市川喜一著作集 > 第5巻 神の信に生きる > 第19講

X 福音書ところどころ

7 新しく生まれなければ

「はっきり言っておく。人は新しく生まれなければ、
  神の国を見ることはできない」。

(ヨハネ福音書 三章三節)

永遠の命への問い

 人間には永遠を慕い求める本性があるようです。死ねば自分はいなくなるという考えは、どうしても納得できない、死後もなんらかの形で自分は存在するのだ、というのが人類の大多数の確信でした。たとえば、体は死んで朽ち果てても霊魂は存続するという霊魂不滅の信仰とか、どこかに生まれ変わってくるという輪廻説とか、さまざまな形で死後の存在が信じられております。いちばん普通の形は、死んだ先祖の霊を祭るという祖霊崇拝の形です。これが宗教の最も原初的で普遍的な形態であると言われています。
 その中でイスラエルの宗教は元来たいへん地上的で、ヤハウェなる神との間に結んだ契約を守ることによって、約束された土地を確保し、そこで子孫が増えて民族が繁栄するという祝福を受けることを内容としていました。けれども、このようなイスラエルの中でもイエスの時代には、やはり地上の生を超える個人の運命に深い関心が持たれるようになっていました。たとえば、マルコ福音書十章にはイエスに向かって、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と訊ねた金持ちの青年のことが伝えられています。これは永遠の生命を求めないではおれない人間共通の問いを代表するものでしょう。
 死によって終わる地上の生ではなく、死によっても朽ちることのない神と共なる生命を求めて、この金持ちの人物は若いときから宗教に熱心な生活をしてきました。けれども、どうしても永遠の生命を持つ確かさとか喜びは得られませんでした。永遠の生命がなければ、地上の財産も名誉も一時のもの、かりそめのものにすぎません。この人が、神の力によって業をなし語っておられるイエスに出会って、この方こそ永遠の命に至る道を教えてくれる「善い先生」だと感じて、イエスの前にひざまずいて訊ねたのでした。
 たしかに「善い師」、「善知識」に出会うことは人生の最大の幸福です。教義の体系になってしまった宗教は、いくら熱心に研究したり実践したりしても、永遠の生命を持つ喜びを与えてくれません。それはむしろ、真実の生命に生きている人物に出会うことによって目が開かれるものです。この金持ちはイエスこそ自分にとって「善い先生」だと直感してひれ伏したのでしょう。
 ところが、イエスは「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言って、ご自分を含め人間に「善い先生」を求めることを厳しく拒まれます。後で明白に語られるところですが、永遠の命を受けることができる場に人を導き入れることは、「人間にできることではないが、神にはできる」ことだからです。このような次元では、神だけが「善い」者と言えるのです。

自分が変わらなければ

 ここにもう一人、「善い先生」を求めてイエスのもとに来た人物があります。ヨハネ福音書三章に記されているニコデモです。パリサイ派に属する最高法院の議員として、彼はユダヤ教に十分な知識を持っていました。彼も若い時から律法(ユダヤ教)の研究に励み、厳格に律法を守って、議員という最高の地位にまで上ったのです。それでも彼は自分に本当の命の道を示してくれる「善い師」を必要としていたのです。夜ひそかにやってきて、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」と言っています。彼はイエスを「神のもとから来られた教師」と認め、「神が共におられる」イエスの命の世界の消息を訊ねようとしたのです。
 彼が質問の言葉を発する前に、イエスは問題の根源を単刀直入に喝破されます。「はっきり言っておく。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。イエスはこう言っておられるのです、「あなたがたは自分の外にある律法(宗教)を研究し、理解し、遵守すれば、永遠の生命にいたるのだとして努力しているが、そう努める自分自身をそのままにしている限り、まことの命にいたることは決してできない。あなたがたの生命の質は神のいのちと相反し、どのように知識や善行を積み重ねても、それで自分の生命の質を変えることはできない。あなたがたが生まれながらにもっている生命とは全然別種の生命を上からいただいて新しく生まれるのでなければ、今ここで永遠の生命を宿し、それによって神の国の現実を味わうことはできないのだ」。
 じつは、マルコ福音書十章のあの金持ちの人にも、イエスは同じ事を言っておられるのです。彼は「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と訊ねています。それに対してイエスは、「『何をすればよいのか』と訊ねるのであれば、それを教える神の戒めはあなたがすでによく知っているはずだ」と言って、モーセの律法を引用されます。するとその人は、「それらの事はみな、若い時から守ってきました」と答えています。彼は為すべきことを知っており、それをすべて行っているのです。それでも自分の中に永遠の生命がないこともよく自覚しているのです。ここで彼は「何をなすべきか」という問いの立場そのものが間違っていることに気づかなければならないのです。永遠の生命とは、たとえそれが神の戒めを守ることであっても、人間が何かを為して獲得するような性質のものではないのです。
 このことを気づかせるために、イエスはこの人に、すべての財産を売り払って貧しい人たちに施し、自分について来るように求められます。これは、永遠の生命を得るための条件として慈善を行うことを求めておられるのではありません。自分自身をそのままにして「何をすればよいでしょうか」と訊ねる立場、自分が為すこと、自分が所有しているものに根拠を求める立場を粉砕するためです。ところがこの金持ちの人はそれが理解できず、悲しげに立ち去っていきました。それを見てイエスは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言っておられます。この金持ちだけではありません。人間はみな自分を無にすることはできません。弟子たちもこのことを直感したようです。イエスのこの言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言っています。そこでイエスは「人間にできることではないが、神にはできる」と言われるのです。永遠の命を受けるにふさわしい場、すなわち自分が砕かれて無となっている場に人を導き入れるのは、人間ができることではなく、ただ神だけがなされることなのです。

