市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第23講

Y 主の祈り

第四講 御心が行われますように

わたしの意志ではなく

 「父よ、あなたの意志が行われますように!」

 この祈りにイエスの人格の秘密がある。イエスは自分の意志ではなく、父の意志を行うことを究極の願いとして生きられたかたである。いったい、人間が自分以外の者の意志を行って生きるとはどういうことなのかを、まず考えてみよう。
 人はすべて自分の意志を行うことを当然の前提として生きている。人間の内面の奥底で意志がどのようにして形成されるのか、わたしは知らない。欲望、感情、経験、情報、判断、こういうものが溶け合って、「これをしよう」、「これはしないでおこう」という意志が形成されるのであろう。いずれにせよ、自分の意志を行うことが人間としての当然の姿である。そこに自己がある。自分の意志を行おうとして、それができない事態に直面すると、戦ったり、つぶやいたり、断念したり、人は様々な態度で対応する。それでもなお、自分の意志の存在が前提されており、自己は保持されている。
 ところで、人が自分の意志ではなく、他の人の意志を行い、他の人の意志によって生きていくというようなことはできるのであろうか。他人の意志を行うのであれば、もはや自分というものはなくなり、自己の人格は否定されるのではなかろうか。その通りである。しかしこれには二つの場合がある。一つは他人の意志を行うことが力で強制される場合である。もう一つは、自ら進んで相手の意志を行う場合である。
 力で強制される場合は奴隷である。古代奴隷制社会における奴隷は典型的である。そこでは奴隷は自分の意志を行うことはもちろん、自分の意志を持つことも許されていなかった。ただ主人の意志を行うためだけに生きていた。それほど全面的ではなく部分的にではあるが、現代でも他人の意志を行うことが強制される場合がある。国家であれ会社であれ学校であれ家庭であれ、現代社会の支配関係においては大なり小なり自分以外の者の意志を行わざるをえない。その場合、強制される程度に応じて、人は自由が拘束されているとか、人格が否定されていると感じる。そして力によって自分の意志を押し付けてくる相手に反発し、自己を保持しようとする。そこには人格間の分裂と戦いとがある。
 しかし人は自ら進んで他の人の意志を行う場合がある。人が他の人格との関わりの中にある時、自分の意志がどうであれ、相手の意志が明示されたら、いや明示されなくてもできるだけ早く察知してそれを行おうとする場合がある。恋人もそういう場合の一例であろう。それは人が相手を尊敬し、信頼し、愛している場合である。自分が無となって、ただ相手の人格の中に自分を見出すことが、真に自分を生かすことだとしている場合である。このように、ただ相手の意志を行いそれに生きようとする時、その人の人格は否定されているように見える。たしかに否定されている。しかしこの場合は、否定された人格は相手の人格の中に生かされている。その人は相手の人格と一つになっている。人格間の合一がそこにある。
 イエスの場合はもちろん後者である。イエスは神の霊を受けて、父の栄光をはっきりと見られたのである。イエスはこの父の素晴らしさに圧倒され、この方への全き信頼から、自己を空しくし、ご自身を父に明け渡される。イエスはご自分を無とされる。これは自分が無なる存在であることを悟るという認識の問題ではない。もはや自分の意志を行おうとしないで、父の意志だけを行おうとする意志の問題である。父の意志を行うために自分の意志を否定するのが、イエスにおける「無」である。
 イエスは父との全き交わりの中におられたので、地上におけるご自身の存在を「父から遣わされた者」、「天から下ってきた者」と自覚しておられた。それでこう言われる、「わたしが天から下ってきたのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをつかわされたかたの意志を行うためである」(ヨハネ六・三八)。イエスは自分をつかわされたかたの意志を行うことを食べ物として生きられたかたである(ヨハネ四・三四)。イエスの場合、自分の意志の否定は全面的であり、徹底的であった。生きようとする人間の本源的な意志も、神の前に義なる者と認められようとする意志も、父の意志を行うことの前では完全に否定される。イエスは十字架の死を目前にしてゲッセマネで祈られた時、突き付けられている神の怒りの杯を過ぎ去らせていただくように切に願いながらも、最後には「わたしの意志ではなく、あなたの意志に従って為してください」と祈られるのである(マタイ二六・三九)。
 このようにイエスは自分の意志を否定して父の意志に自己を明け渡すことにより、父の中にご自身を見出される。否定されたイエスの人格は父の中に生かされる。ここにイエスと父との人格的な一体性がある。自己を無とすることにより、イエスは父と一つなるかた、父に満たされた方となられる。そこから、「わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じないのか」(ヨハネ一四・一〇)とか、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ一〇・三〇)という驚くべき宣言が出てくる。ここにイエスの人格の秘密がある。

