市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第24講

Y 主の祈り

第五講 来るべき日の糧をこの日に

明日の糧とは何か

 「父よ、わたしたちに明日の糧を今日お与えください」。

 「主の祈り」前半の三つの祈りは、「父よ、あなたの…」という祈りであったが、後半の三つ(数えかたによれば四つ)の祈りは、「わたしたち」に関わる祈りである。前半の三つの祈りは実は一つの祈りであって、イエス御自身の祈りであることは、これまでに見てきたとおりである。後半の「わたしたち」に関する祈りも、イエスが弟子たちのために祈り、さらに弟子たちと同じ立場になり、地上の弱い人間と一つになって祈って下さる祈りである。イエスはわたしたちと一つになって、わたしたち人間に真に必要なものを父に祈り求めて下さるのである。
 その祈りの最初にパンを求める祈りが来る。イエスは弟子たちにまず最初に、「父よ、わたしたちにパンを与えてください」と祈るように教えられる。いったい、イエスはどのようなパンを意味しておられるのであろうか。教会はいつの頃からか、このパンを生活に必要な食物としてのパンと理解して、「日ごとの食物を今日もお与えください」と祈ってきた。教会の永年の伝統の中でこの理解は定着し、現在ではこの祈りを実際の食物としてのパンを求める祈りとして理解することは自明のことになっている。はたしてそうであろうか。この点から吟味してみよう。
 まず第一に用語の意味から吟味しよう。この祈りでは、《アルトス》(パン)という語が用いられているが、これは命を養うための食物一般を代表する用語として、「食物」とか「糧」と訳してよいであろう。問題は、《アルトス》についている《エピウーシオス》という形容詞の意味である。この用語はここだけに用いられている語であるため、他の箇所での意味と比較して、意味を決めることができない。さらにその語形の元になる動詞として、意味の異なる二つの動詞が考えられて、言語学上そのいずれとも決着がつかない。その一つは「存在するのに必要な」という意味を示唆し、他の動詞からの派生とすれば「明日の」とか「将来の」という意味になる。「日ごとの食物」という伝統的な理解は第一の意味に基づいている。
 ところが、この形容詞は「明日の」という意味に理解すべき強い根拠がある。当時の諸言語に精通していることでは古代教会の第一人者であったヒエロニムス(カトリック教会の公認聖書ヴルガータの翻訳者、四〇〇年頃)が、「ナザレ人福音書」の中では《エピウーシオス》にアラム語の《マハル》(明日)が当てられていると述べている。この「ナザレ人福音書」というのはマタイ福音書のアラム語による解説的翻訳であって、アラム語を語るシリヤのユダヤ人キリスト教徒の間で用いられていた。ギリシャ語で書かれているマタイ福音書の「主の祈り」をアラム語に翻訳するに際して、翻訳者は当然自分が日頃唱えている祈りの言葉を用いたはずである。この事実から、イエスや弟子たちが語ったアラム語の伝承においては、《マハル》(明日)という語が用いられていたことは疑いえない。
 さらに、ヒエロニムスは「明日のパン」という表現の解釈について次のように書いている、「明日という意味のマハルによって、ここの意味は、われわれの明日つまり未来のパンを今日われわれにお与え下さいということになる」。マハルは字義の上では「明日」であるが、今日でもそうであるように、広く「未来・将来」を表現する語であり、信仰の世界では「神の明日」として終末を意味する語であった。彼は「主の祈り」のパンを生活に最小限必要な物質的なパンではなく、終末時のパン、つまり終末的な命に必要なパン(命のパン)と理解していたのであった(ちなみに彼のヴルガータ訳では「超実体的なパン」  panem  supersubstantialem となっている)。 パンをこのように終末論的に理解するのは、初めの数世紀の間、東方教会でも西方教会でも支配的であったようである。
 第二にこの祈りが置かれている位置あるいは文脈から吟味しよう。まずマタイ福音書では、施し、祈り、断食という霊的生活について教える六章に置かれているが、その直接の文脈は「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい」というイエスの言葉に明示されている。そして生活上の必要に思い煩うことなく、ひたすら霊的・終末的現実である神の国、神の義を祈り求むべきことは、後に来る「空の鳥、野の花」の説話の中でさらに感動的に語られている。たしかに、「生活に必要なパンを神に祈り求めることと、パンのことで思い煩うこととは別のことである。パンを神に祈り求めるからこそ、思い煩うことをしなくてもすむのではないか」という議論も成り立つ。生活上の必要を神に祈り求めることは間違いではない。神に祈り求めているからこそ、信仰者は必要が満たされ生活できることを神に感謝するのである。しかしマタイ福音書六章の中では、生活上の必要はそれをご存じである父の配慮に委ねて、ひたすら神の国という終末的現実を求めるべきことが教えられているのであるから、その文脈の中ではここのパンは終末的な命のパンと理解する方が自然であろう。
