市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第21講

Y 主の祈り

第二講 御名があがめられますように

子の祈り

 「父よ、あなたの名があがめられますように!」。

 これがイエスの第一の祈りである。イエスは自分の事を求めず、何よりもまず、父の名の栄光を求め、父の支配の到来、父の意志の実現を求められる。ここに、子たる者の真実の姿がある。
 人は普通、まず何よりも、自分のことを願い求める。「わたしの健康が守られますように、わたしの事業が繁栄しますように、わたしの家族が無事でありますように、わたしの支配がますます多くの人や富に及びますように、わたしの願望が満たされますように、そしてわたしの名があげられますように…」。始めから終わりまで、わたしの事である。その願いについて、自分の力で実現できない分を神々に祈り求めるのである。これが人間の「宗教」の実態である。
 「主の祈り」はこのような人間の「宗教」を徹底的に否定する。キリストにあって子たる身分を授ける霊を受け、その御霊によって「アッバ、父よ」と祈る者は、イエスと共に、まず何よりも、父のことを祈り求めないではおれない。それは、子とされた者は父の恩恵に圧倒されているからである。自分の存在そのものが父の恩恵によるものであることを徹底的に知っているからである。恩恵の場で、全存在をもって、「アッバ、父よ」と祈る時、自分の願望とか自分の考えは入ってくる余地はない。「わたしの」は打ち砕かれ、「あなたの」だけになる。
 人は口先ではどんな事を言っていても、結局は本心で願っていることを行うものである。人の本心からの願いがその人自身である。もし、祈りが人の最も奥底の願いを意味するのであれば、祈りの内容こそその人自身であると言える。「主の祈り」こそイエス御自身であり、イエスの生涯はこの祈りの表現である。これが神の御子の姿であり、彼にあって神の子とされる者の原型でる。

神の名

 「父よ、あなたの名があがめられますように!」

 名はある物を他の物から区別するための記号にすぎないものではない。名は本来、事物の本質を言葉によって表現したものである。それ故、名づけることは言葉を持つ人間だけに与えられた能力であり、特権である。創世記二章にあるように、人は自分の所に連れてこられたすべての動物に名を与えた。これは動物界に対する人の支配権の表現である。名づけることは本質の把握であり、それはその対象を支配する手掛りとなるからである。
 原始的な呪術宗教は、人間に幸いや災いをもたらす霊的諸力に名を与え、その名を呼ぶことによってそれらの霊の働きをコントロールしようとした。このような呪術宗教の考え方の背後には、名を知る者はその対象を支配するという人類固有の素朴な確信があると言える。
 霊的存在者と人間との関係であろうと、地上の人間どうしの関係であろうと、人格関係は相手の名を知ることから始まる。名を知らなければ、呼びかける対象を特定できないからである。名を知って、その名によって相手に呼びかけることから、人格関係が始まる。ところが、人はまことの神の名を知ることができない。人は自分の方から神の本質を把握することができないからである。人が神の名を知るのは、神が御自身の本質を言葉によって人に啓示してくださる時だけである。
 神が選ばれた民に御自身の固有の名を啓示されたのは、モーセの時であった。燃える柴の中から、「モーセよ、モーセよ」と彼の名を呼ぶ方に、モーセは名を尋ねた。するとその方は、《エヒエー》(わたしはハーヤーする)という名を啓示し、その三人称単数使役形(彼はハーヤーせしめる)である《ヤハウェ》を「これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの名である」とされた(出エジプト記三・一四〜一五)。
 ヘブライ語の《ハーヤー》という動詞は、「成る、生起する、働く、(その結果として)有る」という意味の語である。ここで、神の名が名詞ではなく、動詞だけで表現されていることが意味深い。それは、名詞で指し示される主体がまず存在して、それが働く、というように理解されているのではなく、むしろ働くことのうちに主体が自らを啓示するのであって、主体即働き、働き即主体である。しかも動詞が未完了形であることは、その働きが常に現在的であり、かつ絶えず将来へ向かっていることを示している。
 この方から名を呼ばれて、この方との関わりの中に入る時、その関わりの場を貫く現実は、その方の「わたしはハーヤーする」だけである。すなわち、その場においては、わたしは自らの固有の存在を持ち得ないのであって、ただその方が絶対主体として《ハーヤー》される結果として、わたしが《ハーヤー》している(存在している)のである。わたしがかく存在するのは、その方が《ハーヤー》されることの表現である。その方がわたしの存在の根源である。「みずからハーヤーすることによって創造者である絶対的主体は、また一切のハーヤーをしてハーヤーせしめる主体と考えられている」(有賀鉄太郎)。このような関係を第三者として客観的に述べた名が「ヤハウェ(彼はハーヤーせしめる)」である。
 その後、さらにシナイ山で主はモーセにその名を宣べられた、「ヤハウェ、ヤハウェ、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみとまこととの豊かな神、いつくしみを千代までも施し、悪ととがと罪とをゆるす者、しかし罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて三、四代におよぼす者」(出エジプト記三四・五〜七)。このように、神の名とは言葉によって啓示された神の本質である、と言うことができる。その後のイスラエルの歴史の中で、主は様々な形で御自身の名を啓示してこられた。御名の啓示を受けたイスラエルは「ヤハウェの民」と呼ばれ、御名を負う民として、ひたすらヤハウェの名を呼び、御名の栄光を輝かすことを使命としてきた。
 イスラエルの祈りである詩篇には、ヤハウェの御名への賛美が満ち溢れている。「あなたの名をほめ歌います」(九・二)という表現は少ないが、「あなたのいつくしみは天にまでおよび、あなたのまことは雲にまで及ぶ」(三六・五)という、啓示され体験してきたヤハウェの慈愛と信実とに対する賛美は全編に満ちている。それが「御名をほめ讃える」ことである。