父の意志としての愛の実現

 「父よ、あなたの意志が行われますように!」

 わたしたちもキリストにあってこう祈る。これは人間の本性からはどうしても出てこない祈りである。わたしたちは普段自分の意志を行うことを当然のこととして生きている。そして自分の意志を行うことができない事態に直面すると、それができるようになることを神仏に祈り求める。自分の意志(それも単なる欲望にすぎない場合が多い)の実現こそ、人間の自然の祈りである。
 ところが、このような人間がキリストに出会い、キリストを信じ、キリストに捉まれて生きるようになると、祈りの方向が逆転する。自分の意志の実現のために神を利用しようとしていたのが、神の意志の実現のために自分を捧げるようになる。キリストにおいて御自身を現される神は、人間の本性的な自我を徹底的に打ち砕くからである。
 十字架につけられて殺されたイエスは、神の力により復活して天に上げられ、万民の主と立てられた。今も生きておられるこの復活者がキリストである。キリストを信じるとは、福音の言葉が宣べ伝えているように、その十字架の死を自分の罪のための贖いであると信じ、その復活を自分の復活の保証であると信じることである(コリント人への第一の手紙一五章)。罪とは個々の道徳的非行とかその総計というようなものではない。それは自分を存在させている方への反逆である。神は人間を創造し、これを愛して、人間が神との愛の交わりの中に生きるように願われた。ところが、人間は高ぶって創造者に背き、己れを神として、神を憎むに至った。祈りといっても自分の意志の実現のために神を利用しようとするものに他ならないという姿も、この罪の一つの現れである。この反逆と傲慢は本性的なもので、人の力ではどうしょうもないものである。
 このような傲慢な自己神化の意志が打ち砕かれるのは、人がキリストを信じ、その十字架に合わせられて死に、復活されたキリストと共に生きるようになる時である。福音の言葉によりキリストを信じる者には、神は聖霊を注いでこれを現実の体験としてくださる。聖霊により十字架の奥義が示され神の愛が注がれる時、人はもはや自分のために生きることはできなくなる。自分を愛し、自分のために命を与えて下さった方のために生きないではおれなくなる(コリントU五・一四〜一五)。
 第一講で述べたように、十字架の場において初めて、聖霊による「父よ!」という祈りが実現する。傲慢な自我が打ち砕かれ、神の子としての命を与えられて「父よ!」と祈る時、その祈りには自然に「あなたの意志が行われますように!」という祈りが含まれてくる。子は父を尊び、父を愛し、信頼し、ただ父の意志を行うことにより父の中に生きることを願うからである。われわれは自分の本性でこの祈りを祈ることはできない。十字架の贖いにあずかり、聖霊を受けて初めて、イエスと共にこの祈りを祈ることができる。
 イエスはこの祈りを完全に祈り抜かれた。我々も聖霊によってこの祈りを祈る。ところが、聖霊はわれわれ人間の生まれながらの本性の中に宿り、その中で働いている。自分の意志の実現だけを願い求める生まれながらの本性(使徒パウロはこれを肉と呼んでいる)は無くなってしまったのではない。それで、聖霊により父の意志を行うことを祈りとする生涯は、自分の意志だけを行おうとする人間本性との戦いの中にある。聖霊に導かれ、聖霊に従うことによって、人間本性から出るものを克服していく時初めて、神の子としての実質が現れてくる。聖霊を受けた者は、聖霊に従って生きる責任を、聖霊を与えて下さった方に対して負っているのである(ローマ八・一二〜一四)。
 それでは、このように我々が生涯かけて行うことを祈り求める「父の意志」とは何か。またそれはどこで、どうして知ることができるのであろうか。むかし神は御自身の民イスラエルに対しては「律法」によって御自身の意志を啓示された。その内容は要約すると、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」となる。イエスも律法をこのように要約し、さらに「天にいます父が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者になれ」(ルカ六・三六)と言っておられる。イエスの場合は、「昔の人々に言われていたこと」を超えて、敵をも愛することが求められている。しかし、とにかく神の意志が愛の実現であることは、モーセの律法もイエスによる父の啓示も同じである。
 ところが、モーセの律法は石の板に書かれて外からの要求として人間に与えられたのに対して、キリストによる新しい契約においては、聖霊により人間の心に書きしるされた点が根本的に異なる(エレミヤ三一・三一〜三四、エゼキエル三六・二六〜二七)。自分の意志だけを行おうとする異邦の諸民族の中で、神に選ばれたイスラエルの民は、律法に啓示された神の意志を行おうとして必死の努力をした。しかし、自分が律法を行うことを神との関係の土台にしようとした点で根本的に間違っていた。神と人との関係は、神の側の無条件・絶対の恩恵と、それを自己を空しくして受け取る信仰によってのみ成り立つものである。キリストにおいて絶対恩恵が与えられ、信仰によって義とされる場が成立した。今や、本性的な罪の中にある人間がキリストにある贖いにより信仰によって義とされ、聖霊の賜物を受けることができるようになった。そして、この聖霊の現れとして愛を実現することができるようになった(コリントT一三章、ガラテヤ五・二二)。今や、父の意志を行うことは、外からの律法の要求に自分が拘束されて行うのではなく、恩恵によって賜っている聖霊が内より溢れて、それを願わせそれを行わせるものになった。これが自由である。
 人生の個々の具体的な場合においては、どうしたらよいのかわからない時がある。何が父の意志であるのか、どうすれば父の御心にかなうのか、理解できない場合が多い。これが父の意志であると信じてしたことが行き詰まったり悲惨な結果に終わったりして、自分が父の御心から外れていたことを思い知らされることがある。それはわたしたちを謙虚にするためである。信仰者はともすれば自分の意志を神の意志だと錯覚して、人間の意志に過ぎないものを絶対化する過ちを犯すことがある。そういう思い上がりが打ち砕かれ、人生の具体的な場面で、謙虚に神の意志を求めることを教えられるのである。この事については使徒パウロもこう言っている。