 次にルカ福音書の文脈を見よう。イエスは「主の祈り」を教えられた後(一一章一〜四節)、「夜中の来訪者」の譬(五〜八節)を語り、その譬の結論として「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という御言葉を与えておられる(九〜一三節)。ルカは五〜一三節を直後に置くことによって「主の祈り」を解説しているわけである。その解説は、「絶えず祈れ」という一般的な祈りの勧めと理解するよりは、夜中の来訪者がパンを求めていることから、とくに「主の祈り」の中のパンの祈りに関するものであると理解すべきであろう。するとこの解説は、友人の求めであっても起きて与えるのを断る不精な主人でも、しきりに願うので起き上がって彼が必要とするパンを与えるとすれば、まして天の父は求めてやまない者に聖霊を下さらないことがあろうか、という意味になる。すなわち、ルカは「主の祈り」の中のパンを聖霊をさす用語として理解しているわけである。
 第三に「主の祈り」をそれが祈られた具体的な場に置いて吟味してみよう。初代教会では「主の祈り」は信徒の最も基本的な祈りとして集会のたび毎に祈られたとされている(ディダケー)。そして集会の中心は「主の食卓」であった。すなわち、復活された主キリストの臨在の中で、十字架の死による贖いと栄光の中での来臨を覚えて、パンと葡萄酒とでする共同の食事の場で、この「主の祈り」が祈られたのであった。ところで、「主の食卓」で捧げられる神への感謝は、食物としてのパンと葡萄酒が与えられていることではなく、パンと葡萄酒とが指し示しているキリスト、自分たちのために死なれたキリストと、このキリストの中に成し遂げられた神の救いの業への感謝である。すなわち、パンと葡萄酒は「まことのパン」、「命のパン」である霊なるキリストを指し示す象徴である。このようにパンが霊的世界の象徴として理解されている場で祈られていることを考えると、「パンをお与えください」という祈りが食物としてのパンを祈り求めているとは考えられない。「主の祈り」の伝承が「主の食卓」という場で保持されてきたという事情を考えると、このパンの祈りは終末的な「命のパン」を求める祈りとして伝承されてきたと考えられる。
 祈りの用語に象徴的な表現はふさわしくない、とくに前半の三つの祈りの直接的な表現からしてもこのパンは字義どおり食物としてのパンと理解すべきである、という反論に対しては、以上に述べた「主の食卓」におけるパンが象徴であるという事情と、パンの祈りと一対の祈りのような次の負債に関する祈りにおいて、「負債・借金」というのも罪という霊的事実の象徴的表現である、という点を指摘するだけで十分であろう。
 第四に、「主の祈り」全体がきわめて強い終末論的性格を持っているということを考慮すると、その中でパンの祈りだけを地上の生活に関わるものと理解することは不自然である。当然、この祈りも終末論的に理解されなければならない。
 「主の祈り」が持つ終末論的性格ないし構造というものは、イエスが宣べ伝えられた「神の国」の終末論的構造に由来している。先に述べたように(第三講)、イエスの宣教においては、神が終わりの日に実現すると約束されていた「神の支配」が聖霊によってイエスの中に来ている、すなわち終末が現在の中にあり、そのために終末が力あるリアルな未来となっているのである。このような明日と今日との関係、未来と現在との関係、終末と現実との関係、これがイエスの「神の国」の特質である。
 このような構造の中で見る時、「明日のパンを今日与えて下さい」という祈りは、まさにこのような「神の国」の現実に生きる者の祈りとして最も基本的なものであることが理解できる。「明日のパン」あるいは「明日のためのパン」とは終末時の命を養う糧であって、これは神の霊、聖霊以外のものではありえない。その聖霊を今、この現実の生活の中でいただき、聖霊によって生きるのでなければ、終末時の命も栄光もない。今日そのパンを頂かなければ明日はない。これは最も切実な祈りとなる。
 ルカ福音書の「日々お与えください」という形は、この「今日お与えください」が毎日祈られ、生涯全体がこの祈りに貫かれる姿を表現している、と理解できる。