御名をあがめる

 「父よ、あなたの名があがめられますように!」。

 この祈りで「あがめられる」と訳した動詞の原意は「聖とされる」であり、「汚される」の反対である。神はご自分の民イスラエルに「わたしの聖なる名を汚してはならない」(レビ記二二・三二)と求められたのに、現実のイスラエルはその傲慢でかたくなな心のため、ヤハウェの真実と慈愛を無用とし、自分たちにとって無くてならぬ特別のものとしなかった(これが「御名を汚す」ことである)ので、ついにはバビロン捕囚という神の審判を招くことになった。しかし、ヤハウェはイスラエルが諸国民の間で汚した聖なる御名を惜しみ、御名のために業をなし、その大いなる御名の聖なることを示す、と言われる。「御名の聖なることを示す」ことは、聖霊の注ぎと共に、終わりの日に成し遂げられる主の御業、すなわち終末の出来事である(エゼキエル三六・二一〜二八)。
 イエスがイスラエルの歴史を完成する方として出現された時、イエスは御名の聖なることを顕すという使命を御自身の祈りの第一のものとされた。そしてイスラエルの歴史の中で啓示されてきた御名の全体を「父よ」の一語に込めて、その名に含まれる神の御本質を御自身の全存在をかけて顕すことをおのが使命とされたのであった。イエスが語られた教えや譬の言葉、悪霊を追い出し病人を癒された力ある業、すべて父がいかに慈愛深い方であるか、神の言葉がいかに信実であるか、その御力がいかに絶大なものであるかを顕すものであった。そして最後に父の義と聖とを決定的に顕すために、「父よ、御名があがめられますように」と言って、十字架の死を受け入れられたのであった(ヨハネ一二・二七〜二八)。
 わたしたちもキリストにあって子とされ、「父よ!」と祈る。子はその存在を親から与えられている。「父よ!」と祈る者は、その方を自己の存在の源泉としてあがめているのである。《エヒエー》(わたしはハーヤーする)という名の前にひれ伏して、その御名を賛美しているのである。自己の存在を与えられているだけではない。父の慈愛と信実とによって赦され、救われ、生かされているのである。「御名をあがめる」というのは、自分が無となって、自分の存在も救いも命も一切が父の慈愛と信実に依存していることを認め、そのことを自分の全存在をもって告白することである。この祈りは口先の祈りではない。信仰者の全生涯をもってする告白行為である。
 親が無条件に子を愛しよい物を与えてやまないように、神の慈愛はそれを受ける資格とか値打ちのない者にもよき賜物を与えてやまないのである。このような価値なき者に働きかける神の慈愛を「恩寵」とか「恩恵」と呼ぶ。わたしたちが救われ、神の子とされたのは恩恵によるのであって、決して自分の側の資格によるものではない。自分が徹底的に無資格・無価値の場にひれ伏して、義とか命を恩恵として与えて下さっている父をあがめる時、それが「御名をあがめる」ことなのである。
 ところが、人間は本性的に自分の価値や功績を誇り、神の恩恵を恩恵として認めず、神の慈愛を無用のものとする。これは「御名を汚す」ことである。そのような御名を汚してやまない人間の本性が打ち砕かれ、神の恩恵だけがあがめられるようになるのは十字架の場である。わたしの罪のために死なれたキリストをひれ伏して仰ぐ時、自分の功績や資格は打ち砕かれ、恩恵だけが一切となる。十字架の場において初めて、わたしは真に御名をあがめることができるようになる。
 このように人は神の恩恵によって救われるのであるが、自分が無となって恩恵を恩恵として受け取る人の姿が「信仰」であるから、人は「信仰によって救われる」と言われるのである。恩恵と信仰とは表裏一体である。恩恵が恩恵として人に注がれる時、それを受ける信仰は人が無となっている姿である。
 ところがいつの間にか、信仰が神から救いを受けるのに必要な資格としての人間の側の信念とか忠誠というようなものになっていることが多い。信仰がこのようなものになる時、御名はあがめられず、人間があがめられることになる。
 大体、人が神を信じるとはどのようなことなのか。人格関係は言葉によって形成されるが、神と人との関係は神の言葉によって形成される。その際、人が神の言葉を信じるとは、人が神の言葉を理解し、承認し、決意とか誠意をもってその言葉に従うというようなことではない。人の誠ほど当てにならぬものはない。人の誠の上に成り立つ神人関係というものは、朝に咲き夕べに枯れる野の花のようにはかないものである。神と人との関係において、岩のように堅い土台は神の誠、神の信実である。神にはいささかの偽りもない。神は御自身の言葉を必ず成し遂げられる。神の誠、神の信実は絶対である。この神の信実だけをあてにして御言を受け入れ従うことを「神を信じる」と言うのである。そこでは人間の側の誠という意味の信仰は無となり、神の信実だけがあがめられていることになる。すなわち、御名があがめられているのである。
 このように、まことの信仰は自己を無とし神の恩恵と信実だけをあがめる。神の子は自分の存在、救い、命一切を父の恩恵の賜物として、父に栄光を帰す。そして父の信実だけに頼って御言に従う。そのような信仰によって、身をもって父の慈愛と信実とをあがめるのである。信仰は自分の全生涯を通して父の栄光が世に顕されることを求めて祈り続ける、「父よ、この身を通してあなたの名があがめられますように!」。

