市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第20講

Y 主の祈り

第一講 アッバ、父よ!

祈りの師

 また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終わったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。(ルカ福音書 一一章一節)

 イエスは祈りの人であった。人里はなれた山中に、荒野に、また園の奥深くに、時には朝早く、時には夜を徹して、隠れたところにいます神との交わりを持たれた。その祈りがイエスの力の源泉であり、人格の秘密であった。弟子たちはその源泉に触れ、その秘密を知りたかった。信仰の世界では、師から学ぶべきものは知識ではない。祈りの秘訣である。イエスもまた弟子たちに聖書の知識や新しい教義を教えようとはされなかった。御自身が生きておられる祈りの次元に弟子たちを導き入れようとされたのである。
 バプテスマのヨハネも弟子たちに祈りを教えていた。大体、どの宗教教団も固有の祈りを持っている。教義よりも、その祈りの内容に、その教団の信仰の質がよく現れている。教団はその祈りによって立つ。イエスも御自身の民に、教義ではなく、祈りを与えられた。それが「主の祈り」である。イエスの民とはこの祈りに生きる民のことである。
 イエスがここで弟子たちに教えられた祈りは、イエス御自身が生涯を貫いて祈られた祈りと別のものではない。イエスは御自身が祈っておられないことを、弟子たちに祈るように求める方ではない。これはイエスが命がけで祈られた祈りである。この祈りはイエス御自身である。我々も、この祈りを命がけで祈ることによって、少しはイエスのお心と歩みを窺い知ることができるようになるのである。

二つのテキスト

 「主の祈り」には二つのテキストが伝えられている。内容に入る前に、次ページに二つのテキスト(私訳)を掲げ、その異同について簡単に触れておく。
 マタイとルカは、自分の福音書に「主の祈り」を入れるにあたって、共通の文書資料を用いたと見られる。その共通の資料は、おもにイエスの言葉を集めた「語録集」であって、マタイとルカは、この「イエスの語録集」の中に伝えられている「主の祈り」を、それぞれの傾向に従って編集して使用したと考えられる。
 二つのテキストを並べてみるとすぐ分かるように、ルカの方が短くて簡単である。これが元の形(共通の語録資料)により近い形であって、マタイの方は集会の典礼で用いるために拡張され、より整った形式にされたものと考えられる。しかし、用語はマタイの方が原語であるアラム語の語法をよく残している(エレミアス)。これは、マタイ福音書がアラム語を話すユダヤ人キリスト教徒との密接な関わりの中で成立したからである。
 それに対して、ルカは異邦人キリスト教徒のために書いているので、アラム語法より一般的で理解し易い用語を用いる傾向がある。たとえば、アラム語では罪はふつう負債と言われるが、マタイはそのまま用い、ルカは罪という用語にしている。

 マタイ福音書 六章九〜一三節

「天にいますわたしたちの父よ、
あなたの名があがめられますように、
あなたの支配が到来しますように
あなたの意志が行われますように、
 すべて天におけるように地においても。

わたしたちに明日の糧を今日お与えください。
わたしたちの負債をお赦しください、
 わたしたちも、わたしたちの負債者を
 赦しましたように。
わたしたちを試練に陥らせず、
 悪しき者から救い出してください」。

 ルカ福音書 一一章二〜四節

「父よ、
あなたの名があがめられますように、
あなたの支配が到来しますように。

わたしたちに明日の糧を日々お与えください。
わたしたちの罪をお赦しください、
 わたしたちも、わたしたちに負債のある者をみな赦しますから。
わたしたちを試練に陥らせないでください」。

主イエスの祈り

 そこで、イエスは弟子たちに言われた、
「祈るときにはこう言いなさい、『父よ!』」。  (ルカ福音書 一一章二節)