ただ聖霊を求めて

 「父よ、わたしたちに明日の糧を今日お与えください」。

 わたしは切にこの祈りを祈る。明日の命のための糧として聖霊を求める祈りは何よりも切実である。わたしが信仰に入って以来、自分の必要に関する祈りの中ではいつもこの祈りが第一の、いや殆ど唯一の祈りであった。聖霊のバプテスマを体験して以来、絶えず新たに上より聖霊を賜り、それによって神の国の真理を知りその中に生きることが、わたしの唯一つの願いになった。この世の生活での出世とか名誉とか富はどうでもよいものになった。生活の必要については父なる神の配慮にお委ねして、ひたすら聖霊を求め、聖霊によって真理が啓き示されることを祈り求めて歩んできた。学友の多くが社会の第一線で活躍している時、わたしはひとり山に入って祈り、書斎でひとり聖書と取り組んで来た。
 このように聖霊を求めることを生涯の祈りとしてきた者にとって、「主の祈り」という信仰者にとって最も基本的な祈りの中でのパンの祈りは、聖霊を求める祈りと受け取らざるをえないのである。先にこの祈りのパンを終末的な命のパンと理解すべき理由を四つの観点から述べたが、そのような聖書学上の理由以上に決定的なのは自分の祈りの生涯の事実である。わたしも生活の必要のために祈る。しかしそれは危急の場面に直面した時の特殊な祈りである。それに対して聖霊を求める祈りはわたしの生涯を一貫する最も基本的で中心的な祈りである。
 さて、「明日のパン」とか「来るべき日のための糧」と呼ばれているものの実体は何であろうか。それが聖霊であることはすでに示唆してきたが、もうすこし詳しく検討してみよう。まず第一に、終末時の命を養う糧は神の言葉である。イエスは荒野でサタンに試みられた時、石をパンに変える力、すなわち生活の必要を満たす力をもって民衆を救うようにという誘惑に対して、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と言ってこれを退けられた(マタイ四・四)。パンが養う地上の命はかならず死ぬ。その死を超えて終わりの日の神の栄光に与ることができる命は、神の言によって養われなければならない。しかし、神の言葉といっても、聖書に書かれている文字ではない。神の口から出て人の魂に直接響く霊の言葉である。「文字は殺し、霊は生かす」のである。イエスはそのような次元の言を与えるために来られたのである。イエスが語られる言葉は聴く者を変革し、神の恩寵の世界に導き入れたのである。
 さらに、イエスはこのような「命の言」を語られるだけでなく、自分自身を人々を生かす「命のパン」としてお与えになった。モーセの時のように天からのパンを求める人々に対して、「わたしが天から下ってきた命のパンである」と語り、「わたしを食べる者は生きる」と断言される(ヨハネ福音書六章)。世を生かすためにイエスは十字架上にご自身の命を注ぎ出して与え、神の力によって復活して、霊なる主として生きておられる。この主イエス・キリストが「命のパン」である。地上の人間としてのイエスは食べることはできない。復活された霊なるキリストと信仰によって結ばれることこそ「食べる」ことであり、これは聖霊によってはじめて現実になる。「人を生かすものは霊であって、肉は何の役にも立たない」のである。
 こうして見ると、「神の言」にせよ、究極の神の言としての「主イエス・キリスト」にせよ、われわれの外にある限り人を生かす力とはなりえないのであって、聖霊によって内なる現実となる時はじめて、地上の人間を終末的な命の次元に生かす力となりうることがわかる。この意味で聖霊は「来るべき神の国の保証」とか「初めの実」と呼ばれるのである。現在の地上の人間にとっては、聖霊こそ「明日のパン」であり、「来るべき日の命の糧」である。「明日のパン」を求める祈りは実に聖霊を求める祈りに他ならない。
 人間は神に背き、命の源から切り離されて枯渇し、魂は無意識のうちに神の霊を呻き求めていたのである。神はその呻きに応え、選ばれた民イスラエルの歴史の中で、預言者を通して、終わりの日にはすべての人に神の霊を注ぐと約束してこられたのであるが、ついに時満ちてその救いの業を成し遂げられた。それがイエス・キリストの十字架と復活であり、信じる者への聖霊の注ぎである。イエスは地上におられた時、その時が迫っていることを知り、間もなく与えられる神の霊の注ぎを「父の約束」として弟子たちに語っておられた。聖霊こそ父が父として子たる者に約束された究極の賜物である。だからこそ子たる者の最初の祈りが聖霊を求める祈りになる。この約束があるからこそ、イエスは弟子たちに「全身全霊をもって求め続けよ。そうすれば聖霊は与えられる」と言われるのである。
 ところで、すべて求める者に聖霊が与えられるためには、神に背いているという人間の根源的な罪の問題が解決されなければならない。人間は自分で神の求め給うところを行うこと(律法の行為)によって、この問題を解決することはできない。それで神がこの問題を解決して下さったのである。それがキリストの十字架である。罪なきキリストが神の小羊として人間の罪を負って死なれた。キリストを信じる者は、このキリストの十字架の死に合わせられて死に、神から賜る義によって新しい人として生きるのである。それは、本性的に神に反逆する古い人間が死んだ時に初めて神の霊が注がれ、新しい人間が誕生し生き始めるからである。
 このように、人間が神の霊を受けることができるのは十字架の場だけである。すでに見たように(第一講)、そもそも人間が「アッバ、父よ」と祈ることができるのは十字架の場だけである。わたしは反逆してやまない傲慢で頑なな自分を十字架の場に投げ出して、無条件でわたしを赦し、子として受け入れて下さっている父に祈る。そして、聖霊を与えるという「父の約束」を聞いて、子として何よりも神の霊を慕い求め、祈り求める。神の霊だけが子としての実質を与えて、その命を養い育て、キリストと共同の相続人として終わりの日の神の栄光に与ること、すなわち復活して霊のからだを与えられ、復活者キリストを頭とする復活者の永遠の共同体に与ることを可能にするからである。
 この来るべき日の栄光の「初めの実」である聖霊を、わたしは「今日、この今、お与えください」と祈らないではおれない。来るべき明日は、今日わたしの内に現実となっていなければ、無力であり空虚である。わたしは「明日の糧を今日与えて下さい」という祈りを日々に祈り、この祈りを以てただ一回の生涯を貫くであろう。
(天旅 一九八七年5号)