、キリストの十字架によって成し遂げられた罪の贖いに与り、その罪が赦されているのである。キリストにある者は、十字架によって「あなたの罪は赦されている」との御言を聴いたのである。
 キリストにある者は、神の子キリストが自分のために死んでくださったことで、罪を赦され義とされたことを知っている。すなわち、義とされて神との交わりに入るのに自分の側の価値や資格は何もないことを知っている。それはまったく神の無条件・絶対の恩恵による。自分は神のあわれみによって扱われる場、恩恵の場以外では生きられないのである。自分の価値や資格がまったく無くなってしまって、恩恵を無条件に恩恵としてひれ伏して受け入れている姿を「信仰」というのであるから、恩恵によって義とされることは「信仰によって義とされる」とも言われるのである。恩恵と信仰は表裏一体である。
 この「恩恵によって義とされる」という原則は、最終的な決算の日にも同じである。キリストにある者は、終わりの日にキリストが栄光の中に顕れる時、自分たちが「死人からの復活」に与り、復活されたキリストと栄光を共にすることを信じ、その希望の中に生きているが、このような途方もない栄光に与る資格がどうして人間の側にあろうか。もし自分のように破れ果てた人間がそのような栄光に与ることができるとするならば、それはまったく神の側の恩恵による以外にはない。その日のことを思うとき、わたしは「父よ、わたしの負債を赦してください」との祈りによって、自分を父の憐れみのもとに投げかけるほかはない。
 わたしたちはすでに十字架の赦しの下にある。神の無限・無量の恩恵の中にある。この恩恵の場にしっかりと止まり、そこから落ちないようにして、決算の日を迎えなければならない。そのためには、今すでに受けている恩恵を現在の歩みの中でしっかりと身につけていく外はない。「わたしたちも、わたしたちに負債のある者を赦しますから」(ルカ福音書の表現)という姿勢で生きることが、恩恵の場に止まり、かの日を恩恵の場で迎えるための唯一の道である。わたしたちキリストにある者も、わたしたちに負債のある者を赦さないのであれば、それはみずから恩恵の支配を否定し、自分を憐れみの場から追い出すことになる。そうなれば、いったい誰が復活の栄光に与るというような資格があろうか。
 こうして見ると、人の罪を赦すことがどれほど重要なことであるかがわかる。それはわたしたちが最終的な救いに与るために歩むことができる唯一つの実践的な道である。自分の正しさや価値を物差しにして他の人を批判したり蔑んだりすることは、自己を義として恩恵の支配を否定することである。自分に敵対し悪をなす者を赦さないで、自分も悪をもって報いる者は、自分を神の憐れみから切り離す者である。このように人を心底から赦すことは人間には本来できないことである。しかし、十字架の場で賜る聖霊がそれを可能にしてくださる。恩恵によって賜る聖霊が、わたしたちが恩恵の中に止まることができるようにしてくださる。一切は恩恵に始まり、恩恵で終わる。信仰から始まり、信仰に至るのである。
(天旅 一九八七年6号)