 「わたしたちにも祈ることを教えてください」と言った弟子たちに、イエスは御自身の祈りの核心をまず与えられる。それは「父よ!」という祈りである。イエスはいつも、当時の宗教用語であるヘブル語ではなく、日常の生活用語であるアラム語で「アッバ!」と神に呼びかけられた。唯一の例外は、十字架上で「エリ、エリ、(わが神、わが神)・・・・」とヘブル語で叫ばれた祈りであるが、これは詩篇二二篇の祈りをそのまま叫ばれたものであって特別である。「アッバ」という語は、日常の家庭生活の中で子供が父親を呼ぶときの用語であって、当時の敬虔なユダヤ人には、至高の神を「アッバ」と呼ぶことは考えられないことであった。事実、ユダヤ教の文献にはこのような実例はない。
 イエスがいつも「アッバ」と祈っておられるのを聞き、また「アッバ」と祈るように教えられ、弟子たちにはこのアラム語の一語が師直伝の最も貴重な言葉となり、他の語に置き換えることはできなかった。それで、弟子たちがギリシャ語で福音を宣べ伝えるようになった時にも、この語だけはアラム語のままで伝え、ギリシャ語を話す異邦人キリスト者も「アッバ父よ」と祈るようになったのである(マルコ一四・三六、ローマ八・一五、ガラテヤ四・六)。
 イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた時、聖霊を受け、「あなたこそわたしの子、わが愛する者である。わたしはあなたを喜ぶ」という天からのみ声を聞かれた。「わが子よ!」と呼びかけ給う方は、御自身を父として啓示しておられるのである。イエスにおいて、地上の人が神の霊を受け、神と同質の命に生きるという現実が始まったのである。「天が裂けて」新しい《アイオーン》(時代)が到来したのである。「アッバ(わが父よ)!」のイエスの祈りは、この現実の最も直接的な告白である。人が子として父なる神とのひとつなる交わりの中に生きる現実、ここではサタンの支配は打ち破られ、神の支配(神の国)が到来しているのである。
 イエスはこの交わりの中で父の啓示を受け、その父を世に示すことを父から委ねられ、それを生涯の使命とされた。イエスはこう言っておられる、「わたしの父はわたしに(秘伝の)全部を伝え委ねた。息子を知るのは父親だけであり、父親を知るのは息子と、その息子が啓示してあげようと望む者たちだけである」(マタイ一一・二七)。イエスの宣教はすべて父を世に示すためであったと言える。ただ示すだけではない。人々を父との交わりの現実に導きいれ、サタンの支配から解放し、神の支配の下に置くためであったと言える。だから、イエスが「「アッバ」と言え」と求められる時、それはイエスの宣教の全部を含んでおり、神から世界への最も根本的な呼びかけを代弁しておられるのである。
 イエスはこの「アッバ!」の祈りをもって生涯を貫かれた。父のみ心に自分を委ねることが死を意味する時も、この祈りを貫かれた。ゲッセマネの祈りはそういう祈りである。そして、十字架の上で「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と息絶える時まで、イエスはこの祈りに全存在を、命を賭けた方であった。

本心に立ちかえって

 「父よ!と祈れ」と教えられても、そう祈れないところに人間の罪が露呈する。その言葉は唱えることはできる。しかし、「父よ!」という一言の祈りに自分の全存在を賭け、その中に含まれるイエスのあの祈りの内容を命懸けで祈れる者はない。この祈りを己れの本性の願いとして生涯を貫かざるをえない、という者はない。それができるのは本来神の御子であるイエスだけである。われらはみな子でありながら子の実質を失った者である。われら人間はみな、父に背を向け、父から離れ去り、自分勝手な道を行く放蕩息子である。
 イエスはこの「『父よ!』と言え」という求めを、一つの感銘深いたとえで語られた。有名な「放蕩息子のたとえ」である(ルカ福音書一五章)。父親の財産を持って遠くの地にいき、そこで遊蕩に使い果たし、食べる物もなくなった息子は、「本心に立ちかえって言った、『立って、父のところに帰ってこう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません』」。
 こうして帰って来た息子を、父親は走りよって迎え、最上の着物と指輪と履き物を与え、子として扱い、大きな祝宴を開いたのである。この譬でイエスは、すべての人が子としての本心に立ちかえり、「父よ!」と言って帰ってくるように、また父は帰ってくる者を無条件で喜び迎え、子としての実質を与えてくださることを語っておられるのである。
 イエスはまた言われた、「立ちかえって子供のようにならなければ、天国に入ることはできない」(マタイ一八・三)。このみ言葉も「父よ!と言え」との呼びかけのひとつの表現である。当時のユダヤでは、子供は純真無垢の象徴ではなく、むしろ自分では何もできない無能力を象徴するものであったと言われる。子供が全面的に親に依存しなければ生きていけないように、人は「父よ!」の祈りに全存在を賭けて神に自分を任せるのでなければ、天国の現実に入っていくことはできない。イエスはここでも御自身の姿を告白されているのである。
聖霊による祈り