霊から生まれる者

 では、神はこれをどのように為されるのでしょうか。そのことについてイエスとニコデモの対話を聞いてみましよう。イエスが「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われたのに対して、ニコデモは驚いて、「年をとった者が、どうして生まれることができましよう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と言っています。イエスが「新しく生まれる」と言われるのは、「上より生まれる、すなわち神の霊の働きの中から生まれる」ことを指しておられるのです。イエスはそのことを明白に語っておられます。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。ところが、ニコデモは霊の世界のことが分かりません。「新しく生まれる」ことを、「もう一度母親の胎内に入って生まれる」こととしか理解できないのです。
 人間は何度生まれ変わっても、やはり同じ人間です。「肉から生まれるものは肉である」のです。「肉」というのは、生まれながらの人間本性です。そこから出てくるものは、どのような言葉で飾ってみても、やはり朽ち果てる人間の限界内のもの、永遠の生命にいたることはできないものです。「霊から生まれるもの」だけが「霊である」と言えるのです。「霊である」とは、霊なる神とのつながりをもつことができる次元を人間が内に宿すことです。霊の次元に生きることによって初めて、人間は永遠の生命に与り、神の国の現実に入っていくのです。
 「霊から生まれる」ことについてイエスはさらに、風にたとえて次のように言われます。ヘブライ語でもギリシヤ語でも「霊」と「風」、さらに「気、息」とは同じ単語です。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。人間は風の吹く道筋を把握することはできないし、またその道筋をコントロールすることはできません。ただ風がたてる物音によって風が吹いていることを知るだけです。そのように、神の霊が働かれる時、その働き方を人間が理解して教義にしたり、祭儀や呪術でコントロールすることはできません。自分を空しくして、霊の働きに身を委ねることができるだけです。けれども、霊の働きの中から生まれる時には、今までになかった新しい次元が自分の中に始まっていることに気づきます。
 このように人間が「霊から生まれる」ということがあるとしても、それはどのようにして起こりうるのでしょうか。ニコデモもここで、「どうして、そんなことがありえましようか」と戸惑い、立ち止まっています。もうこれ以上説明のしようはありません。後は証言があるだけです。イエスは「人の子」とか「荒野で上げられた蛇」というような旧約聖書の用語を用いて、神が人間に永遠の命を与えるために成し遂げられるみわざを証言されます。証言は信じるか信じないかだけが問題になってきます。信じない者には、それは謎です。そして、「信じる者は皆、人の子によって永遠の命を得る」のです。イエスとニコデモの対話はここで終わります。
 今回イエスがニコデモに語られたお言葉を取り上げたのは、現代の人々にもこの言葉の前で立ち止まっていただきたかったからです。現代人は自分自身の問題は棚上げして、ひたすら外に向かって働きかけています。自分の在り方そのものは問わないで、「わたしは何をしたらよいのか」だけを問題にしています。そして、その問いに対する回答を人間の思想に求めます。そのような現代人にこの御言葉は語りかけるのです、「問題はあなた自身の中にある。あなたが神の霊によって新しく生まれ、今までのとは別種の生命に生きるのでなければ、永遠の次元を見ることはできない。そして、これを人間に求めても無駄である。このことは人間にはできないことであり、神だけができることであるから」と。
 では、「神の霊によって新しく生まれる」にはどうすればよいのでしょうか。じつは、そのために成し遂げられた神の業を、福音が証言しているのです。イスラエルの歴史の中で約束されていたとおり、キリストが時満ちて現れ、その十字架上の死によってわたしたちの罪をあがない、三日目に復活して、人間が新しい命に生きる時代を開かれた、と証言しているのです。この福音の証言を信じる者に、神は現に聖霊を与えて新しく生まれさせ、永遠の命の喜びと神の国の希望に生きるようにしてくださっているのです。これ以上の説明はできません。キリストの福音を信じて、新しく生まれることを自ら味わってくださることを願います。
(アレーテイア 40号  一九九〇年)