 「わたしたちが絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力をもって、神の御旨を深く知り、主の御心にかなった生活をして真に主を喜ばせ、あらゆる良い業を行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである」。(コロサイ一・九〜一〇)

 ここからも、神の御旨を知るには実際の信仰生活の中での霊的体験の訓練と深化が必要であることがわかる。ただわたしたちが自分の意志ではなく父の意志を求めることを祈りの基本的な姿勢としておれば、父は必ず何らかの形で我らを教え導き、御旨を示して下さるであろう。

天におけるように地においても

 「父よ、
  あなたの名があがめられますように、
  あなたの支配が到来しますように、
  あなたの意志が行われますように!」

 この三つの祈りは一つである。この三つの祈りは一体となって「アッバ、父よ!」の叫びの中に含まれている。一つの祈りは他の二つから切り離すことはできず、その中に含まれている。神の子が聖霊によって「アッバ、父よ!」と叫び、自分の全存在を父に投げ入れていく時、この三つの祈りを一つのからだで祈っているのである。この三つの祈りは一つの祈りの三つの側面と考えてよい。それは実に、聖霊が人間にもたらす信仰と希望と愛との三つが、祈りの形に発現したものである。
 第一の「あなたの名があがめられますように」の祈りにおいて、祈る者はもはや自分の功績とか誠実さとかは投げ捨てて、ひたすらキリストにおいて啓示された父の名、すなわち父の限りない慈愛と信実、義と力に自己を委ねている(第二講参照)。これがまことの信仰の姿である。このように、自分の信仰に絶して、ただ神の恩恵と信実に生きるという質の信仰は、十字架によって自己主張が砕かれ、聖霊によって「父よ」と自己を明け渡すことを学んだ者だけが知るものである。
 第二の「あなたの支配が到来しますように」の祈りにおいては、聖霊によってすでにこの身に神の支配を現実に宿している者が、神の支配の終局的な顕現を祈り求めている(第三講参照)。イエスを死人の中から復活させた方の霊を宿している故に、父の約束に基づき自分が復活することを祈り待ち望み、それを人生の最も確かな目標として生きている。これこそ、新約聖書が「希望」と呼んでいるものの構造である。
 第三の「あなたの意志が行われますように」の祈りは、本講で見たように父の究極の意志として愛の実現を祈り求め、そのために自己を捧げていく者の祈りであった。それは神の愛の命としての聖霊を受けている者にして初めて可能になる祈りであり、またそう祈らざるを得ない祈りである。
 このように、この三つの祈りは、聖霊がキリストにある者に与えて下さる信仰と希望と愛とが祈りの姿で発現したものである。そして、信仰と希望と愛とが同じ一つの御霊から発するように、この三つの祈りも根において一つである。