主イエス・キリストの御名によって

 イエスは御子として直接父と交わり、「父よ!」と祈ることができた。わたしたちは本来神の子でありながら、本性的に神に反逆し子としての実質を失い、直接「父よ!」と祈ることができない。わたしたちは「キリストにあって」はじめて「父よ!」と祈ることができるようになる。すなわち、イエスを復活者キリストと信じ、この方に自分の全存在を委ねて結び付き、この方の十字架による罪(背神の罪)の赦しに与り、恩恵の賜物として聖霊を受け、この聖霊によって「アッバ、父よ」と祈るようになるのである。このように「キリストにあって」祈ることを「主イエス・キリストの御名によって」祈ると言うのである。
 神はイエスを死人の中から復活させることによって最終的に御名を啓示された。すでにイスラエルの祖アブラハムは「死人を生かし、無から有を呼び出される神」を信じた(ローマ四・一七)のであるが、神もまたイスラエルの歴史の中で、無から有を呼び出す創造者であることを啓示し、死人を復活させて救いの業を完成することを約束してこられた。そしてイエスを死人の中から復活させることによってその約束を実現されたのである(使徒行伝一三・三三)。イエスの復活はアブラハムから始まる御名の啓示の歴史の完成である。神はイエスを復活させてイスラエルの中での啓示の歴史を完成し、それによって全人類に神の究極の御名を啓示されたのである。その名は「死人を復活させる者」である。「復活」は神の別名である。復活以前の神は神でない。死人を復活させない神、死を打ち破ることのできない神は神でない。
 それ故、神がイエスを復活させた方として宣べ伝えられている今、「御名をあがめる」とは、復活を信じること以下ではありえない。復活を信じるとは、イエスが復活されたという事実を信じるだけではない。イエスの復活は、すべて彼に属する者を復活させるとの神の約束である。人類に対する創造者の究極の約束である。自らは死の領域におりながら、神の慈愛と信実と御力だけに頼ってこの約束を信じ、今生きて働きたもう復活者キリストに結ばれて生きることである。今「御名をあがめる」とは、自分の存在の根源である方を、自分を死人の中から復活させる方として知ることである。

 「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中から復活させ、それにより、わたしたちを新たに生まれさせて生ける望みをいだかせ、あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産(復活)を受け継ぐ者として下さったのである」。 (ペトロ第一の手紙一・三〜四)

 このように、わたしたちが今主イエス・キリストの御名によって、「父よ、あなたの名があがめられますように!」と祈る時、父とはイエスを復活させた方であり、それによってわたしたちを復活させると約束しておられる方である。その方の名があがめられるとは、「復活」という御名を世界に啓示し、同時にその十字架の死により贖罪の業を成し遂げ父の無量の愛を顕された主イエス・キリストがあがめられることである。
 「御名があがめられますように」という祈りは、主イエス・キリストの御名を世界に宣べ伝える福音宣教の原動力となる。この祈りは、「主イエス・キリスト」の名が啓示する「死人を復活させる神」、「ひとり子を賜うほどに世を愛する神」が賛美されるようになることを求めてやまないからである。御名を知り、御名を呼び求める者は、この世での職業や立場がどのようなものであれ、自分の生涯を通して御名が顕され、御名の栄光があがめられることを使命とせざるをえない。御名を宣べ伝える生涯とならざるをえないのである。
(天旅 一九八七年2号)