 今、福音が世界に宣べ伝えられ、わたしたちの所まで来ている。福音は背き去った子たちへの父の呼び声である。自分で本心に立ちかえることもできない者たちのために、神が御自身の側で和解の業を成し遂げて、帰ってくるように呼びかけておられるのである。

 「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、
あなたの罪を霧のように消した。
わたしに立ちかえれ、
わたしはあなたをあがなったから」。 (イザヤ四四・二二)

 罪なき神の子キリストがわたしの罪のために死なれた。この神のあがないのみ業である十字架の下にひれ伏す時、わたしは全身で最初の「父よ!」を祈っているのである。十字架されしキリストに合わせられている場、これ以外に本性的に神に逆らっている人間が「父よ!」と祈れる場はない。
 帰ってきた放蕩息子に、父親は走りよって子の身分を証する指輪を与えたように、十字架の下にひれ伏す罪びとに、神は子たる身分を授ける御霊を与えてくださるのである。キリストを信じる者に聖霊を与えてくださることは、「父の約束」であり、福音の最も中心的な内容である。この聖霊が人に神の子としての実質を与え、真に「アッバ!」と祈らせるのである。

 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち神の子である。あなたがたは再び恐れを抱かせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アッバ、父よ!」と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることを証ししてくださる」。          (ローマ八・一四〜一六)

 わたしたちは自分の本性では決してこの祈りをすることはできない。キリストにあって、聖霊によって初めて、全存在が「アッバ!」と祈るようになる。聖霊によって初めて、イエスの祈りと同じ次元の祈りに入っていくことができる。その時、この「主イエスの祈り」はわたしの祈りとなり、存在の奥底から溢れる祈り、生涯そう祈らざるをえない祈りとなる。それはわたしが神の子とされ、神と同質の命に生きる者とされたからである。もはや奴隷ではない。外からの命令に恐れをもって拘束されている者ではない。イエスと共に、喜ばしい自由の中に、この祈りを本心からの願いとして生きる者にされているのである。

天にいますわれらの父

 以上見てきたように、イエスの祈りは端的な「アッバ!」であり、わたしたちにもそう祈るように教えられたのである。「アッバ」は本来「わたしの父」であるが、この「アッバ」を祈る者たちの交わりにおいては、「わたしたちの父」となる。わたしの父も、彼の父も同じ方であるから。そして、同じ父をもつ自覚がお互いを兄弟の交わりに導き入れる。キリストにある者はお互いに兄弟だと言っても、聖霊によって真実にこの祈りを祈っているのでなければ、それは中身のない空しい言葉に過ぎない。
 この「わたしたちの父よ!」が、人種、国籍、文化の差異を超えて広がる時、真の人類共同体が地上に出現する。終わりの日、神の約束が成就し、あがなわれた神の子たちの群れが地上に起こされる。彼らはイエスを先頭に、この祈りを共にする群れである。しかし、口で唱えているだけでは駄目だ。聖霊により、命懸けで祈り生きるのでなければ、キリストに属する群れではない。
 わたしたちは地にあって、「天にいます父よ!」と祈る。父は天にいまし、わたしたちは地にいる。天は見えざる世界、時間を超えた永遠の霊界、移り行かざる次元である。地は見える世界、時の流れの中に流転する無常の世界である。地にあるわたしたちは、天にいます神を直接知ることはできない。しかし、キリストにあって聖霊により、「アッバ!」と全身を投入する時、天にいます父が地にあるわたしとかかわり、働いてくださる。祈りが天と地とを結ぶ。そこに人の思いを超えた不思議な世界が展開する。

 「父よ、あなたは天にいまし、わたしは地におります。
  この地にいるわたしが、天にいますあなたとかくも現実的なかかわりをもちえますこと、
  それはあなたの恩恵であり、わたしにとって救いであります。
  かく、地にあって天を宿し、天に連なる喜びをもちえますことを、こころより讃美します」。

(天旅 一九八七年1号)