 マタイが伝える「主の祈り」においては、この三つの祈りの後に「天におけるように地においても」という一句が加えられている。この一句は三つの祈りのなかの最後の祈りだけにかけて、「あなたの意志が天において行われるように、地にも行われますように」と訳されることが多い。しかし、ギリシャ語原文では三つの祈り全部にかかる句と理解することができる。すなわち、「天におけるように地においても、あなたの名があがめられ、あなたの支配が到来し、あなたの意志が行われますように」の意味である。どちらであるかは、文の形からは決めることができないので、内容から決める他はない。わたしは三つの祈りの一体性からして、最後に加えられたこの一句は三つの祈り全体を修飾する句であると理解すべきであると思う。それで私訳においては、原文の勢いと流れを損なわないようにこの句は三つの祈りの最後に置いたが、「すべて」という語を加え、「すべて天におけるように地においても」とすることによって、この一句が三つの祈り全体にかかることを示した。
 では、「地」に対立する「天」とは何か。言うまでもなく、それは日や月や星が置かれている「空」、「星空のかなた」のことではない。聖書で「天」という時はまず、地上の自然界・人間界に対して、霊的諸存在の世界を指している(そのさい、その世界が天空のイメージと重なっていることは否定できない)。それで、神が造られた万物を「天にあるものと地にあるもの」と総称することがある。しかも、諸霊の中で悪霊は「地の下」の世界に属する者として「天」から追放されているので、「天」は神や天使たちという聖なる霊だけが住む世界となる。そういう世界で神の名があがめられ、神の支配が確立し、神の意志が実現しているのは当然である。そのように人間界においてもこの三つの事態が実現するようにという祈りは、たいへん理解しやすい。
 しかし、そのような理解に止まっていてよいのであろうか。この天と地の理解は空間的・存在論的であり、ギリシャ的世界観の枠組みの中にある。それに対して、ヘブライの世界は歴史的であって、つねに時の中で神の啓示が与えられ、神の救済の業が行われる。聖書の世界では時間軸を欠くことはできない。そうすると、イエスが「天におけるように地においても」と言われる時、その天と地の対比は時間軸上で理解されねばならないと考えられる。
 人間は地上にいる。すなわち時間の中にいる。「地」とは時間の中の世界である。それに対して「天」とは時間を超えた世界、時間が果てる彼方である。そこでは時間の中で為されたすべての神の業が完成し、時間の中で与えられた啓示がすべて現実となって顕れている。神の名はあがめられ、神の支配は確立し、神の意志は完全に実現している。それは「終末」の事態である。そう理解すると、「天におけるように地においても」という祈りは、終末的現実が時間の中にいるわれわれの中に、今ここで実現しますように、という祈りになる。これはすでに見てきた三つの祈りの内容、とくに第二の祈りの内容に適合する。そして、これから見てゆく「わたしたち」に関する祈りの内容にも全くふさわしいものである。「主の祈り」はその全体がきわめて強い終末論的な構造を持っている。すなわち、「神の国」と呼ばれる終末の現実を聖霊によって今自分の内に宿している故に、それが地上の歴史を支え、ついには完全な栄光のうちに顕れることを祈り求めないではおれないのである。「主の祈り」はこのように、イエスと共に、終末を宿す故に終末に向かって身を乗り出して生きている者たちの祈りである。
 終わりの日には、すなわち天においては、父への賛美だけになる。「父よ、あなたの名はあがめられました、あなたの支配は確立しました、あたたの意志は実現しました!」。われわれは地上にあって、終わりの日の栄光が今この身に、そして世界の歴史に実現するように祈るのである、「天におけるように地においても!」と。
(天旅 一九八七年4号)